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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

映画にとってインターネットとは何か(8) (SNSへの)無知がもたらす予期せぬ奇跡

 

 フェイクドキュメンタリーとSNS――『クロニクル』

 これまで、フェイクドキュメンタリーに対する最大のツッコミ所は、「なぜ危険を冒してまでカメラを回し続けるのか?」ということだった。もちろんそこで撮影を止めてしまえば映画にならないのだが、戦場カメラマンならいざ知らず、ふざけて心霊スポットにやってくるような軽薄な学生たちが死の直前までカメラを回し続けるというのは、どうしても不自然で、ご都合主義的に見えてしまう。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス、1999年)の非常時にも撮影を続ける女を仲間たちが批難するシーンや、『REC/レック』(ジャウマ・バラゲロ、パコ・プラサ、2007年)の「何があっても撮り続けて」という自己言及的な台詞からも、制作者たちの苦心の跡が見て取れるだろう。

 

ブレア・ウィッチ・プロジェクト <HDニューマスター版> Blu-ray

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REC/レック [Blu-ray]

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 けれども今や、この問題は過去のものになりつつある。2010年代に入り、「なぜ危険を冒してまでカメラを回し続けるのか?」という疑問に縛られない開放感を持ったフェイクドキュメンタリーが目立ち始めたのだ。フェイクドキュメンタリーという表現自体が慣習化・一般化し、危険を冒してカメラを回し続ける行為がひとつの様式として受け入れられるようになったことも一因としてあるだろうが、それに加えて、YouTubeやVimeoなど動画共有サービスの普及がこの変化に深く関わっていることは間違いない。日々投稿され、SNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)やバイラルメディアを通じて拡散を続ける膨大な動画群を見る経験によって、わたしたちは、「危険を冒してまでカメラを回し続ける」行為がそれほど特殊なものでないことを知り、また、そうした撮影によって得られる映像がどのようなものかを知ることになった。映像のリアリティ(本当らしさ)の基準や、映画世界への没入の条件が、いつしか書き換えられているのだ。

 例えば2012年にジョシュ・トランクが制作した『クロニクル』。超能力を得た若者たちがその力を利用した悪戯の様子をビデオカメラで記録し続けることに、2010年代の観客はとりたてて疑問を抱かないだろう。日本ではバイトテロやバカッターと呼ばれているが、アメリカでも、コンビニやファーストフード店の店員が商品に悪戯する様子を撮影してアップしたり、犯罪行為の報告を喜々としてSNSに投稿したりする事件が相次いでいる(「ツイッターのつぶやきが原因でクビになったアメリカの10人」、カラパイア)。従って、もしも「超能力」が現実に使えるようになれば、それを撮影して見せびらかす者が出てくることは容易に想像ができるし、ジョシュ・トランクもそうした状況を踏まえて映画制作をおこなっている。現代の観客がバイトテロやバカッター的な動画を見た記憶に働きかけるカメラワークや演出を用いることで、「なぜ危険を冒してまでカメラを回し続けるのか?」といった疑問をショートカットして、すぐさま物語世界に没入できる仕組みを取り入れているのだ。

 


映画「クロニクル」予告編 - YouTube

 

 

 常時接続――『イントゥ・ザ・ストーム』

 『クロニクル』と同じく、動画共有サービスとSNSの普及以後を代表するフェイクドキュメンタリーとして『イントゥ・ザ・ストーム』(スティーヴン・クォーレ、2014年)を挙げることができる。田舎町を襲った巨大な竜巻を前にした人びとのドラマを描いた本作において、もっとも無謀で馬鹿げた行動をしながら、ある意味ではもっとも「現実にこういう人いそう」というリアリティを持っているのが、動画の再生回数を稼ぎたいがために竜巻に突っ込んでいくユーチューバー、ドンクとリービスの二人組である。

 


映画『イントゥ・ザ・ストーム』予告編 - YouTube

 

 竜巻に魅せられて各地で撮影を続けるドキュメンタリー制作者のピートや、竜巻の進行ルート上に取り残された息子を助け出そうとする父親のゲイリーといった他の主要な登場人物と較べて、ドンクとリービスは明らかに「場違い」な存在だ。危険なのは分かっているはずなのに大した装備もなく出かけて行き、竜巻が間近に迫ってもまったく緊張感を持たない。常に状況とずれた振る舞いを続けるのである。

 研究者の和田伸一郎は『存在論的メディア論――ハイデガーヴィリリオ』(新曜社、2004年)において、携帯電話で通話をする際に、目の前にはいない通話相手にお辞儀をしたり身振り手振りを交えて話をしてしまう経験について分析をおこなっている。和田によれば、「ここ」にはいない通話相手との対話に没入するためには、自分自身が「ここ」にいるという意識を麻痺させ、忘却しなければならない。そしてこの時、「ここ」にはいない通話相手と対話する精神としての身体=〈仮想的身体〉と、どうしても「ここ」に残されてしまう肉の塊としての身体=〈生身の身体〉の分裂が起こる。あの場違いなお辞儀は、「ここ」にはいない〈仮想的身体〉がおこなったお辞儀が、ただの肉の塊である〈生身の身体〉を通じて「ここ」に幽霊的に現れたものだというのだ。

 

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

 

 

 ドンクとリービスは竜巻映像のリアルタイム配信をおこなっているわけではなく、GoProなどで撮影した映像を事後的に編集・公開することを目指している。けれども彼らは、数多くのネットユーザーによって「見られること」を内面化しており、常にYouTubeで公開された自分たちの姿を意識しながら行動している。要するに、たとえオフラインの時であっても彼らの〈仮想的身体〉はインターネットと常時接続しており、「ここ」ではないどこかでネットユーザーたちとのコミュニケーションがおこなわれているのだ。従って、彼らが巨大竜巻を恐れる様子を見せないのは「勇敢だから」ではない。竜巻が間近に迫る「ここ」に彼らの〈仮想的身体〉はなく、肉の塊である〈生身の身体〉だけが取り残された結果があの場違いな振る舞いなのだ。

 

 

 SNSへの無知――『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

 ドンクとリービスのように、ネットユーザーに「見られること」への意識が場違いな行動を誘発してしまうのは決して珍しいことではない。例えば『ゴーン・ガール』(デヴィッド・フィンチャー、2014年)において、妻の失踪という深刻な問題を抱えたニックは、捜索に協力するボランティアの女性にツーショット写真を求められ、カメラを向けられると反射的にベタな笑顔をつくってしまう。結果、その写真はFacebookにアップされて拡散し、案の定、不謹慎な男だとして「炎上」してしまうのだ。このことはもちろんニックのネットリテラシー不足が原因であるのだが、一方で、彼がSNSに関する知識をまったく持っていなければ起こり得なかった事態でもある。「Facebookに掲載される写真にはこのような表情で写るべき」という暗黙の規範をニックが内面化していたことが、炎上という事態を招いたのだ。

 

 

 このように、SNSが人びとの世界の見方や行動を一律に変えるのではなく、それへのコミットの度合いによってまったく異なる景色を見せることに注目し、それを巧みに利用した物語をつくりあげたのが、メキシコの映画作家アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥである。

 


映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』日本版予告編 - YouTube

 

 イニャリトゥが2014年に制作した『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』では、SNSについて何の知識も持たない劇作家のリーガンに対して、彼の娘であり付き人でもあるサムがSNSの重要性を伝えようとする。かつてはヒーロー映画の主演をつとめて世界的な名声を得ながらも現在は忘れられた人となり、ブロードウェイの舞台演出で起死回生を計るリーガンにとって、公演の話題づくりや自身の名声を高める可能性を持ったSNSを利用することは大きなメリットとなるはずである。しかし彼は、一向に娘の言葉に耳を貸さない。業界で大きな影響力を持つ批評家や新聞の劇評、実際に公演に訪れる観客の目は気にしても、SNSにはまったく関心を持とうとしないのだ。

 ところが皮肉なことに、そうした無関心と無知こそが思わぬ奇跡をもたらすことになる。映画の終盤、リーガンは数々のトラブルや偶然が重なった結果ブロードウェイを下着一枚で歩くことになり、さらには思い余って舞台上で自殺未遂を起こしてしまうのだが、それがきっかけで彼は一躍有名人へと返り咲く。その強力な後押しをしたのが、他ならぬSNSであったのだ。

 リーガンの奇行を目の当たりにした人びとが撮影した写真や動画、目撃談は、瞬く間に世界中に拡散していく。元有名人が半裸で歩くとか、公開で自殺未遂をするというのは、明らかにインターネットやSNSでバズりやすい(爆発的に多くの人びとに拡散しやすい)ネタであるのだが、そうした行為がヤラセであったり、話題づくりであることがバレてしまった場合には、一転して負の「炎上」のネタとなる危険性が伴う(ネットユーザーは情報発信者の自意識におそろしく過敏である)。リーガンの行動がおおよそ肯定的・同情的な支持を得られたのは、この時代にあって彼がSNSに対してまったく無知であり、自分がそこでどのように見られるかということについてまったく無関心であったが故の奇跡なのだ。