ロバート・スタム、ルイス・スペンス「映画表現における植民地主義と人種差別 序説」1983年
ロバート・スタム、ルイス・スペンス「映画表現における植民地主義と人種差別 序説」原著1983年、奥村賢 訳
岩本憲児、武田潔、斎藤綾子 編『「新」映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』フィルムアート社、1998年
「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー (歴史/人種/ジェンダー)
- 作者: 岩本憲児,斉藤綾子,武田潔
- 出版社/メーカー: フィルムアート社
- 発売日: 1998/01/01
- メディア: 単行本
- クリック: 3回
- この商品を含むブログ (36件) を見る
・本論文では、映画作品における植民地主義や人種差別を扱う既存の研究が暗黙のうちに前提としている方法論を踏み台として、それを乗り越える方法論を提示することを目指す。
・従来の研究は、映画の物語における社会描写や人物描写ばかりを強調する傾向があり、映画が「本来的に組み立てられたものであり、つくりあげられたものであり、表象化されたものであるということ」(p.177)を直視していない。植民者の被差別者に対する傲慢や偏見に目を向けさせるという点では重要な役割を果たしてきたが、一見すると被差別者を肯定的・魅力的に描こうとしている「陽性のイメージ」にも含まれている差別的眼差しや人種的偏見、家父長制的な干渉主義を見逃してしまいかねないという問題がある。
「われわれもコンテクスト的なもの、すなわち映画産業に関係する諸問題が、その製作、配給、公開の過程が、映画のなかに植民地主義や人種差別をもたらす社会制度や制作実務が、決定的に重要な意味をもっているということは百も承知しているが、ここではテクスト的なものと間テクスト的なものに焦点をあてて論じていきたい。」(p.177)
「反植民地主義的観点からの分析も、フェミニズム批評に影響されて方法論的には同じような軌跡をたどるにちがいないというのがわれわれの見解である。」(p.177-178)
※要約に際して小見出しを追加した。
定義
三つの言葉の定義
植民地主義
欧米の諸勢力がアジアやアフリカ、中南米地域を傘下におさめて、「経済的、軍事的、政治的、文化的支配権を確立していった過程」(p.178)。
第三世界
植民地主義による歴史的犠牲者。具体的には「植民地主義や新植民地主義によって植民地にされている国、あるいはようやく植民地支配から脱し、独立を遂げた国のことであり、植民政策の過程で経済構造や政治構造が決定されていったり、歪められたりしていった国々のこと」(p.178)。経済的・人種的・文化的地理区分についてよりも「構造的支配」に関する言説が必要である。
人種差別
人種差別はその多くが植民地化の過程で生み出されてきた。犠牲者たちは第二市民として抑圧的環境に置かれ、アイデンティティーをねじ曲げられる。作家のアルベール・ミンミの言葉を借りて、ここでは人種差別を「告発者が利するように、告発者の餌食となる者に犠牲を払わすかたちで、普遍的かつ決定的に、現実もしくは想像上の差異に価値をあたえること」「前者の特権や侵略を正当化するためになされるもの」(p.177〜178)と定義。
映画における植民地主義的表象
・ルネサンス期に「遠近法」的なものの見方のコードが創出され、カメラというイデオロギー装置(ジャン・ルイ・ボードリ)にも組み込まれた。そうした主客を分離する考え方に基づいて、ヨーロッパは自己のイメージ(「ヒューマニズム」「人間の諸権利」)を築き上げるとともに、他者のイメージ(「野蛮人」「人喰い」)をもつくり上げていく。男性優位主義が女性を「欠陥品」扱いしたのと同様に、こうした他者のイメージは、自己の思い上がりを映し出した鏡である。
「カメラがブルジョワ的ヒューマニズムのある種の特質を刻印する機器であるといえるのかもしれないのとちょうど同じように、映画やテレビといった装置は、きわめて包括的にいうなら、ヨーロッパ植民地主義のある特質を刻印するものといえるであろう。これらの装置が提供する魔法の絨毯は、われわれを地球上のあらゆるところに運び、われわれを視聴覚世界の支配者にしてくれる。支配者になれるのは、われわれがじつは主客の位置にあるからである。魔法の絨毯はわれわれを主客的存在にし、空想世界の征服者に祭りあげていく。魔法の絨毯はわれわれが権力意識をもつことについて肯定的である。だが、一方でそれは、第三世界の住民たちを、第一世界の窃視病的なまなざしに奉仕する見世物にしているのである。」(p.179)
映画誕生以前の植民地主義的表象
「植民地主義的表象は映画の誕生とともにこの世にあらわれてきたものではない。それは、植民地にかかわる広大な間テクストのなかで、広範囲にわたって散見される一連の多種多様な諸活動のなかで育まれていったものである。人種差別的な最初の映像がヨーロッパや北米の映画に登場するずっと以前から、欧米の文学では、植民地主義者のイメージが形成されていく過程を、それに対する抵抗も含めて反映するようなものがあらわれていた。」(p.179)
紋切り型の表現
「映画の草創期とヨーロッパ帝国主義の最盛期は重なり合っているから、ヨーロッパ映画が植民地について包み隠すことなく描いていてもそれほど驚くべきことではない。怠惰なメキシコ人やうさんくさいアラブ人、野蛮なアフリカ人や異国情緒あふれるアジア人が映画のスクリーンに次々と登場してくる。」(p.181)
・アーサー・ホタリング『ズールランドのラストゥス』1910年
→ アフリカが人喰い人種の住む大陸として描かれる。
・ウィリアム・F・ハドック『グリーザー・トニー』1911年
→ 奴隷制度の理想化。
・ガストン・メリエス『グリーザーの復讐』1914年
→ 奴隷制度の理想化。
・D・W・グリフィス『國民の創生』1915年
→ 奴隷を卑しい存在として描く。
・その他、何百本も製作されたハリウッド西部劇
→ アメリカ先住民を侵入者として描くという歴史の転倒。「非白人世界全体をとらえるとき、いかなる視点から眺めればいいかという範例の提供者」(p.181)
「なぜ第三世界を扱っている数多くの映画作品に、欠陥のある偏向的模倣とでも呼べるようなものが存在するのか。これについては、植民地主義的遺産の継承という観点から説明することができる。数かぎりない民族誌的誤りや言語学的誤り、なかには地形学的な誤りさえあるが、ハリウッド映画にみられるこうした誤謬はこうした遺産の継承がおこなわれていることの証左である。」(p.181)
構造的不在者
服従者の不在
「実像を歪めるような紋切り型の表現があるからではなく、服従を強いられてきた人々についての表現がないから、模倣が破綻をきたしている場合もときおりある。」(p.182)
・ジョン・マレー・アンダーソン『キング・オブ・ジャズ』1930年
→「ジャズを創出させた人々に敬意を表そうとした作品だが、とりあげられているのはヨーロッパの各種の少数民族であって、アフリカやアフリカ系アメリカ人についての言及はいっさいない。」(p.182)
・1900〜1930年頃のブラジル映画
→「ブラジルの黒人は映画のなかの構造的不在者であった。映画製作者たちは目の前にいる黒人たちより、すでに全滅させられ、神話的な存在となっていた「アメリカインディアンの戦士」のほうを優先的にとりあげた。奴隷制度が廃止されたのはブラジル映画が誕生するわずか一〇年前であり、奴隷制度の犠牲者であった黒人を扱うにはいろいろ問題があったからである。」(p.182)
・アルフレッド・ヒッチコック『間違えられた男』1956年
→「一九五〇年代のアメリカ映画には、この国には黒人などいないかのように感じさせる作品が多い。(中略)〔『間違えられた男』は〕ドキュメンタリー調で撮られているものの、黒人の姿はまったくといっていいほどみあたらない。ニューヨークの地下鉄だけでなく、拘置所においてすら、である。」(p.182)
一個人の不在
「不在が構造化されていくときには、人間そのものは相手にされなくて、その歴史や制度が取りあげられるのが通例である。アフリカ系アメリカ人の全史、もしくは各種の奴隷反乱を映画作品のなかで叙述したり表象化したりするような場合でも、(テレビのシリーズ番組『ルーツ』のように)すでに野垂れ死にしている一個人に焦点をあてて描かれることはめったにない。黒人教会についても同じで、その革命的な性格は無視される。かわりに選ばれるのが、カリスマ性のある指導者や恍惚状態にさせる歌や踊りのほうにばかり関心を寄せている映像である。」(p.182)
白人の不在
「逆説的だが、映画からの白人の排除という現象もまた、白人たちによる人種差別の結果であるといえる。今日の南アフリカ共和国には、黒人観衆のために白人が製作する映画があるが、一九二〇年代から三〇年代にかけて製作されたハリウッド映画作品のなかにも、これと似たものがあった。黒人だけしか出演しないミュージカルである。この種の作品が白人排除の方針をとっていたのは、白人が顔を出せば、いままで築いてきた空想的世界の精密な構造が破壊されてしまうからであった。」(p.182)
言語的不在
「植民地化された側の言語が消去されているような言語的不在もまた、そこでは植民地主義的判断が働いていることを示している。第三世界の人々が口にする言語は、後ろのほうでささやかれる、ごちゃ混ぜの理解不能な言葉にされてしまうことが少なくない。そして「原住民側」の主要登場人物たちは、植民者と話をかわすときにはつねに相手の言語圏のなかにはいって言葉を発しなければならない(ここでまたしても範例を提供してくれるのが、アメリカインディアンがピジン・イングリッシュを話す西部劇である)。」(p.182〜183)
・ウォルター・ラング『王様と私』1956年
→ イギリス人のアンナが、シャム王国の住民に英語で「文明世界の」礼儀作法を教える。
・リチャード・レスター『さらばキューバ』1980年
→キューバ革命を好意的に描くが、キューバ人にあくまで英語を話させることで一種の言語植民地主義を堅持。
・マーヴィン・ルロイ『ラテン系の恋人たち』1952年
→ 見当はずれな言語圏への帰属。ポルトガル語圏のブラジル人に(英語を話さないときは)スペイン語で話させる。
第三世界の映画作品
自らの歴史を語る
「このような数々の歪曲に対処するため、第三世界は自分たちの歴史を自ら書き綴ろうとしてきた。映画のなかの自分たちのイメージを管理しようとしてきた。口を開くときはみずからの言葉で語ろうとしてきた。植民地主義者が現地の住民について書き伝えたものがあるが、それは歴史から逸脱したものであった。たとえばかれらは、ベトナムやセネガルの子供たちに、おまえたちの「祖先」は古代ガリア人だと教えていたのである。第三世界の映画作品の多くに活気があるのは、正確にいうと、過去をとりもどしたいという思いが根幹にあるからだ。」(p.183)
・カルロス・ディエゲス『ガンガ・ズンバ』1963年
→ 17世紀のパルマレス共和国に焦点を当て、ブラジルにおける黒人反乱史を回想する。
・ウスマン・センベーヌ『エミタイ』1972年
→第二次世界大戦期の、フランスの植民地主義とセネガルの抵抗運動。
・ラクダル・ハミナ『熾火の日の記録(小さな火の歴史)』1975年
→ アルジェリア革命の見直し。
・ミゲル・リティン『約束の地』1973年
→ マルマドゥケ・グロベが設立した「社会主義共和国」を題材とする。
進歩的リアリズム(革新的リアリズム)
※進歩的リアリズム=「ロシアの言語学者ロマン・ヤーコブソンが用いた術語。「社会主義的視点から政治批判や社会批判をおこなうときに援用される表現方法のひとつ。労働者の側、あるいは第三世界の民衆の側に立ち、かれらを支援しようとする作品によく見受けられる。」(訳注、p.299)
「覇権主義のなかでつくられたイメージについて、内実を暴露し、そうしたイメージを撃破するため、服従を強いられてきた各地の人々の多くが援用してきたのは、「進歩的リアリズム」である。女性たちや第三世界の映画監督たちは、父権制や植民地主義の言述について対象化をおこないながら、そこに自分たちの見解、および「内側からみた」現実を対置させようとする。けれども、この志には感服するが、ここにも問題がまったくないわけではない。「現実」は自明のものとしてそこにあるのではないし、「真実」もカメラによって即座にとらえられるものではないからである。さらにいうと、目標としてのリアリズム——ブレヒトのいう「因果律ネットワークの暴露化」——と、文体としてのリアリズム、あるいは騙し絵的な「現実だと思わせるような効果」をめざす戦略としてのリアリズムは区別しなければならない。目標としてのリアリズムと、反省的かつ脱構築的な文体との共生は完全に可能である。」(p.183〜184)
・セルヒオ・ヒラル『もう一人のフランシスコ』1974年
→歴史的事実に照明を当てることで、原作の空想的な奴隷廃止論を脱構築すると共に、「フィルム・テクストが組み立てられていく過程そのものにも目を向け、これを白日のもとにさらそうとしている」。(p.184)
陽性のイメージ?
陽性のイメージ
「黒人が忍耐や漸進主義を身をもって示すとき、快感をおぼえていたのはきまって黒人よりも白人のほうであった。陽性のイメージが全体に満ちあふれ、人種差別者にならぬよう懸命に努力している姿勢が随所にあらわれている映画であっても、土壇場になって、いままで描いてきた人物たちをじつは信じていないということをうっかりさらけだしてしまうときがある。」(p.184)
「同じように、ただ新しいヒーローやヒロインを投入するだけで、あとは何もしようとしない天真爛漫な差別廃止主義についても、やはり懐疑の目を向ける必要がある。ここでのヒーローやヒロインは今度は被抑圧者階級から選ばれてはいるものの、役柄自体は以前と変わっていない。すなわち、かれらが演じているのは、昔ながらの、本来的に抑圧者側に属する人物なのである。かつて植民地主義者は、少数の同化した「原住民たち」に対し、「エリート」の仲間入りをするよう求めたが、こうした現象はこれとよく似ている。」(p.184)
・ヒューバート・コムフィールド『圧点』1962年
Mod Squad: Complete Collection [DVD] [Import]
- 出版社/メーカー: Visual Entertainment
- メディア: DVD
- この商品を含むブログを見る
・ABC『モッズ特捜隊』1968〜1973年
→ 法の執行者に黒人俳優をあてる。「黒人のヒーローを起用し、通常は白人で閉められている聖人の座に黒人をすわらせているが、それは、黒人観衆のなかの特定の層(大半は男性)が抱いている夢をかなえ、かれらを嬉しがらせるためである。」(p.184)
・スタンリー・クレイマー『招かれざる客』1967年
→「エリートの黒人が、たしかに人間たちの集まりには相違ないが、そこではそれはつねに白人を意味するクラブに招待される」。(p.185)
・ABC『ルーツ』1977年
→ 黒人奴隷の問題を扱ったテレビドラマだが、そこで活用されているのは「アフリカ系アメリカ人の歴史のなかに存在する陽性のイメージ」であり、黒人たちを「民主国家アメリカで道を切り開き、自由と富を獲得しようとする、単なる移民集団のひとつとしてしか扱っていない」。(p.185)
紋切り型を摘出することの方法論的問題
「陽性のイメージの探索と、陰性のイメージや紋切り型の摘出は相補的な関係にあるが、こういうことばかりに没頭するのもまた、同じように方法論的に問題がある。これら定型化されたものを措定し、承認することにも有益な点はおおいにあった。これによって、かつてはまったく一貫性のないもののように思われていた現象のなかから、構造的に分類できる偏見のさまざまな種類を検出できたからである。けれども、陽性のものにしろ、陰性のものにしろ、イメージのことしか考えないというふうになってくると、性格学的な関心が特権的位置を占める(いいかえれば、ほかの重要な思索は損傷を負わされる)ようにならないともかぎらない。また、このまま進むと、一種の本質主義にいきつく可能性もある。たとえば、さまざまなものが織り合わされている複雑な表現を、一連の、あるかぎられた鋳型に嵌め込み、より具体的なものに還元してしまう批評家がいる。かれらは芸能界で働く黒人の子供をみると、ファリーナからゲイリー・コールマンまで、誰であれ、その背後に「ピッカニー」の影をみてとる。性的魅力に富む黒人男優には「バック」の影を、魅惑的な黒人女優には「ホーア」の影をみてとる。単純化はもともと人種差別と闘うために採用された手段であったが、こうした還元主義的な単純化は、逆に人種差別を再生産しかねない危険なものである。」(p.185)
文化的な特異性の考慮
「ステロタイプを分析するときは、文化的な特異性も考慮に入れる必要がある。北米とブラジルは、黒人の人口が多い新世界の多民族社会という点では似ているが、黒人をあらわす定型的表現については、完全に一致する者は少ない。ふたつの文化のなかで生みだされた定型的イメージには類似しているところ——「マミー」はたしかに「マエ・プレタ(黒人の母親)」という語と密接な関係がある——もあるが、類似していないところも同じように存在する。」(p.185〜186)
「同じように、ブラジル人自身が作品のなかでそれが差別的なものを共示しているとはどうしても思えないような局面であっても、北米の種々の文化に根を張っている自民族中心主義的な考え方が、「人種差別的なものにする」、すなわち、これに人種差別的な主題を呑み込まさせてしまう場合がある。」(p.186)
・グラウベル・ローシャ『黒い神と白い悪魔』1964年
→ 原題(「Deus e o Diabo na Terra do Sol」=太陽の国の神と悪魔)には無かった、人種の二分化を暗示する英題が付される(邦題も同様)。
・ジョアキム・ペドロ・デ・アンドラーデ『マクナイマ』1969年
→ ブラジルの「人種民主主義」を揶揄するシークェンスを、ブラジルの文化的コードを知らないと北米人が人種差別的とみなしてしまう。
ジャンルの慣行や文体の考慮
「全体を包括する方法論は、「現実」と表象とのあいだに介在する仲介要素にも注意を払わなければならない。すべての面にわたって正確な表象化がなされているかどうか、あるいは原点としての「現実の」モデルや雛型に対して忠実なものになっているかどうかということよりも、重視すべきは、むしろ物語構造やジャンル上の慣行、映画としての文体のほうである。あるジャンルについての基準を別なジャンルに適用するといった誤ちはおかさないように留意しなければならない。」(p.186)
・『マクナイマ』はグロテスク・リアリズム(バフチン)と共同歩調をとる祝祭映画というジャンルに属しており、陽性のイメージを見つけようとするのは根本的に誤っている。
ブレージング サドル 製作40周年記念エディション (初回限定生産) [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
- 発売日: 2014/07/09
- メディア: Blu-ray
- この商品を含むブログ (1件) を見る
・メル・ブルックス『ブレージングサドル』1974年
あらゆる種類の人種的偏見を諷刺する。「諷刺映画やパロディ映画もまた、建設的な陽性のイメージにはあまり興味を示さない」。(p188)
政治的位置づけ
包囲の表象
「映画特有の仲介作用のひとつに観客の位置決定がある。西部劇において白人とアメリカインディアンとが出会うこの典型的な映画的遭遇には、トム・エンゲルハルトも指摘しているように、通例、包囲の映像が不可欠である。インディアンとどう向き合うかは、外面的にあらかじめ決定されている。幌馬車隊や砦が襲われるとき、われわれの視線は幌馬車隊や砦に釘づけとなり、観客はいっせいにかれらに同情するようになる。そしてわれわれの注意を引き、同情を集めるその中心部から、やがてわれらの親友たちが反撃に打って出て、未知の襲撃者たちに立ち向かって行く。そして襲撃者たちの性格をあらわすために、不可解な風習が描かれ、かれらの敵意が筋違いのものであることが示される。「本質的に観察者の位置は強制的に決定される。連発銃の銃身の背後が観察者の占める位置である。そして彼(原文のママ)はまさにその位置から、すなわち銃器をかまえている位置からみた、西部における植民地主義の歴史、帝国主義の歴史を受け入れて行くのである」。観察者がアメリカインディアンのほうに同情し、かれらと一体化する可能性はない。そういうものは視点からくる慣習があっさり斥けてしまうからである。観客は知らないあいだに縫合手術をほどこされ、植民地主義的視点を埋め込まれてしまうのである。」(p.188)
・アンドリュー・マクラグレン『ワイルド・ギース』1978年
西部劇の慣習をアフリカに持ち込む。アフリカの雇われ白人兵がアフリカ人を虐殺。
観客の置かれる位置はやはり機関銃の背後。
『アルジェの戦い』の分析
映画の同一化作用
・ジッロ・ポンテコルヴォ『アルジェの戦い』1966年
〔『アルジェの戦い』が〕「まちがいなく革新的であるといえるのは、ひとつは、この包囲の表象について主脚を逆転させ、植民地側ではなく、植民地化された側のために、映画の同一化作用を利用しているからである。」(p.189)
「観客が一体化するのを伝統的に映画が封じてきた集団のために、旧来の一体化の構造を逆に利用しようとしている作品」(p.192)
包囲の表象の反転
「この作品はけっしてフランス人を諷刺しようとしているのではない。民衆を抑圧する植民地主義の論理を暴露しようとしているのである。そしてたえず、われわれとアルジェリア人とを連帯させ、その共犯関係の強化をはかろうとしている。たとえば、死刑を宣告されたアルジェリア人が刑場へと運ばれていく場面があるが、このときわれわれはアルジェリア人の視線をとおしてかれの姿をとらえる。われわれがフランスの軍隊やヘリコプターをとらえるときも、カスバの内側からである。カスバの内側に身をおいて、その姿に目をやったり、そのとき聞こえてくる音に耳を傾ける。包囲され、威嚇されるのは、そしてわれわれが一体化するのは、今度は植民者に支配されている人々のほうなのである。」(p.189)
三人のアルジェリア女性が爆弾を仕掛けるシークェンスの分析
「同一化の伝統的な形式を否定することにとりわけ成功しているのが、三人のアルジェリア女性がヨーロッパ人と同じ洋装姿になるシークェンスである。彼女たちはヨーロッパ人居住区に爆弾を仕掛けようとしている。変装はフランス兵のいる検問所をうまく通過するためである。」(p.189)
・批評家は、市民に対してもテロ活動をおこなったFLNの過ちを描いた監督の誠実な姿勢、もしくは客観性を評価した。しかしそうした「物語世界(テロリストたちの行動)の記号内容よりも、どのような呼びかけをおこなっているかや、観客をどのように位置づけているかのほうが重要」である(p.189)。
・クロースアップは、三人のアルジェリア女性の個性を浮かび上がらせ、画面外からの音声は、まるで彼女たちの耳を通して性差別主義者たち言葉を聞いているかのように感じさせる。「映画をみているうちにわれわれは、女性たちには任務を完遂してほしいと思うようになる。その願望は政治的共感から必然的に生じてきたものではなく、映画の同一化作用によって引き起こされたものである」。(p.189〜190)
視点操作
・「編集による視点操作」。三人の女性との「視線の一致は、この爆弾によって引き起こされるであろう惨状について彼女が思いをめぐらしていることを暗に物語っている。罪なき人々の命を奪い取るその残虐さについては、われわれも少しは考えるかもしれない。けれどもわれわれはいまや、彼女と同じ視座からものごとをみるようになっており、危険ではあるが崇高な仕事だとされてきた任務を実行する、その彼女の勇気のほうに感動してしまうのである。」(p.190)
物語的戦略
「シークェンスの物語的位相それ自体は、彼女たちのアクションをFLNの公約履行として提示している。(中略)ここではあらゆるものを総動員して、観客が、FLNの爆弾攻撃は少数の狂信者たちの決意のあらわれではなく、全民衆の怒りの表現なのだ、と感じるようにしようとしている。それは個人的な感情の爆発などではなく、組織集団による政治行動として描かれる。気の進まぬまま引き受けたものの、やるからには周到に計画を練りあげて言った仕事として描かれる。今まで反植民地主義を掲げるゲリラは生命軽視の狂信的テロリストとして描かれてきたが、結果としてこのシークェンスはこの既成イメージに挑戦するものとなっている。(中略)ここでは反植民地主義派のテロ活動を、植民地主義者の暴力に対する回答として提示している。ここでわれわれが扱っているのは、連辞的構成の政治的位相とでも呼べるものである。植民地で抑圧政策がとられるとき、第一世界のメディアは、「左翼の破壊活動」がああり、これに対抗するためにこうした措置が講ぜられたと封じるのが通例だが、『アルジェの戦い』ではこの因果関係が逆転してしまっている。」(p.190)
マスメディアの取材技術の強奪
「ポンテコルヴォは「強奪」したマス・メディアの取材技術——手持ちカメラや頻繁なズーミング、望遠レンズの技術——を用い、体制側に管理されているメディアにはまずあらわれてこないような政治的視点を提出しようとしている」(p.190)
演出(ミザンセン)による非性差別主義者・反植民地主義者の創造
「演出(mise-en-sc è ne)もまた、古典映画のトポスで、非性差別主義者や反植民地主義者を作りだす。たとえば、鏡の前で身支度する女性たち。彼女たちがヴェールを脱ぎ、髪を切り、ヨーロッパ人にみえるよう化粧をほどこしていくとき、その顔に照明があてられ、力強い威厳に満ちた表情が照らし出されていく。ここでの鏡は虚栄心を満たすための道具としてではなく、革命用具として存在している。」(p.191)
社会的位相に照明をあてる
「被写界深度が深いおかげで背景の映像まで読みとることができるが、これをみると、フランス人は自分たちの政治制度を押しつける際、軍事占領に等しい手段でことを推し進めていったことがわかる。なぜなら、アルジェリア人は平服なのに、フランス人は制服を着用しているからである。カスバはアルジェリア人の郷里であるが、フランス人にとっては国境の前哨基地にしかすぎない。有刺鉄線と検問所は、過去のさまざまな占領事件をわれわれに思い起こさせ、結果としてわれわれは、外国人相手の反占領闘争に共感を抱くようになる。」(p.191)
兵士たちの人種差別主義的な態度
「ヨーロッパ人には親しげに「こんにちは(ボンジュール)」と挨拶するのに対し、アルジェリア人に接するときはさげすみ、疑ってかかるような態度をとる。革命を志すアルジェリア人というのが、三人の女性たちの実態であるにもかかわらず、兵士たが彼女たちと仲よく戯れるのも、彼女たちをフランス人だと思い込んでいるからである。」(p.191)
兵士たちの性差別主義的な態度
「一般に女性についても、潜在的革命分子として疑ってかからねばならないのに、差別意識が働き、女性をそういうふうにみなすことができなくなっているのである。」(p.191)
欧米人が非欧米人に対してとる姿勢
・最初、アラブの伝統的な衣装を身にまとい、顔をベールで覆って現れるハッシバ(映画で異国趣味を表す記号)は、サフサリスを脱ぎ、ベールを取り、髪を切って、欧州人種に変身する。
「観客がヨーロッパ人と一体化することは、映画が従来から許容してきたことであり、すっかり慣習化していることである。だが、このときわれわれは、ヨーロッパ人のような恰好をし、ヨーロッパ人のようにふるまう場合のみ、敬意というものが保証される体制がいかに不条理なものか、ということにも気づかされるのである。フランスの植民地主義者が唱える「同化」という神話、そこでは選ばれたアルジェリア人は第一等級のフランス市民になれるとされているが、いまその内実があきらかにされる。作品のなかでも示唆されているが、アルジェリア人も同化しようと思えば同化できる。けれどもそれは、アルジェリア人をアルジェリア人として特徴づけているもの—かれらの宗教、かれらの衣装、かれらの言語—すべてを捨て去ったときにのみ、そうした代償を支払ったときにのみしか獲得できないものなのである。」(p.191〜192)
植民地主義を批判・転倒させる映画作品
視点・構造の転倒
「観客が一体化するのを伝統的に映画が封じてきた集団のために、旧来の一体化の構造を逆に利用しようとしている作品、それが『アルジェの戦い』であるとするなら、以下のようなほかのものは、もっと皮肉っぽく、植民地主義や植民地主義的視点に立つ従来の約束事を批判している作品だといえる。」(p.192)
・ジャン・ルーシュ『少しずつ』1969年
→ アフリカ人主人公に「文化人類学をやらせる」ことで、学究分野における植民地主義の所産とでもいうべきものを転倒=質問するのはアフリカ人の側となり、彼がパリジャンに、彼らの習俗について問いかけていく。
・ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス『わたしのかわいいフランスの彼氏は極上の味だった』1971年
→ 食人族に共感を抱かせることで、ヨーロッパ人の主人公に感情移入を促す伝統的な一体化を皮肉る。
被抑圧者の視点ショット(主観ショット)の問題
「被抑圧者側への視点ショットの付与は、常に非植民地主義者の視点からものごとがとらえられていることを保証するものではない。」(p.193)
・アルフレッド・ヒッチコック『マーニー』1964年
→ 主役女性に主観ショットが与えられているが、言述の実体は家父長的。女性を子ども扱い。
・D・W・グリフィス『國民の創生』1915年
→ 黒人のガスが白人のフローラを見つめる視線は「白人の性的な被害妄想が黒人男性に投影されていること」(p.193)を示す、屈折した人種差別。
・オズヴァルド・センソニ『ジョアン・ネグリーニョ』1954年
→ 年老いた元奴隷の視点=「「善良な」黒人は好意的な白人に運命を委ねるものだ」という家父長的干渉主義。
コードと対抗戦略
一体化の問題
「登場人物のおかれている立場について、語る主体対語られる内容という観点から、より包括的な分析をおこなうとすれば、映画の内外のコードに気を配り、それらがテクスト構造内部でどのように織り合わさっているか、よく観察しなければならないであろう。すなわち、こうした分析においては、プロットや登場人物についての問題だけでなく、映画作品の具体的な語り口——構図、画面の枠取り、ショット・サイズ、画面内外の音声、音楽——についても取り組まなければならないということである。たとえば画面のショット・サイズやショットの持続時間の問題は、登場人物にどれだけ関心を寄せているのかということや、潜在的にどれだけ観客を共感させ、理解させ、一体化させようとしているのかということと無関係ではなく、むしろこれらが複雑に絡んでくる問題なのである。どういう人物にクロース・アップがあたえられ、いかなる人物が後景へと追いやられるのか? 登場人物が視線を送ったり、身体を動かしたり、あるいはただ姿だけをあらわすのは、注視させ、自分に従わせるためなのか? 観客は誰であれば親近感をもつことが許されるのか? 画面外から解説や会話が流れてくるとき、それらは映像とどう関係してくるのか?」(p.193)
一体化の推進
・ウスマン・センベーヌ『黒人少女』1966年
→ メイドの少女のショットに、画面外から彼女を非難する声が重なることで、観客はその声を「彼女の耳をとおして聞くようなかたち」になり、強く親近感を覚えさせる。
一体化の拒否
・グラウベル・ローシャ『七つの頭のライオン』(Der Leone Have Sept Cabeças)1970年
→アフリカ植民地にやってきた五人の入植者の言語を混ぜて作った多重言語の原題。抑圧者も被抑圧者も含め、いかなる登場人物とも一体化することを許さない。
音楽(サウンド・トラック)の役割
「政治的視点の確立や観客の文化的位置づけにあたっては、音楽のサウンド・トラックが決定的な役割を果たす場合もある。映画音楽には情緒的な位相があり、これによって、われわれにどれくらい共感を抱かせるか、その度合いを調整できる。またこれには、われわれに涙を流させたり、恐怖心を抱かせたりする力もある。」(p.194)
・アンドリュー・マクラグレン『ワイルド・ギース』1978年
→「レイ・バッドの音楽は、傭兵たちに声援を送る応援歌である。出撃のさいには勇壮で雄々しい曲が、かれらが感情をあらわにするときには感傷的な曲が流される。」(p.194)
・アフリカの多重リズム
→「ハリウッド映画の古典映画で繰り返し用いられているうちに、野蛮人による包囲を意味する聴覚的記号表現となった。これは可聴音による提喩的な即時伝達法の一種であり、脅威にさらされて(p.194)いることをあらわすものである。こうした脅威は、「原住民たちは眠ることを知らない」という常套句で暗に示されることもある。」(p.195)
・グラウベル・ローシャ『七つの頭のライオン』1970年
→「アフリカの多重リズムをれっきとした音楽と認め、敬意をもって迎えている。」(p.195)
諷刺の歌
・グラウベル・ローシャ『七つの頭のライオン』1970年
→『ラ・マルセイエーズ』=「植民地主義者の操り人形と化した者たちへのあてつけ」(p.195)
・ジャン=ジャック・アノー『ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー』1976年
→ アフリカ住民が御主人様を運びながら、現地語で植民地支配者を皮肉る歌を歌う。
後退的な音楽の使用
・ジッロ・ポンテコルヴォ『ケマダの戦い』1970年
→ 新植民地主義を批判する教訓映画だが、舞台となる第三世界にヨーロッパ的な合唱音楽をねじ込んだために、そのメッセージの力を損ねている。「意識的に反植民地主義の姿勢をとっている映画作品でも、テクストがいわば波状的に展開していくため、あるコードのなかでは、たしかに政治について進歩的であるといえるが、別のコードのなかにおくと、その後退性がみえてくるものが多い。」(p.195)
・アントゥネス・フィーリョ『待機』1973年
→ ブラジル型の人種差別を告発するが、音楽にエリック・サティとブラッド・スウェット&ティアーズをないまぜにしたものが使われており、それは「作品が取ろうとしている黒人寄りの姿勢を足元から崩壊させるもの」である。(p.195)
間コード的な対立
・グラウベル・ローシャ『狂乱の大地』1967年
→ 政界の白人エリートを扱った映画で、黒人は出てこないが、「アフリカ系ブラジル音楽がかれらの存在をたえず想起させる」(p.195)。「ことによると、社会が「多声音楽的」な民族社会だからかもしれないが、一般的にいって、ブラジル映画には間コード的な対立物がことのほか多い。随所に存在している。そして音楽のサウンド・トラック上でも、コード対コードの真の戦いが開始されることがときおりある。」(p.195)
・アンセルモ・デゥアルテ『合言葉』1962年
→「アフリカ系ブラジル人の楽器ベリンバウとカトリック教会の鐘とのあいだで文化闘争」をおこなわせる。(p.195)
・ネルソン・ペレイラ『奇跡のテント』1976年
→ オペラとサンバを対位法に用いることで、バイアの白人エリート層とその従属下にあるメスティーソ(白人とインディオの混血児)との闘争を表現。
誤読
「観客自身の文化認識が、映画体験を必然的に屈折したものにしていくのは、いたしかたないことである。文化認識はテクストの外部で制度化されたもので、人種や階級、性差といった一連の社会的諸関係がここで交差している。それゆえ、念頭において置かなければならないのは、われわれが映画を読むとき、物語言述の意に反し、誤読している場合もあるということである。劇映画は、つねに特定の印象や情緒を生産していこうとする、説得力にたけた機械的装置であるが、これらとて全能ではない。観客が異なれば、異なった読み方をされるかもしれないからである。
半可な知識で撮られた映画への嘲笑
・ジョージ・メルフォード『魔人ドラキュラ・スペイン語版』1931年
→ ベラ・ルゴシ主演『魔人ドラキュラ』のスペイン語版。スペイン語を話すという同一性のみを根拠にキューバ人やアルゼンチン人、メキシコ人、イベリア半島のスペイン人を出演させたが、中南米諸国の観客には馬鹿げたものに映った。
植民地主義的言述に抗う読解
「観客のもっているある特定の知識や経験は、植民地主義的表象にあらがう逆の圧力を生み出す場合もある。」(p.196)
・ラリー・ピアス『わかれ道』1964年
→ 人種的偏見を受ける黒人が、ドライブ・イン・シアターで西部劇を見て、アメリカ先住民への支持と白人への憎しみを表明する。
正反対に方向に向かう誤読
「読み込みが正反対の方向に向かっておこなわれるという誤読もある。たとえば、人種差別反対を唱えている映画作品であっても、これが、自民族中心主義的へ偏見に縛られている、口うるさい批評家や解説好きな社会の前に放り出されると、人種差別的な視点から読み込まれていくことがある。」(p.196)
・ジャン=リュック・ゴダール『男性・女性』1966年
→ 白人女性が銃を撃ったことが明白な場面であるにも関わらず、批評家のアンドリュー・サリスは民族主義者のニグロの犯行だと説明している。「観察者の知覚そのものに情報を送っているのは、観察者自身の文化に対するさまざまな期待であり、観察者は、人種や性に関してみずからが期待するものを映画作品に投影しているのである」。(p.197)
「ゆえにわれわれは、観客が映画のなかに持ち込む文化的・イデオロギー的前提に気づかなければならない。また、制度化されている期待、すなわち、姿のみえない支援者として映画産業を助けている心的機構についても自覚的であらねばならない。われわれを映画作品の消費へと向かわせているのは、ある意味でこの心的機構だといえる。われわれのほとんどがプロダクション・ヴァリューズの高い映画作品を消費することに慣れていったのも、この装置の働きかけがあったからである。」(p.197)
第三世界の現実に根ざした映画
・①支配的位置を占めている、第一世界のプロダクション・ヴァリューズの映画に対する批判的姿勢、②そういった映画製作をおこなう経済的余裕のなさを背景として、「第三世界の映画監督や批評家たちが、第三世界の現実に根ざしているもののなかから範となるものを求め」た映画作品(p.197)。
・グラウベル・ローシャ「飢餓の美学」1965年
・フェルナンド・ソラナス、オクタビオ・ヘティノ「第三の映画に向けて」1969年
・フリオ・ガルシオエスピノーサ「不完全な映画(未完了の映画)のために」1969年
・第三世界の映画作品に、第一世界のプロダクション・ヴァリューズを乱そうとしたり、映画作家を探し求めようとするのは、「主流映画の価格を暗黙のうちに決定する退行的な分析モデルをあてがおうとする行為にほかならない」(p.197)。こうしたモデルは、第三世界の一部の監督を「パンテオン神殿」に招聘するくらいのことしか約束しない。
「映画作品にみられる植民地主義や人種差別についての研究が最終的にめざしているものは何か。個々の映画館とくや批評家の人種差別的側面を告発することに本来の目的があるのではない——人種差別が制度として組み込まれている社会においては、人種的偏見から逃れことのできる者などほとんどいない……。」それは、人種差別的映像や音声についてのコード解読や脱構築をおこなおうとするとき、いかなる方法をとればいいか学ぶためである。人種的偏見はセルロイドや人の心のなかに刻み込まれているが、こうした現象は永久に変わらないということではない。それはたえず変化しつつある弁証法的過程の一部にすぎない。このなかにあってわれわれがけっして忘れてならないのは、われわれには力がないどころか、何かをなす力は十分あるということである。」(p.197)
ロバート・スタム
ニューヨーク大学の映画学教授。中南米のとくにブラジル映画を専門とする。主な著書にLiterature through Film: Realism, Magic and the Art of Adaptation (Blackwell, 2005); Francois Truffaut and Friends: Modernism, Sexuality, and Film Adaptation (Rutgers, 2006)など。日本語訳としては、『転倒させる快楽――バフチン、文化批評、映画』(浅野敏夫訳、法政大学出版局、2002年)、『映画記号論入門』(共著、松柏社、2006年)がある。(支配と抵抗の映像文化 « 大学出版部協会)
支配と抵抗の映像文化: 西洋中心主義と他者を考える (サピエンティア)
- 作者: エラ・ショハット,ロバート・スタム,早尾貴紀,内田(蓼沼)理絵子,片岡恵美
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2019/01/28
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
- 作者: ロバートスタム,サンディフリッタマン=ルイス,ロバートバーゴイン,Robert Stam,Sandy Flitterman‐Lewis,Robert Burgoyne,丸山修,深谷公宣,エグリントンみか,森野聡子
- 出版社/メーカー: 松柏社
- 発売日: 2006/03/01
- メディア: 単行本
- クリック: 6回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
転倒させる快楽―バフチン、文化批評、映画 (叢書・ウニベルシタス)
- 作者: ロバートスタム,Robert Stam,浅野敏夫
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2002/05/01
- メディア: 単行本
- クリック: 5回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
クリスチャン・メッツ「映画――言語か言語活動か」1964年
映画における意味作用に関する試論―映画記号学の基本問題 (叢書 記号学的実践)
- 作者: クリスチャンメッツ,Christian Metz,浅沼圭司
- 出版社/メーカー: 水声社
- 発売日: 2005/09/01
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 7回
- この商品を含むブログ (6件) を見る
クリスチャン・メッツ「映画(シネマ)――言語か言語活動か」武田潔訳、原著1964年、『映画における意味作用に関する試論――映画記号学の基本問題』所収、浅沼圭司監訳、水声社、2005年
- 映画(シネマ)の一時代――「モンタージュ至上主義」
- 操作の精神
- 「映画=言語」から映画=言語活動へ
- 言語なき言語活動――映画(フィルム)の叙述性
- 映画=言語(シネラング)と真の言語(ラング)――トーキー映画の逆説
- 一つの状態、一つの段階――「映画=言語」についての判断の試み
- 入れ子=概念――映画(シネマ)的特有性
- 映画(シネマ)と言語学
- 映像による言説と言語の比較検討――映画(シネマ)的「統辞法」の問題
- 映画(シネマ)と統辞論(サンタクス)
- 映画(フィルム)の範列論
- 映画的理解
- 映画(シネマ)と文学――映画(フィルム)的表現性の問題
- 映画(シネマ)と超言語学――大きな意味形成単位
- 結論
映画(シネマ)の一時代――「モンタージュ至上主義」
・1959年の『カイエ・デュ・シネマ』誌、ロベルト・ロッセリーニのインタビュー。「モンタージュは、今日ではもはや万能の操作のようなものとしては理解されていない。」
「至上の配列法としてのモンタージュ」(p.66)
・エイゼンシュテインやプドフキン、ヴェルトフやクレショフと行った「モンタージュ至上主義」を掲げる理論家たちによって、「モンタージュは、それが可能にするあらゆる組み合わせを活用しようとする熱心で創意で満ちた探求を通じて、また幾多の書物や雑誌に綴られる果てしない称揚の弁を通じて、映画それ自体とほとんど一体化するに至った」(p.66)
・プドフキン:単独のショットは映画の一断片ではなく、原料(現実世界の写真)にすぎないと主張「モンタージュによって初めて、写真を越える映画、複写を越える芸術が成立する」。→モンタージュを作品の構成そのものと混同
・エイゼンシュテイン:モンタージュへの狂信。文学史や絵画史などあらゆる所にモンタージュの先駆けの事例を見出し、それらが予言的に映画を先取りしていたと主張。あらかじめ切り分けられ、組み立てられた要素群をすべてモンタージュと見なしてしまう。
・「映画における描写的リアリズムのいかなる形式をも断固として拒否」。(p.68)
「自然主義」「ひたすら客観的な表象」「情報伝達的」なだけの物語(レシ)を否定。
「それ自体が構成され、演じられた短い場面を、連続的に記録することもまた一つの選択となりうるなどということ彼は考えてもみなかった。そうではなく、クロース・アップに分離・分割して、次に全体をあらためて組み立てるのでなければならないというわけである。撮影された光景がそれ固有の美を持ちうるかなどという問いは、口にされてはならなかった。」(p.68)
・「配列される線分自体の造形」<「それらの連鎖的な配列」(p.68)
操作の精神
・モンタージュ映画と、メカノ玩具(組み立て式の知育玩具)の類似
・メカノ玩具と、民族誌学や言語学、サイバネティックスや情報理論との類似
(そのパンフレットはまるで言語学者の「分布分析」のテクストのよう)
→いずれも「操作的な姿勢が優位を占めている領域」(p.69)
操作の手順
(1)自然の対象を分析、構成要素の分離(映画における切り分け=デクパージュ)
(2)範列関係:それらの要素を同機能のカテゴリー毎に分類(映画におけるショット毎の撮影)
(3)連辞的契機:元の対象の模像を再構成(映画におけるモンタージュ)
→現実の事物の再現や再生産、創造ではなく、「擬装(シミュラシオン)」「技能(テクネー)」
→ 思惟可能な「形式化」の結果、あるいは「操作」の結果
・ロッセリーニが「事物はそこにある。どうしてそれらを操作するのか」と言うのに対して、エイゼンシュテインは「事物はそこにある。だからそれらを操作しなければならない」と言うだろう。
「エイゼンシュテインがわれわれに示すのは世界の推移などでは決してなく、常に、彼が述べるように、完全な思考にもとづいた、徹底して意味するものとしての、「イデオロギー的視点」を通して屈折させられた世界の推移なのである。意味だけでは十分ではない。そこに意味作用が加わらなければならないのである。」(p.71〜72)
・意味=事物や生き物が持つ自然な意味。子どもの喜ぶ顔など、連続的・包括的で判然としたシニフィアンのない意味
・意味作用=意図的に意味の再配分を行う。明瞭な組織化行為。無定形な意味実体に形を与える作用
「映画=言語」から映画=言語活動へ
・映画はそれほど「操作」に適しているわけではなかったにも関わらず、多くの理論家が他ではなく映画を選び、映画独自の企てを起こしたのはなぜか? そこには何かしら映画の「本性」が関わっているのではないか?
「明らかに、映画は一種の言語活動である。ところが、人はそこに言語(ラング)を見てとったのである。映画はデクパージュとモンタージュを許容し、さらには必要としさえする。そこでなされる組織化は紛れもなく連辞的なものであり、したがって、それが行われるためにはあらかじめ範列関係がなければならない――たとえ、まだそれとはほとんど意識されないものであっても――と人は信じたのである。映画(フィルム)がメッセージであることがあまりに明瞭であったために、そこにはかならずコードがあるはずだと考えられたのである。」(p.77)
映画=言語に対する批判
・アンドレ・バザンやロジェ・レーナルト、ジャン・ルノワールやアレクサンドル・アストリュックといった「現代」の映画論者・作家たちは、「映画が真の言語活動であろうとするならば、まず言語活動の戯画(カリカチュア)であることを止めるべきだ」(p.79)と考えた。
・アレクサンドル・アストリュック「カメラ=万年筆論」:「映画の「語彙」は事物の様相そのものによって、「世界の練り生地(パット)によって構成される」(p.80)→言葉の印象とは裏腹に、映画=言語という概念やモンタージュ至上主義とは対極的な発想。
・マルセル・マルタン「映画のうちに厳密な記号の体系を探そうとしてはならない」(p.80)
・モーリス・メルロ=ポンティ「映画(シネマ)と新しい心理学」 優れて現象学的な芸術として映画を検討。
言語なき言語活動――映画(フィルム)の叙述性
・映画は言語活動なのか? それとも映画は言葉による言語活動とは異なるものなのか?
・映画が叙述的・小説的な道を選び、長編フィクション映画が支配的になった原因は、観客の需要だけでなく、映画がそうした需要に見合う「著しい適性」を有していたからではないか。
・実際、映画は「映像の芸術」であるはずなのに、観客は大抵「その筋立てしか記憶にとどめず、せいぜいいくつかの映像を覚えているだけ」(p.84)という事実が、映画における「物語」の支配の強固さを示している。
・他方、写真は物語を語らない(写真が物語を語るのは、映画を真似る場合だけ)。
→「二枚の写真が並べられると、奇妙な必然的帰結として、それらは否応なく何事かを物語ってしまう」(p.85)
→「一つの映像から二つの映像に移行することは、映像から言語活動に移行することにほかならない」(p.85)
・クレショフ効果はモンタージュにお墨付きを与えるものではなく、複数の映像の連なりが、特定の意図を超えて「否応なく何事かを物語ってしまう」ことを証明するものだった。
「映画が一つの言語活動であるから、映画がかくも美しい物語(イストワール)を語れるのではなく、映画がかくも美しい物語を語ったからこそ、映画は一つの言語活動となったのである。」(p.86)
「言語から抜け落ちるものが言語活動を増大させる。二つの運動は表裏一体をなすものである。映画においてはあたかも、コードの意味的な豊かさとメッセージのそれとが、しかとはとらえがたいが厳然と働いている一種の反比例の関係によって、互いに連合――あるいはむしろ互いに離反――しているかのようである。コードが存在するとしても、それは粗雑なものである。コードを信奉して、かつ偉大な映画作家となった者たちは、意に反してそうなったのである。一方、メッセージは、それが洗練されてゆくときにはコードを歪める。コードはいつ何時変化したり消失したりするかわからないが、メッセージはいつでも、自らを意味づけるための別の手段を見出すのである。」(p.88)
映画=言語(シネラング)と真の言語(ラング)――トーキー映画の逆説
・映画を言語と見なす立場(映像=語、シークェンス=文)に立つかぎり、映画は、精緻な言語活動に対する粗雑で劣等な模像としてしか自己を定義することができない。
サイレント映画の時代
・1930年以前、「映画は無声でありながら饒舌であった」(p.96)
・建前上は映画に言語的構造は不在とされながらも、字幕や大げさな身振りを通じて(言葉による言語活動を介して語ったであろうことを)言葉なしで語ろうとする無意識の試みがあった。
トーキー映画の逆説
・1930年以降、「それは饒舌でありながら無声であった。つまり、溢れるばかりの言葉が、旧来の規則に忠実なままの映像の構成に付け加えられたのである。」(p.96)
・トーキー映画が出現しても、数年間は(マルセル・パニョルらを例外として)映画に大きな変化はなかった。トーキー映画の否定、あるいは言葉は排除するが現実の物音や音楽は容認する「サウンド映画」推進の動きが起こり、理論的にも、言葉は映画に本質的な変化をもたらさない、映画的言語の規則は従来どおりといった説明に明け暮れた。
「映画=言語は言葉を話すものではありえず、一度たりともそうなったためしはなかった。映画が言葉を話すようになったのは、一九三〇年ではなく一九四〇年頃からであり、その時期になってようやく、映画(フィルム)は自らを変革して、すでに戸口に立っているのに足止めされているような言葉を招き入れることにしたのである。」(p.96)
・自らを言語であると見なしていた映画にとって、本物の言語は「忌まわしい余剰か筋違いの敵対関係しかもたらさないもの」(p.96〜97)。映画が柔軟な言語活動であると見做されて、初めて「映画は言葉を話せるようになった」(p.97)。
トーキー映画をよりよく理解する上で重要な「現代映画」作家
・アラン・レネ
・クリス・マルケル
・アニエス・ヴァルダ
「そこでは言葉の(ヴェルバル)要素が、さらにはあからさまに「文学的な」要素が、全体の構成においてたいそう重きをなしており、にもかかわらず、その構成はかつてないほど真に「映画的(フィルミック)な」ものとなっているのである。『去年マリエンバートで』にあっては、映像と文章(テクスト)が隠れんぼを演じ、そのすきにふと互いを愛撫し合う。両者は互角であり、文章が映像を生み、映像が文章となる。こうした文脈(コンテクスト)の戯れの総体が、この映画(フィルム)の組織構造(コンテクスチュール)を形作っているのである。」(p.97)
一つの状態、一つの段階――「映画=言語」についての判断の試み
・「映画=言語」という考え方をどう評価するか
批評家の場合
・映画=言語(シネラング)は、幾ばくかの偉大な作家と傑作を生み出したが、その理論は(一部の前衛映画を除き)特定の映画作品(フィルム)において具現化されることはなく、著作や宣言のかたちでしか実体化されなかった。
→「そのような前衛映画がもたらした成果を強調することは批評家に任せておこう。」(p.99)
歴史家の場合
・歴史家は、理論的にも実践的にも、「映画=言語」のような型破りな目論見を通してのみ、映画は自らを自覚するようになった(=技術的な発想のもとに発明されたシネマトグラフから、映画そのものが芸術として誕生した)と指摘するだろう。
→「当時の若々しい独創性の激烈さが有していたあらゆる肯定的要因――それは豊富にある――を研究することは歴史家に任せておこう。」(p.99)
理論家(としてのメッツ)の場合
・映画=言語はその時代の最良の映画の大部分を生み出したが、同時に十倍の駄作も世に出た。
・「しかし、映画=言語でも駄作でもない、別の映画も存在した」(p.99)。
・モンタージュ至上主義、操作の精神というイデオロギーが幅をきかせる中、特定の理論を持たず、流派にも属さないシュトロハイムやムルナウといった監督たちが、己の才能や個性によって「現代映画」を予見させる映画をつくっていた。
→「飛躍的な発展とは少数者によってのみもたらされるもの」(p.100)
入れ子=概念――映画(シネマ)的特有性
・「独自の伝達手段」(コミュニケーション)ではなく、「芸術的な言語活動」としての映画
「このように映画は、ロッセリーニが述べたように、独自の伝達手段というよりも芸術的な言語活動をなすものである。既存の複数の表現形態(映像、言葉、音楽、さらには物音)の結合から生まれた映画は、個々の表現形態に特有な原理がそこで完全に失われるわけではないために、語のすべての意味において、始めから構成して作り出すことを余儀なくされている。映画が何ものかであるとすれば、それはそもそもの最初から一つの芸術なのである。そして、先行するさまざまな表現法を包括するということが、その強みでもあり弱みでもある。そこには、完全な言語活動をなしている表現法も含まれれば(言葉の要素)、多少なりとも比喩的な意味でしか言語活動をなしていない表現法も含まれるのである(音楽、映像、物音)。」(p.100)
・「映画(シネマ)的特有性」の真の定義は、以下の二つのレベルにまたがっている。
(1)映画(フィルム)的言説
・映画の全体
・映像、音楽、物音、言葉、など、先行する様々な表現法を包含・構成した、芸術的な言語活動。完全な言語活動(言葉)と、多少なりとも比喩的な言語活動(映像、音楽など)が共に含まれる。
・映画(フィルム)は芸術に包含されながらも、再び固有の言語活動となる。
→ 言語活動になろうとする芸術
(2)映像による言説(ディスクール・イマジェ)
・全体の内部にある固有な核
・映像の連続がまず一つの言語活動をなしている。
→ 芸術になろうとする言語活動
「映画(シネマ)の「特有性」とは、言語活動になろうとする芸術のただ中に、芸術になろうとする言語活動が存在するということなのである。」(p.101)
「映像による言説も映画(フィルム)的言説も、ともに言語ではない。言語活動であろうと芸術であろうと、映像による言説は開いた、コード化の困難な体系をなしており、その基本単位(=映像)は離散的ではなく、その理解可能性はあまりに自然であり、そのシニフィアンとシニフィエのあいだには距離が欠如している。また、芸術であろうと言語活動であろうと、構成された映画(フィルム)はさらに開いた体系をなしており、そこでは意味のすべての面がわれわれに直接提供されるのである。」(p.101〜102)
・映画(フィルム)の諸要素が互いに並存可能なのは、そのなかに「言語」をなしている要素が一つもないから。
・言語:同時に複数の言語を話すことはできない(英語で話している時、それはドイツ語ではない)
・言語活動:その種の重複があり得る(英語で話すと同時に、身振りを交える等)。→ 芸術もまたそうした重複が可能である(オペラやバレエや詩の朗誦)。
「〔われわれの知っている映画は〕幾多の幸運に恵まれた「方式」である。そのような映画にあっては、種々の芸術と言語活動とが永続的な絆で結ばれており、それらのあいだの合意によって、各々の果たす役割が互いに交換可能となってゆく。それは愛の共有であるとともに財産の共有なのである。」(p.102)
映画(シネマ)と言語学
「「記号学(仏:sémiologie)」という名称はスイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールに、「記号論(英:semiotics)」という名称はアメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースに由来する。(中略)ソシュールは記号学に関する体系的な著作を残していないが、学生の講義ノートに基づく『一般言語学講義』によれば、記号は「シニフィアン(意味するもの、記号表現)」と「シニフィエ(意味されるもの、記号内容)」という二つの構成要素から成り立つとされる。この両者の恣意的な結びつきからなる諸記号が言語における差異の体系として存在する、というのがソシュール記号学の根底にある考え方である。」(星野太「Artwords:記号学/記号論」)
映画言語学の試み
・映画は言語ではない。しかし、だからと言って映画研究が言語学的な次元を含みえないということではない。
「「映画言語学的」な企ては十分に正当化されるものであり、かつまた、それは十分に「言語学的」であらねばらない、すなわち、言語学そのものに堅個に依拠したものでなければならないと確信している。」(p.103)
「言語学は記号学の一部門にすぎないが、事実としては、記号学は言語学をもとに構築されている。(中略)記号学は大方においてこれから作り出されるべきものであるが、言語学の方はすでに著しい進歩を遂げている」(p.104)
・ソシュールは言語学を記号学の一部門と位置づけたが、その記号学は言語学をもとに構築された。レヴィ=ストロースらソシュールの後継者たちも、「超言語学のようなものとして」(p.104)記号学を打ちたてようとしている。同様に、映画記号学の試みもまた、言語学との比較検討から進めていくべきではないか。
(1)映像による言説と「言語」との相違を比較検討することで、「映画がなんでないか」を理解すること。言語学の成果が利用でき、研究者もそちらから始めようとする。
(2)「映画が何であるか」を把握すること。本来のあり方として記号学的・超言語学的。既存の成果に頼れる度合いが小さい。
映像による言説と言語の比較検討――映画(シネマ)的「統辞法」の問題
第一次分節
文を分解することで抽出された「語」「形態素」(これ以上分解すると意味をなさなくなる最小の言語の単位)
森/の/小道/を/歩く/男
第二次分節
「形態素」をさらに分解して抽出された「音素」(意味を持たない最小の言語の単位)
m o r i n o k o m i c h i w o a r u k u o t o k o
第二次文節
「映画(シネマ)には、たとえ比喩としてであれ、第二次文節に相当するものは何もない。」(p.105)
→ 映画には言語における「音素」に当たるものがない。
・通常の言語(日本語や英語)では、シニフィエ(記号内容)とシニフィアン(記号表現)のあいだに大きな隔たりがある(例えば「木」そのものを「木」や「tree」と表すのは恣意的であり、本来、必然性がない。)
・他方、映画の場合は、写真の忠実性とそれによる心理的な「現実感」により、映像(シニフィエ)と映像が表すもの(シニフィアン)の「隔たりを完全なまでに縮めてしまう」(p.105)。
・特定の映像(シニフィエ)を分解すると、映像が表すもの(シニフィアン)も「同型の切片に切り分けられる」(p.106)ため、第二次分節(言語における音素に当たるものを抽出すること)は不可能である(例えば三匹の犬の映像から三匹目を切り取れば、「三匹目の犬」というシニフィアンも同時に切り取られる)。
「映画の万国共通性とは二つの面を併せ持つ現象である。肯定的な面に着目すれば、映画が万国共通なのは、視知覚というものが世界中を通じて、特有言語ほどには多様な違いを呈さないからである。否定的な面に着目すれば、映画が万国共通なのは、それが第二次文節を免れているからである。これら二つの事実確認が互いに連動していることは強調しておかなければならない。すなわち、視覚的光景はシニフィアンのシニフィエへの密着を引き起こし、そのこと自体がまた、両者の分離を、よって第二次文節の存在を、いかなるときであれ不可能にするのである。」(p.107)
・厳密な意味で「言語」について語ることができるのは、二重文節がある場合だけであるのに対して、「言語活動」という語には、厳密なものもそうでないものも含め、多くの意味がある。そうした多義性の増大は、以下二つの方向において進展する。
(1)何らかの体系の形式的構造が言語の形式的構造と似ている場合(チェス、機械の二進法言語)
(2)人間から人間へと伝えられることのすべて(花言葉、絵画、沈黙の言語活動)
「これら二つの隠喩的な拡大のヴェクトルは、ありうるかぎりのもっとも本来的な意味における「言語活動」(人間の音声言語)に端を発している。言葉による言語活動は人間同士の意思疎通に役立ち、それは強固に組織化されている。なおかつ、二つの比喩的な意味のグループはすでにそこにある。かならずしも厳密な意味のみに限定することのできない、そうした言葉の用法の実状を考えてみると、映画を言語なき言語活動と見なすのが妥当であるように私には思われるのである。」(p.108)
第一次文節
「かつてどんな説が唱えられたにせよ、映画(シネマ)には音素がないだけでなく、「語」もまたない。映画は第一次文節には――稀にしか、またいわば偶然にしか――従わないのである。」(p.109)
「ここで明らかにすべきは、映画(シネマ)の「統辞論」が陥ってしまうほとんど克服不可能な障害が、大方のところ、出発点でのある混乱に由来しているということであろう。そこではまず、映像が語のようなものとして、シークェンスが文のようなものとして定義される。ところが、映像(少なくとも映画のそれ)は一つ、または複数の文に相当し、シークェンスは言説としての複合的線分をなしているのである。」(p.109)
|誤った考え方|メッツの主張
映像(ショット)| 語 |一つ、または複数の文
シークェンス | 文 |言説
「映像が通りを歩く一人の男性を示しているとしよう。それは「一人の男性が通りを歩いている」という文と等価である。確かに、この等価性は大雑把なものであり、大いに議論の余地があろう。それでも、この同じ映画(フィルム)的映像が、「男性」、「歩く」、「通り」といった個々の語に対応するということの方がもっと疑わしく、ましてや、冠詞や、「歩く」という動詞のゼロ形態素に対応するなどということはおよそ認め難いのである。」(p.110)
「映像が「文」であるのは、その意味の量(あまりに扱いにくい概念であり、特に映画においてはそうである)によるよりも、その断定的な性格によるのである。映像は常に現動化されている。したがって、内容からして語に相当するような――もともとかなり稀であるが――映像でも、それらはやはり文なのである。」(p.110)
(例)ピストルのクロース・アップのショットは、「ピストル」を意味しているのではない。「ここにピストルがある!」ということを意味している。
映画(シネマ)と統辞論(サンタクス)
・映画は常に言葉(パロール)であって、言語(ラング)の単位ではない。
「映画(シネマ)の統辞論というものは存在するが、それはこれから作り上げて行かなければならず、その企ては形態論ではなく、統辞論を基盤とすることによってしか成し遂げられない。ソシュールは、統辞法は言語活動の連辞的次元の一側面にすぎないが、あらゆる統辞法は連辞的であると指摘した。これは映画を論じる者にとっては熟慮に値する考えである。「ショット」は映画(フィルム)における連鎖の最少単位であるが(それはおそらくL・イェルムスレウが言う意味での「組成素」であろう)、シークェンスは大きな連辞的集合体である。そこで次の課題となるのは、映画(フィルム)が許容する連辞的配列の豊富さや、さらには過剰さを研究し(こうしてモンタージュの問題が別の角度から再び論じられることになる)、それを映画(シネマ)のもつ範列的表現力の驚くべき貧弱さと対比してみることであろう。」(p.111〜112)
統辞論と形態論
・統辞論 syntax(構文論)=単語を組み合わせて文が構成される仕組み・規則を扱う。
・形態論 morphology(語形論)=単語の内部構造(形態素の合成や語形の変化など)を扱う。
範列と連辞
・範列(パラディグム paradigm)記号表現において、ある記号と共通する特徴を持ち代替可能な記号間の関係
・連辞(サンタグム syntagm) 記号表現において、記号と記号を結びつける際に働いている関係・規則
| 範列軸 |
統辞軸 | 私 | は | ラーメン | を | 食べる
| 焼きそば |
| デザート |
映画(フィルム)の範列論
映画(シネマ)のもつ範列的表現力の驚くべき貧弱さ
「映画においては、映像の範列は不確かで大まかなものであり、それ自体が成立しないこともしばしばで、また容易に修正することも、さらには常に避けて通ることもできる。映画(フィルム)の映像が、連鎖の同じ位置に現れえたであろう他の映像との関係で意味をなす度合いは、わずかなものでしかない。そうした他の映像を数え上げることはできないのであり、というのも、その目録は無限ではないにせよ、少なくとももっとも「開いた」言語上の目録よりも開いているからである。」(p.112)
・映画(フィルム)においては、すべてが現前しており、断定として語られる。現前における関係(連辞関係)が豊かである一方で、不在の単位によって現前している単位を明示するような関係(範列関係)は不要かつ困難なものとなる。
・映画(シネマ)的映像は、コードなきメッセージであり、言語なき言語活動である。映像には、音素や形態素、単語に当たるものがなく、「言葉(パロール)の単位である文が一切を支配している」(p.113)。映画は常に新たに造語することによってしか語ることができない。その意味で、あらゆる映像はハパックス(特定の文脈の上で、一度だけ出現する単語のこと)である。「「映画言語学的」な構造主義とは統辞論的なものでしかありえない」(p.113)。
映画における範列関係
「映画(フィルム)の範列関係というものは存在する。しかし、そこで換入可能な単位をなしているのは大きな意味形成単位である。」(p.113)
・換入 commutation=「言語学・記号学の用語で、記号の連鎖の特定の水準(音素や形態素など)において、表現面のある要素を他の要素に置き換えた場合、内容面に差異を生じるか否か(また逆に、内容面のある要素を他の要素に置き換えた場合、表現面に差異を生じるか否か)を確かめる操作を指す。」(訳注、p.168)
(例)「本」「門」という語を区別する二つの音素「h」「m」は、換入可能な範列を構成している。
・ジャン=ルイ・リユペルーによる、西部劇の歴史に関する研究
「かつて「良い」カウボーイが白い衣装で、「悪い」カウボーイが黒い衣装で示されていた時代があった」(p.113)
・これを、映画における初歩的な換入と見ることができるが、
(1)シニフィアン(白/黒)とシニフィエ(良い/悪い)の両面にまたがるものである。
(2)広汎な大衆によってなされる換入である。
(3)換入が成立されるのに先立って、すでに二つの色(白/黒)も性質(良い/悪い)も画面に現前している。
という三つの点において、音韻に関わる換入と本質的に異なっている。
「こうした範列の貧弱さは、別の面で与えられている豊かさの代償である。話し手とは違って、映画作家は世界の多様性をわれわれに直接提示しながら表現することができる。そのために、範列はすぐさま溢れ出してしまうのである。これもまた、映画をめぐるいくつかの点において、コードとメッセージが繰り広げる戦いの一側面にほかならない。」(p.114)
カウボーイの例よりも言語における範列に近く、本来の意味で「映画的言語活動」を構成する、映画の範列の例
(1)多くのカメラの動き(前進移動/後退移動)
(2)句読法の技法(フェイド/ストレート・カット、すなわちディゾルヴ/ゼロ度)
「ここでは、ある関係と、それとは別のある関係とが対立している。換入可能な要素に加えて、観念上は不変であるような一種の支持体が常に存在しているのである。前進移動と後退移動は視線の二つの志向性に対応するが、その視線は常にある対象を、つまりカメラが近づいたり遠ざかったりする対象をとらえている。したがって、ここでは共範疇語に関する理論がわれわれの参考になるであろう。それに従えば、しかしという語が、決して反意の観念そのものを表すのではなく、常に、実現された二つの単位間の反意関係を表すのと同じように、前進移動は注意の集中を、決して注意それ自体に関わるものとしてではなく、常に対象に関わるものとして表すのである。
こうした支持体と関係の二重性が、知覚された複数の事実の視覚的同時性を許容する言語活動のうちに認められるということから、右に挙げたいくつかの技法が示し得る超線分的な性格が理解される。現に、支持体と関係はたいてい同時に知覚される。さらに、映画における「関係」は、カメラ(と観客)が支持体=対象に注ぐ視線としばしば一体化するのであり、いわば、顔への前進移動は、この顔を見るための一つの方法にほかならない。」(p.115)
「映画(フィルム)は同一の線分のうちに、知覚されるものの作用域と知覚するものの作用域をともに包含している」(p.116)
・共範疇語=「単独では限定的な意味を有さず、それを有する「範疇語」とともに用いられて、初めて意味が確定する語のこと」(訳注、p.169)
映画的理解
「映画(フィルム)は多かれ少なかれ理解される。まったく理解されないというようなことがたまにあるとすれば、それは特殊な事情のためであって、映画(シネマ)特有の記号学的メカニズムが原因なのではない。」(p.116)
「映画(フィルム)は常に理解されるが、しかし、それは常に多かれ少なかれ理解されるのであり、しかもその多少を数量化することは困難である。ここでは離散的に区切られる度合いや、容易に数え上げられる意味作用の単位が大方欠如しているからである。」(p.117)
「映画においては、映像のうちに並存する(コ=プレザン)意味作用の単位――というよりも要素――は、あまりに多数で、また特にあまりにも連続的である。どんなに知性的な観客でも、それらをすべて理解することはできないであろう。ところが、その代わりに、それらの要素のうちで主要なものを大まかに把握してさえいれば、全般的で概括的な(それでも的確な)全体の意味は「つかむ」ことができる。どんなに鋭敏さを欠いた観客でも、おおよそのことは理解できるのである。」(p.117)
「記号学的なメカニズムのせいではなく、そこで言われている事柄の性質そのものが原因でメッセージが理解不能となるすべての場合は――これは映画(シネマ)においても、また言葉による言語活動や、文学や、さらには日常生活においてもきわめて頻繁に生じることであるが――明確に別のとらえ方をしなければならない。多くの映画(フィルム)が(全体的ないしは部分的に、また特定の観衆にとって)理解不能となるのは、得てして、そのディエジェーズが内包する現実や概念があまりに微妙であったり、あまりに異国的出会ったり、あるいはよく知っていると誤って想定されているからである。そうした場合には、理解不可能なのは映画(フィルム)ではなく、逆に(フィルム)のなかで説明されてないすべての事柄なのだということは、これまで十分に強調されてこなかった。」(p.118)
映画(シネマ)と文学――映画(フィルム)的表現性の問題
「映画(フィルム)そのものは、いずれにせよ、それが提示するものしか提示しない。たとえば、リアリストであろうがなかろうが、一人の映画作家が何かを撮影したとする。そこで何が生み出されるのであろうか。撮影された光景には、自然なものであれ構成されたものであれ、すでに独自の表現性が備わっていた。なぜなら、要するにそれは世界の一断片だったからであり、世界の断片には常に意味が備わっているからである。小説家が出発点とする語にも、常にあらかじめ意味が備わっている。それは言語の断片であり、言語は常に意味するからである。音楽や建築の場合には、純粋に感覚的で何ものも指示しない材料(前者では音、後者では石)でもって、本来的に美的な表現性――様式――を最初から展開することができるという、ほかにはない幸運が与えられている。しかし、文学や映画の場合には、常に外示が芸術的な企てに先行するため、もとより共示を介することを余儀なくされるのである。」(p.120)
・共示(コノテーション)=「言語学用語。「共示」と訳される。特定共時文化内において認められ,辞書に登録されている語の最大公約数的な意味をデノテーション denotation「外示」というのに対し,語が喚起する個人的・情感的・状況的な意味をさす。たとえば,ナチス全盛時代にいわれた「ユダヤ人はユダヤ人だ」という表現において,最初の「ユダヤ人」は「ユダヤ民族に属する人」というデノテーションであり,2つ目の「ユダヤ人」は当時の反ユダヤ主義が生み出した「けちで不正直な人間」というコノテーションである。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
「映画においては、自然な表現性、つまり映画(フィルム)が提示する風景や顔のそれに、美的な表現性が接合される。言葉の芸術においては、美的な表現性は真の基礎的表現性をなすようなものにではなく、およそ表現性に乏しい観衆的な意味作用、つまり言語のそれに接合される。したがって、映画は美的な次元に滑らかに――表現性に表現性を接合することで――移行するのであり、容易な芸術である映画は、いつでもそうした安易さの犠牲となる危険性を孕んでいるのである。生き物や事物や世界の自然な表現性を利用できるのであれば、感銘を与えるのはなんとたやすいことであろう! あまりに容易な芸術であるからこそ、映画は困難な芸術なのであり、その容易さの斜面を映画は絶えずよじ登りつづけてきたのである。少しの芸術性も備えていないような映画(フィルム)はごくわずかであるが、豊かな芸術性を湛えた映画(フィルム)もまたごくわずかである。それにひきかえ、文学――特に詩――はいかに成立の確実さに欠ける芸術であろうか! マラルメが排撃した「部族の言葉」に美的な表現性(つまりある程度までは自然な表現性)を付与するというあの無謀な接合は、いかにして達成できるのであろうか。」(p.121)
「それでも、語に表現性を与えるという、この基礎的錬金術に詩人が成功した場合には、主要な仕事はすでになされており、困難な芸術である文学は、少なくともそうした容易さを宿しているのである。その企てはきわめて険しいものであるがゆえに、斜面を滑り落ちる恐れも少ない。いかなる芸術性も欠いているような本は数多いが、豊かな芸術性を備えた本もまたいくらかは存在するのである。」(p.122)
「表現」と「意味作用」の区別
「映画を研究する者にとっては、表現という語は(意味作用との対比において)はなはだ貴重なものであって、それを「シニフィアン」の意味に充てることはできない。(中略)私の観点に従うならば、「表現」はシニフィアンを指すのではなく、シニフィアンとシニフィエの関係が「内在的」な場合の、両者のあいだの関係を指す。さらには、表現的な記号系の場合には、表現するものと表現されるものという用語を(p.124)使用し、「シニフィアン」と「シニフィエ」という用語は、非表現的な関係(本来の意味での意味作用)に限定して用いるということも考えられるであろう。」(p.125)
・表現という概念(ミケル・デュフレンヌ)
・表現 |内在的意味素|自然 |包括的・連続的|生き物や事物に由来
・意味作用|外在的意味素|慣習的|離散的単位 |観念に由来
「世界の表現性(風景や顔)と、芸術の表現性(ワーグナー流のオーボエの憂愁)は、根本的には同じ記号学的メカニズムにしたがっており、そこでは「意味」がシニフィアンの総体から、コードの助けを借りることなく自然に引き出される。違いが存するのはこのシニフィアンのレヴェルにおいてであり、かつそこにおいてのみである――すなわち、前者の場合はそれは自然のなせるわざであり(世界の表現性)、後者の場合はそれは人間のなせるわざなのである(芸術の表現性)。」(p.123)
・文学:異質な共示を包含する芸術(非表現的な外示に表現的な共示が接合される。)
・映画:等質な共示を包含する芸術(表現的な外示に表現的な共示が接合される。)
映画、言語、文学(言語の芸術)の三つ巴の関係
・言葉の側では、通常の「言語」と「文学」は容易に区別することができるが、映画(フィルム)の側では、「映画(シネマ)という言い方がなされるのみで、「実用的」な映画と「美的(芸術的)」な映画を区別することが困難なのはなぜか?
「実を言えば、映画(シネマ)を完全に「美的な」用途に用いるなどということはありえない。なぜなら、いかに共示することに徹した映像であろうとも、写真的な支持作用を免れることはできないからである。(中略)他方、映画(シネマ)を完全に「実用的」な用途に用いることもまたありえない。いかに外示することに徹した映像であろうとも、やはり少しは共示するのである。ひたすら平板な説明に終始する教育的ドキュメンタリーであっても、映像の構図を決めたり、映像の連なりを組織したりする際には、なんらかの芸術的配慮らしきものを交えずにはおかないのである。「言語活動(ランガージュ)」がまったき形で存在しない場合に、たとえ拙くともその言葉を話すためには、自分自身が幾分か芸術家とならねばならない。その言葉を話すということは、ある面でそれを創り出すということでもある。これに対し、日常の言語(ラング)を話すということは、単にそれを使用するということにすぎない。
こうしたことはすべて、映画における共示がその外示と等質であり、両者がともに表現的であることに由来している。映画においては、芸術から非芸術への、また非芸術から芸術への、移行が絶えず行われる。映画(フィルム)の美しさは、撮影された情景(スペクタクル)の美しさと幾分か同じ法則にしたがっており、場合によっては、両者のどちらが美しく、どちらが醜いのか判らなくなってしまうぐらいである。フェリーニの映画がアメリカ海軍の映画(新兵にロープの結び方を教えるための)と異なるのは、才能と目的によってであって、その記号学的メカニズムの根底にあるものによってではない。純粋に伝達的な映画(フィルム)もまた、他の映画と同じように作られているのであり、それに対してユゴーの詩は、職場の同僚との会話と同じように作られているわけではない。そもそも、詩は書かれ、会話は口頭でなされるのに対し、映画(フィルム)は常に撮影される。しかし、それは根本的な違いではない。言葉(ヴェルヴ)の伝達的な用法と、その日的な用法のあいだの溝は、異質な共示が介在する(それ自体は非表現的な語(モ)に表現的価値が付与される)ことによって生じるのである。」(p.126〜127)
「言葉による言語活動は日々刻々、あらゆる状況で用いられる。文学が存在するためには、まず一人の人物が書物を書くという、特殊で骨の折れる、日常性にとりまぎれてしまうことのない行為が前提となる。映画(フィルム)は、「実用的」であろうと「芸術的」であろうと、常に書物のようなものであって、会話のようなものでは決してない。それは常に創り出されなければならないのである。さらに、書物と同じく、そして話される文とは違って、映画(フィルム)はその場にいる相手が即座に同じ言語(ランガージュ)で答えるというような、直接的な返答を想定していない。この点でも、映画(フィルム)は意味作用であるよりもむしろ表現なのである。コミュニケーション(双方向的な関係)と「恣意的な」意味作用のあいだには、いささか曖昧ではあるがおそらく本質的な連帯関係がある。逆に、単方法的なメッセージはしばしば(恣意的でない)表現に帰属し、こちらはより把握しやすい結びつきをなしている。表現によって、事物や生き物は他(p.127)との違いを何よりも際立たせるのであり、そうしたメッセージは返答を想定していない。いかに仲睦まじい愛であっても、それは「対話」ではなく、問答体詩をなすものなのである。ジャックとニコルに語るのは、ジャックがニコルに抱く愛であり、ニコルがジャックに語るのは、ニコルがジャックに抱く愛である。よって、二人は同じ事柄について話しているのではなく、彼らが愛を「分かち合って」いるというのは実に当を得た言い方である。二人は互いに答え合っているのではない。自らを表現している者に真に答えることなどできないのである。
彼らの愛は二つの愛に分かたれており、それが二つの表現をもたらす。あとからの影響や調整の作用によって規定される対話(もしくは愛を維持する相互理解)ではなしに、ある種の偶然があったからこそ――ゆえにそれが実現することは稀なのであるが――、彼らは二つの異なる感情を表明しながら、自らも知らぬ間に、対話ではなく遭遇にほかならない、かついかなる会話も消滅するような融合のみをめざす、言葉のやり取りを設定したのである。(ニコルなしの)ジャックや(ジャックなしの)ニコルのように、映画(フィルム)と書物は自らを表現するのであり、それに対して人は真に返答することはない。逆に、通常の言語活動によって、私が「何時ですか」と尋ね、相手が「八時です」と答えたとすれば、私は自らを表現したのではなく、意味し、伝達したのであり、相手は私に答えたのである。」(p.128)
映画(シネマ)と超言語学――大きな意味形成単位
「映画に現れるのは「文」や断定や現働化された単位のみである。それらについて、どうして言語との関連を探ってみずにいられようか。」(p.129)
ソシュールを継承する研究の顕著な動向(p.129)→ 文の問題を扱う流れ
・ジョゼフ・ヴァンドリエス「手の動作が語よりもむしろ文に相当する」
・エリック・ビュイサンス、交通法規の標識や、記号に分解できないすべての「意味素」に関して同様の指摘
・レヴィ・ストロース、神話の最少単位である「神話素」を「断定」として定義。「大きな神話素」は再帰的主題を持つ文の集合体。
・プロップ、ロシア民話の分析
・ロラン・バルト「大きな意味形成単位」
・ムーナン、非言語的なコミュニケーション体系の重要性。記号学への着手の必要性。
・ヤコブソン、文よりも上位の集合体に関心を寄せることで、詩についての言語学的な研究が可能?
「もちろん、多少なりとも言葉(パロール)の言語学に類するようなものはすべて、ジュネーヴの師の理念からは外れるものであろう。その点での困難が指摘されるのも無理はない。しかし、その困難は克服不可能なものではなく、言葉(パロール)の研究に手を出すことになりかねないという口実であらゆる研究を抑えつけてしまうのは、この偉大な言語学者に対する奇妙な敬意の表し方というものだろう。手を出す、と私は述べた。というのも、非言語的な表現手段の研究においては、扱う材料の本性そのものから、言語(ラング)についての言語学でも、真に言葉(パロール)についての言語学でもないような、むしろエミール・バンヴェニストが言う意味での(あるいはE・ビュイサンスのような研究者が、より多様な「言語活動」を把握するために、まさしくソシュールの有名な二分法を拡張しようと努めた一節でこの語を用いた際の意味における)言説についての「言語学」を実践せねばならなくなることがしばしばあるからである。米国の記号論が純然たる「記号(サイン)=出来事(イヴェント)」と呼ぶ、二度とは起こらず、科学的研究を受け付けないような出来事としての言葉(パロール)と、すべてのものが相互に関連し合っている、組織化された作用域としての言語(ラング)(人間の言語や、よりいっそう体系的なものとしての形式化された機械言語)のあいだには、「記号(サイン)=意匠(デザイン)」や、文の図式や、バルト的な意味での「エクリチュール」など、つまりは言葉(パロール)の類型を研究する余地があるのである。」(p.133)
結論
映画(シネマ)を論じる四つの方法
(1)映画批評
(2)映画史
(3)映画理論(制度の内部)
(4)映画学(フィルモロジー)(制度の外部)
「映画学と映画理論はある意味で相互に補い合うものである。」(p.134〜135)
「映画学からも映画理論からも――残念ながら――ひどくかけ離れたところに、言語学とその記号学的な延長部分がある。」(p.135)
「以上の論述を導く指針となったのは、今やある合同の企てに着手すべき時期が到来したという革新であった。(p.135)偉大な映画理論家たちの著作と、映画学の業績と、言語学の成果をともに基盤とするような考察は、人間が、人間的な意味作用を、人間社会で伝達し合う際のメカニズムを研究するという、あのソシュールの素晴らしい計画を、映画(シネマ)の領域において、徐々に――その道のりは長い――、またなかんずく大きな意味形成単位のレヴェルで、実現できるようになるであろう。
ジュネーヴの師は、映画が私たちの世界で持つに至った重要性を確認することなく、この世を去った。誰一人としてこの重要性に異議を唱える者はいない。映画の記号学を創始しなければならない。」(p.136)
1980年代日本映画ベスト・テン(『キネマ旬報 2019年1月上旬特別号』)
『キネマ旬報 2019年1月上旬特別号』の創刊100年特別企画第4弾「1980年代日本映画ベスト・テン」に参加しました。
自分以外にも『妖女伝説'88』に票が!と思ったら渡邉大輔さん。実験映画の得票は前回より多い印象です。『ゴジラvsビオランテ』はまさかの1票。
古賀奏一郎『霊界の扉 ストリートビュー』2011年
『自撮り棒×怨念動画』2016年
國宇克信(エグゼクティブプロデューサー)
佐藤宙史(プロデューサー)
自撮り棒に付けたスマホで撮影された心霊動画5本を収録したオムニバス。第2話「怨念の専門学校」と第4話「恐怖の女子会」には、動画共有サイトやSNSに投稿するため自撮り動画を撮影する人物が登場する。
背後に霊が写っているが撮影者自身は気づかないという展開の反復や、興味の対象にカメラを向けるために撮影者が大きく身体を反らす動作など、「自撮り棒で撮った」という制約が物語や画面設計にどのように影響するのかが窺え興味深い(ただしそれが上手く「恐怖」に結びついていないのが難点)。
誰でも映像の編集・加工ができる時代になって心霊映像は訴求力を失ったという風潮に反し、「スマホが普及して以来、送られてくる動画の数は増している。簡単に撮ることができるからこそ、簡単に写り込んでしまう」と断言するナレーションが頼もしい。
Netflixで見ることができる(できた)ネット関連ドキュメンタリー
Netflixの魅力の一つは、優れたドキュメンタリーが数多くエントリーされていること。一例として、個人的なリサーチの中で見つけたネット/IT関連のドキュメンタリーのリストを掲載しておきます。いつの間にか公開終了して見れなくなっているものも多いので、気になる作品があればすぐに見ておくことをお勧めします。(2018.5.18)
- ポール・セン『スティーブ・ジョブズ1995~失われたインタビュー~』2013年
- ジョー・ピスカテラ『#シカゴガール: ソーシャルネットワークが起こした奇跡』2013年
- ブライアン・ナッペンバーガー『インターネットの申し子:天才アーロン・シュウォルツの軌跡』2014年
- ルイス・ロペス、クレイ・トゥイール『プリント・ザ・レジェンド』2014年
- ローラ・ポイトラス『シチズンフォー スノーデンの暴露』2014年
- ジョナソン・ナーダッチ『ラブ・ミー』2014年
- サマンサ・フーターマン、ライアン・ミヤモト『双子物語』2015年
- グレッグ・バーカー『ザ・スレッド』2015年
- アレックス・ウィンター『ディープ・ウェブ』2015年
- ジョセフ・トスコーニ『セクスティング中毒』2015年
- ブレット・ウェイナー『ジャノスキアンズの裏話とホラ話』2015年
- デヴィッド・ファリアー、ディラン・リーヴ『くすぐり』2016年
- ハバナ・マーキング『アシュレイ・マディソン:セックスと嘘とサイバー攻撃』2016年
- ヴェルナー・ヘルツォーク『LO:インターネットの始まり』2016年
- ナネット・バースタイン『ジョン・マカフィー:危険な大物』2016年
- ボニー・コーエン、ジョン・シェンク『オードリーとデイジー』2016年
- アマンダ・ミッチェリ『ラスベガス・ベビー』2016年
- ジェイソン・コーエン『シリコン・カウボーイズ』2016年
- ローラ・ポイトラス『リスク:ウィキリークスの真実』2017年
- クリストファー・カヌーチアリ『仮想通貨 ビットコイン』2017年
- メアリー・マジオ『私はジェーン・ドウ:立ち上がる母と娘』2017年
ポール・セン『スティーブ・ジョブズ1995~失われたインタビュー~』2013年
スティーブ・ジョブズの1995年のインタビュー映像を彼の死後に再編集した作品。聞き手はロバート・X・クリンジリー。
同インタビューはテレビ番組『The Triumph of the Nerds : The Rise of Accidental Empires』に一部が用いられたが、オリジナルの映像素材は長らく行方不明になっており、後に偶然ガレージからコピーが発見されて日の目をみることになった。こうした経緯もあって、余計な演出や資料映像は挟まずにひたすらジョブズの語る姿を映し出すストイックな構成となっている。
当時のジョブズは自身が招いたジョン・スカリーにアップル社を追われ、1985年に創業した「NeXT」のCEOとして巻き返しを図っていた。
10歳でのコンピュータ体験、スティーブ・ウォズニアックとの出会い、電話ハッキングデバイス「ブルーボックス」の開発、Apple IやApple IIの開発をめぐる伝説的なエピソードがジョブズ自身の口から語られ、さらにNeXTの現状と今後の展望が述べられる。アップル社に復帰して、iMacやiPod、iPhoneの開発で再び栄光を浴びる前夜のジョブズを見ることができる。
ジョー・ピスカテラ『#シカゴガール: ソーシャルネットワークが起こした奇跡』2013年
「ラップトップパソコンでシリア革命を進めている」と語る、シカゴ在住の若き活動家アラー・ベサートニー(Ala'a Basatneh)を追ったドキュメンタリー。
ベサートニーは1992年にダマスカスに生まれ、家族と共にアメリカへ移住。2011年にシリア騒乱が勃発すると、YouTubeやFacebookなどのSNSを通じて現地の情報を収集し、英訳して世界中に発信。自宅の寝室に居ながらにして反体制派の支援を続けている。
https://www.netflix.com/title/80045625
(※公開終了)
ブライアン・ナッペンバーガー『インターネットの申し子:天才アーロン・シュウォルツの軌跡』2014年
情報の自由のために戦ったアクティビスト/ハクティビスト、アーロン・シュウォルツ(スワーツ)の人生を振り返る。
1996年生まれのシュウォルツは幼少期から神童と評判で、将来有望なウェブサイト制作者に与えられる「ArsDigita」賞を受賞。RSS(ニュースサイトやブログなどの更新情報を配信するためのフォーマット)構想やクリエイティブ・コモンズ(CC)の設立に関わり、ソーシャルニュースサイトredditの共同開発者にもなった。
その後、シュウォルツは情報が万人に開かれることを理想に掲げ、課金制となっていた「PACER」(裁判の電子記録をする公開システム)や「JSTOR」(科学学術論文の電子図書館)のデータを大量にダウンロードして一般公開したり、オンライン海賊行為防止法案「SOPA」の反対運動を展開するなど精力的な活動を展開するが、その法を犯すことも辞さない行動は当然FBIや検察の捜査対象となり、2011年に逮捕。2年後に自殺し、政府によって殺されたも同然だとの声が上がった。
映画では、家族が撮影したホームビデオやメディア出演時の記録など豊富な映像資料、関係者のインタビューなどを構成してシュウォルツの人物像を紹介すると共に、彼の軌跡を通じて2000年代から2010年代のネットの歴史を浮かび上がらせることが試みられている。
https://www.netflix.com/title/70299288
(※公開終了)
ルイス・ロペス、クレイ・トゥイール『プリント・ザ・レジェンド』2014年
卓上3Dプリンターの開発販売に乗り出したスタートアップ企業に密着したドキュメンタリー。
いち早くメーカーボット社(MaakerBot)を立ち上げて時代の寵児となるも、オープンソースからクローズドソースへの路線変更で嫌われ者になったブリー・ペティス、フォームラボ(Formlabs)を立ち上げてクラウドファンディングで資金を得るが、出荷の延期や大手企業からの訴訟など数多くのトラブルに見舞われるマックス・ロボフスキー、3Dプリンターで銃を作成して物議を醸した非営利団体ディフェンス・ディストリビューテッドのコーディ・ウィルソンの三名への取材を軸として、ネット世代が現実空間のモノ作りに参入したメイカーズムーブメントの熱狂を捉えている。『WIRED』の元編集長で、『ロングテール』『フリー』『メイカーズ』といった著作で知られるクリス・アンダーソンも登場。
ローラ・ポイトラス『シチズンフォー スノーデンの暴露』2014年
元NSA・CIA職員のエドワード・スノーデンがアメリカ政府による国民監視の実態を告発した「スノーデン事件」を間近で見つめたドキュメンタリー。アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門を受賞。
監督のローラ・ポイトラスは、2013年にまだ知られざる存在であったスノーデンから匿名のメール(このとき彼は「シチズンフォー」と名乗っていた)を受け取り、ジャーナリストのグレン・グリーンウォルドと共に香港のホテルでスノーデンと対面して独占インタビューを敢行。マスコミに機密情報を提供し、実名での内部告発の準備を進める過程を生々しく記録している。
ジョナソン・ナーダッチ『ラブ・ミー』2014年
国際的な婚活を支援する出会い系サイトにまつわる悲喜交々。
離婚や死別など様々な理由でパートナーを求めるアメリカ人男性が、サイトで知り合ったロシア人女性やウクライナ人女性にはるばる会いに行く。孤独を抱える男性の表情を捉えたクローズアップと、サイトに掲載されている女性のプロフィール写真の虚構性が対比的に描かれる序盤から、女性たちの生活事情や内心が露わになっていく中盤を経て、幸福な結婚に至る者、何の進展もなく終わる者、式を挙げた直後に別れを切り出される者など三者三様の結末が描かれる。
https://www.netflix.com/title/80037204
(※公開終了)
サマンサ・フーターマン、ライアン・ミヤモト『双子物語』2015年
2012年、フランス在住のデザイナー・アナイスは友人から、YouTubeの動画に彼女のそっくりさんが写っていると聞かされる。調べてみると、その人物はロサンゼルス在住の女優サマンサ。共に韓国で生まれて養子に出され、誕生日も同じであることが判明する。
アナースはサマンサにFacebookでメッセージを送り、すぐさま意気投合。実の母親と思われる人物と会うことはできなかったが、DNA鑑定の結果、アナースとサマンサは一卵性双生児であることが確定。二人は家族ぐるみでの付き合いを始め、親交を深めていく。
映画はサマンサ自身が監督をつとめており(ライアン・ミヤモトとの共同監督)、実際の動画チャットの録画やチャットログをふんだんに使用。出来事を事後的に顧みるのではなく、観客も姉妹の再会の瞬間に立ち会っているかのような感覚を味わうことができる。
グレッグ・バーカー『ザ・スレッド』2015年
2013年4月15日のボストンマラソン爆弾テロ事件を題材として、犯行自体の政治的意図や背景ではなく、事件をめぐる報道のありかたに注目したドキュメンタリー。
テロ事件の様子は現場に居合わせた人びとがYouTubeに動画をアップすることで瞬く間に拡散し、ソーシャルニュースサイト「reddit」(レディット)やTwitter上では素人探偵による犯人探しが加熱した。オールドメディアの報道をしのぐ速報性や集合知による情報収集が注目される一方で、複数の人物が冤罪で槍玉に挙げられ、自殺者も出るなど、深刻な事実誤認やデマの問題も浮上した。同作では、実際にアップされた動画やSNSへの書き込み、犯人探しに関わった人びとへのインタビューを構成し、ネット時代の報道のありかたを批判的に検証している。
https://www.netflix.com/title/80077403
(※公開終了)
アレックス・ウィンター『ディープ・ウェブ』2015年
一般的な検索エンジンにはヒットしないディープウェブ(深層ウェブ)の世界を扱ったドキュメンタリー。『Downloaded』(2012年)『スモッシュ』(2014年)のアレックス・ウィンターが監督し、キアヌ・リーヴスがナレーションをつとめる。
表層ウェブの数千倍の規模を誇ると言われるディープウェブの中でも、Torネットワークなどを用いて匿名性を高めたアドレス空間は「ダークウェブ」や「ダークネット」と呼ばれており、ビットコイン取引による偽造書類や麻薬の密売、マネーロンダリング、殺人依頼など、あらゆる犯罪の温床となっているという。
映画では、違法薬物を中心とする巨大な闇市場「シルクロード」の管理者とされる人物、ロス・ウィリアム・ウルブリヒトが2013年に逮捕された事件を取り上げている。シルクロードの管理者はドレッド・パイレーツ・ロバート(DPR)と名乗り、サイトの運営は自由至上主義を掲げる政治的な運動でもあった。アレックス・ウィンターはDPRの思想やウルブリヒトの生い立ちを追い、彼の冤罪を主張する家族や友人たちにインタビューすると共に、検察側の証拠入手の手段を問題視。DPRに対して一定の共感を示す内容になっている。
ジョセフ・トスコーニ『セクスティング中毒』2015年
SNSやチャット、メール等を利用して性的なテキストや画像を送受信する行為「セクスティング」(sexting、sexとtextingの混成語)を扱ったドキュメンタリー。紀元前3万年前まで遡り、テクノロジーの進歩と並走する性的描写の歴史を追うと共に、セクスティング経験者やポルノ女優、心理学者やメディア研究者等へのインタビューを通じて、セクスティングのメリットとデメリットを両論併記的に取り上げる。
なお同作によれば、セクスティングの語が初めて登場したのは2004年のカナダの新聞記事。また最新の事例として、送信した写真や動画が一定時間で消滅する「スナップチャット」(Snapchat)、GPSを利用したマッチング・出会い系アプリ「ティンダー」(Tinder)が紹介される。
ブレット・ウェイナー『ジャノスキアンズの裏話とホラ話』2015年
YouTubeでブレイクし、音楽活動もおこなうオーストラリアのコメディグループ「ザ・ジャノスキアンズ」を追った(フェイク)ドキュメンタリー。
虚実を織り交ぜたユーモラスなメンバー紹介(ただし既存ファン向けのネタが多く、少々ハイコンテクスト)を挟みつつ、ロンドンのウェンブリー・アリーナで大規模なライブを開催するまでを描く。終始際どい下ネタや悪ふざけを連発するものの、ステージに立ち歌うザ・ジャノスキアンズの姿は正統派アイドルさながらで、日本のユーチューバーのイメージからは大きくかけ離れている。
デヴィッド・ファリアー、ディラン・リーヴ『くすぐり』2016年
※過去記事で言及。
ハバナ・マーキング『アシュレイ・マディソン:セックスと嘘とサイバー攻撃』2016年
大手出会い系サイト、アシュレイ・マディソンの個人情報流出事件を取り上げ、その背景と問題に踏み込む。
同サイトは既婚者を主要なターゲットとし、「人生は一度だけ。不倫しましょう」という挑発的なコピーで話題を集めたが、2015年にサイトの閉鎖を求めるハッカー集団・インパクトチームによって登録会員の8割に当たる約3200万人分の個人情報が盗取・公開され、自殺者が出るほどの大騒動となった。
映画では、2007年にCEOに就任したノエル・ビダーマンのビジネス戦略を追い、女性会員を偽るボット(fembot)の導入、ポルノ映画への参入や売春との関わりの隠蔽によるカジュアルなイメージづくり、財務統計の虚偽といった数多くの問題が指摘されている。
ヴェルナー・ヘルツォーク『LO:インターネットの始まり』2016年
映画監督ヴェルナー・ヘルツォークが自らナレーターとインタビュアーをつとめ、インターネットの誕生と歴史を辿るドキュメンタリー。
「ネットの夜明け」「ネットの栄光」「暗黒面」「ネットのない生活」「ネットの終わり」「地上の侵入者」「火星のインターネット」「人工知能」「私のインターネット」「未来」の十章で構成される。
太陽フレアによる電波障害のような宇宙規模のリスクを取り上げたと思えば、交通事故現場の写真を拡散するネットユーザーの悪意を問題視し、人工知能やロボット産業、火星でのネット利用といった最先端技術を紹介したかと思えば、電磁波過敏症により電波の届かない土地での生活を余儀なくされる人々に取材したりと、縦横無尽にスケールを変化させながら、ネットの可能性と課題を多面的に描き出していく。エルヴィスの曲でも電波顕微鏡の障害になるのかと尋ねたり、セキリュティー・アナリストにコーヒー漬けで深夜作業をするのかと尋ねるなど、ヘルツォークのとぼけた質問やコメントが味わい深い。
原題の「Lo and Behold」は「驚いたことに」を意味し、1969年10月29日にカリフォルニア大学とスタンフォード研究所が世界初のパケット通信ネットワーク実験をおこなった際、「log」と送信するはずが「lo」の時点でコンピュータがクラッシュしたエピソードから採られている。
ナネット・バースタイン『ジョン・マカフィー:危険な大物』2016年
コンピュータセキュリティソフト開発・販売会社の最大手「マカフィー」(McAfee)の創業者、ジョン・マカフィーの闇に迫る。
マカフィーは1987年にいち早くアンチウィルスソフトを売り出して財をなすが、1994年に退職。コロラドの山中でヨガに傾倒した後、中央アメリカのベリーズに移住し、無数の恋人と愛犬とボディーガードに囲まれた奔放な生活を送る。2012年、しばしば噂される被害妄想癖が関係しているのか、マカフィーはトラブルのあった隣人を殺害した容疑をかけられて国外逃亡。アメリカに舞い戻って大統領選に出馬するなど、現在もメディアに話題を提供し続けている。
監督のナネット・バースタインは、マカフィーが過去に起こした数々の事件のツケを払うこともなく、コンピュータセキュリティーの権威として復権を果たしつつあることを問題視。本人への直接インタビューは拒否されたものの、長いメールのやりとりや関係者への取材をもとに、事件の事実関係やマカフィーの人物像を検証していく。
ナネットへのメールの末尾に記された「私はいつものようにメディアを翻弄している。君は私の最高傑作だ」という言葉が、一見行き当たりばったりのようだが、実は巧妙かつ周到な策略を張り巡らせているマカフィーの底知れなさを感じさせる。
ボニー・コーエン、ジョン・シェンク『オードリーとデイジー』2016年
ネットを媒介としたセカンドレイプ被害にあった二人の少女。オードリーは性的暴行を受ける様子を撮影され、その動画を学校中に拡散されたことを苦にして自殺。一方のデイジーは、加害者の祖父が権力者だったためにレイプ事件をもみ消された挙句、SNSでの誹謗中傷、自宅への放火や母親の失職といった嫌がらせを受け続けた。デイジーは自分と似た境遇のオードリーの存在を知り、その家族と対面する。
一部の証言者はプライバシー保護のため、インタビュー音声をアニメーションの人物に喋らせる「アニメーション・ドキュメンタリー」の手法が用いられている。
アマンダ・ミッチェリ『ラスベガス・ベビー』2016年
保険適用外の高額不妊治療を手がける医療機関シェア・クリニックと、妊活に励む個人やカップルに取材したドキュメンタリー。シェア・クリニックはYouTube上でコンテストを開催し、妊娠への想いを語るもっとも優れた動画の投稿主に、無料での体外受精の権利を授与する活動を展開。賛否両論を巻き起こした。
ジェイソン・コーエン『シリコン・カウボーイズ』2016年
90年代にはパソコンメーカー最大手の座についていた企業コンパックの歴史を振り返る。
1982年にロッド・キャニオン、ビル・マート、ジム・ハリスの三名が共同設立したコンパックは、当時の市場を独占していたIBMの牙城を崩すべく「コンパック・ポータブル」を開発。IBM PCとの互換性と持ち運び可能なコンパクトさを兼ね備えたこのマシンが大ヒット商品となり、コンパックの事業規模は一気に拡大していく。
ローラ・ポイトラス『リスク:ウィキリークスの真実』2017年
内部告発サイト「ウィキリークス」の成立過程と、その創始者ジュリアン・アサンジの人物像に迫るサスペンス映画『フィフス・エステート/世界から狙われた男』(ビル・コンドン、2013年)は、製作中からアサンジ本人とウィキリークスに「事実を歪曲している」と批判され、公開の中止を求められた。アサンジとウィキリークスは、2017年に公開されたドキュメンタリー『リスク:ウィキリークスの真実』に対しても激しい批判を加え、公開中止を要請している。
興味深いのは、このドキュメンタリーが『フィフス・エステート』と驚くほど似通った物語展開を見せることだ。
監督のローラ・ポイトラスは2010年から2016年までアサンジに密着取材し、ウィキリークスの歴史を間近で見つめ続けてきた。当初のローラは、アサンジが米国務省に電話をかけて外交公電の流出を警告する場面に立ち会うなど、確かな信頼を感じさせる距離感で撮影をしているが、性的暴行容疑に対するアサンジの釈明辺りから次第に溝が生じ、両者の心的距離に比例するように、カメラポジションも遠ざかっていく。
ついには、アサンジがローラに対して述べたという映画への懸念──「我々の仲違いは見せない約束だろう」「試写の後、相互の妥協点を探すつもりだ」「現時点で本作は私の自由への脅威であり、そういう認識で扱う」──が紹介され、映画は締めくくられる。
クリストファー・カヌーチアリ『仮想通貨 ビットコイン』2017年
仮想通貨(暗号通貨)ビットコインを題材としたドキュメンタリー。
サブプライムローン問題を発端とする世界金融危機の反省から、従来の金融システムや政府の介入を受けないオルタナティブな経済活動を実現すべく立ち上げられたビットコインは急成長を遂げる。しかし闇サイト「シルクロード」の摘発や、ビットコイン両替所「ビットインスタント」の運営者チャーリー・シュレムの資金洗浄の疑いによる逮捕など、ビットコインは次第に規制・認可の対象となり、従来の金融システムに取り込まれていく。
映画では、そうした政治的介入に抵抗し、ビットコイン本来の思想と理想を守ろうとする関係者たちのインタビューを軸として、ニュース映像やオンライン記事を散りばめつつ、ビットコインの歴史と現状、今後の課題を明らかにする。
メアリー・マジオ『私はジェーン・ドウ:立ち上がる母と娘』2017年
アメリカの大手オンライン広告サイト「バックページ」(backpage.com)が性的人身売買に加担していることを告発する。
同サイトの「エスコート(同伴者)募集」広告は、実質的に児童売春の温床となっているにもかかわらず、経営陣は有効な対策を打たず、むしろその利益を積極的に享受していると批判を受けている。しかしバックページは「表現の自由」を主張し、憲法修正第1条や通信品位法(CDA)を盾にして多くの訴訟で勝利を収めてきた。GoogleやFacebookなどの大企業もバックページ擁護に回り、法による規制に反対している。
映画では、誘拐や売春の被害にあった多くの人びとを代弁して「わたしはジェーン・ドゥー(身元不明を表す名前)」と声を上げる被害者とその家族、弁護士らの活動紹介やインタビューを通して、バックページの問題に目を向けるよう視聴者に呼びかけている。