ロバート・スタム、ルイス・スペンス「映画表現における植民地主義と人種差別 序説」1983年
ロバート・スタム、ルイス・スペンス「映画表現における植民地主義と人種差別 序説」原著1983年、奥村賢 訳
岩本憲児、武田潔、斎藤綾子 編『「新」映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』フィルムアート社、1998年
「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー (歴史/人種/ジェンダー)
- 作者: 岩本憲児,斉藤綾子,武田潔
- 出版社/メーカー: フィルムアート社
- 発売日: 1998/01/01
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・本論文では、映画作品における植民地主義や人種差別を扱う既存の研究が暗黙のうちに前提としている方法論を踏み台として、それを乗り越える方法論を提示することを目指す。
・従来の研究は、映画の物語における社会描写や人物描写ばかりを強調する傾向があり、映画が「本来的に組み立てられたものであり、つくりあげられたものであり、表象化されたものであるということ」(p.177)を直視していない。植民者の被差別者に対する傲慢や偏見に目を向けさせるという点では重要な役割を果たしてきたが、一見すると被差別者を肯定的・魅力的に描こうとしている「陽性のイメージ」にも含まれている差別的眼差しや人種的偏見、家父長制的な干渉主義を見逃してしまいかねないという問題がある。
「われわれもコンテクスト的なもの、すなわち映画産業に関係する諸問題が、その製作、配給、公開の過程が、映画のなかに植民地主義や人種差別をもたらす社会制度や制作実務が、決定的に重要な意味をもっているということは百も承知しているが、ここではテクスト的なものと間テクスト的なものに焦点をあてて論じていきたい。」(p.177)
「反植民地主義的観点からの分析も、フェミニズム批評に影響されて方法論的には同じような軌跡をたどるにちがいないというのがわれわれの見解である。」(p.177-178)
※要約に際して小見出しを追加した。
定義
三つの言葉の定義
植民地主義
欧米の諸勢力がアジアやアフリカ、中南米地域を傘下におさめて、「経済的、軍事的、政治的、文化的支配権を確立していった過程」(p.178)。
第三世界
植民地主義による歴史的犠牲者。具体的には「植民地主義や新植民地主義によって植民地にされている国、あるいはようやく植民地支配から脱し、独立を遂げた国のことであり、植民政策の過程で経済構造や政治構造が決定されていったり、歪められたりしていった国々のこと」(p.178)。経済的・人種的・文化的地理区分についてよりも「構造的支配」に関する言説が必要である。
人種差別
人種差別はその多くが植民地化の過程で生み出されてきた。犠牲者たちは第二市民として抑圧的環境に置かれ、アイデンティティーをねじ曲げられる。作家のアルベール・ミンミの言葉を借りて、ここでは人種差別を「告発者が利するように、告発者の餌食となる者に犠牲を払わすかたちで、普遍的かつ決定的に、現実もしくは想像上の差異に価値をあたえること」「前者の特権や侵略を正当化するためになされるもの」(p.177〜178)と定義。
映画における植民地主義的表象
・ルネサンス期に「遠近法」的なものの見方のコードが創出され、カメラというイデオロギー装置(ジャン・ルイ・ボードリ)にも組み込まれた。そうした主客を分離する考え方に基づいて、ヨーロッパは自己のイメージ(「ヒューマニズム」「人間の諸権利」)を築き上げるとともに、他者のイメージ(「野蛮人」「人喰い」)をもつくり上げていく。男性優位主義が女性を「欠陥品」扱いしたのと同様に、こうした他者のイメージは、自己の思い上がりを映し出した鏡である。
「カメラがブルジョワ的ヒューマニズムのある種の特質を刻印する機器であるといえるのかもしれないのとちょうど同じように、映画やテレビといった装置は、きわめて包括的にいうなら、ヨーロッパ植民地主義のある特質を刻印するものといえるであろう。これらの装置が提供する魔法の絨毯は、われわれを地球上のあらゆるところに運び、われわれを視聴覚世界の支配者にしてくれる。支配者になれるのは、われわれがじつは主客の位置にあるからである。魔法の絨毯はわれわれを主客的存在にし、空想世界の征服者に祭りあげていく。魔法の絨毯はわれわれが権力意識をもつことについて肯定的である。だが、一方でそれは、第三世界の住民たちを、第一世界の窃視病的なまなざしに奉仕する見世物にしているのである。」(p.179)
映画誕生以前の植民地主義的表象
「植民地主義的表象は映画の誕生とともにこの世にあらわれてきたものではない。それは、植民地にかかわる広大な間テクストのなかで、広範囲にわたって散見される一連の多種多様な諸活動のなかで育まれていったものである。人種差別的な最初の映像がヨーロッパや北米の映画に登場するずっと以前から、欧米の文学では、植民地主義者のイメージが形成されていく過程を、それに対する抵抗も含めて反映するようなものがあらわれていた。」(p.179)
紋切り型の表現
「映画の草創期とヨーロッパ帝国主義の最盛期は重なり合っているから、ヨーロッパ映画が植民地について包み隠すことなく描いていてもそれほど驚くべきことではない。怠惰なメキシコ人やうさんくさいアラブ人、野蛮なアフリカ人や異国情緒あふれるアジア人が映画のスクリーンに次々と登場してくる。」(p.181)
・アーサー・ホタリング『ズールランドのラストゥス』1910年
→ アフリカが人喰い人種の住む大陸として描かれる。
・ウィリアム・F・ハドック『グリーザー・トニー』1911年
→ 奴隷制度の理想化。
・ガストン・メリエス『グリーザーの復讐』1914年
→ 奴隷制度の理想化。
・D・W・グリフィス『國民の創生』1915年
→ 奴隷を卑しい存在として描く。
・その他、何百本も製作されたハリウッド西部劇
→ アメリカ先住民を侵入者として描くという歴史の転倒。「非白人世界全体をとらえるとき、いかなる視点から眺めればいいかという範例の提供者」(p.181)
「なぜ第三世界を扱っている数多くの映画作品に、欠陥のある偏向的模倣とでも呼べるようなものが存在するのか。これについては、植民地主義的遺産の継承という観点から説明することができる。数かぎりない民族誌的誤りや言語学的誤り、なかには地形学的な誤りさえあるが、ハリウッド映画にみられるこうした誤謬はこうした遺産の継承がおこなわれていることの証左である。」(p.181)
構造的不在者
服従者の不在
「実像を歪めるような紋切り型の表現があるからではなく、服従を強いられてきた人々についての表現がないから、模倣が破綻をきたしている場合もときおりある。」(p.182)
・ジョン・マレー・アンダーソン『キング・オブ・ジャズ』1930年
→「ジャズを創出させた人々に敬意を表そうとした作品だが、とりあげられているのはヨーロッパの各種の少数民族であって、アフリカやアフリカ系アメリカ人についての言及はいっさいない。」(p.182)
・1900〜1930年頃のブラジル映画
→「ブラジルの黒人は映画のなかの構造的不在者であった。映画製作者たちは目の前にいる黒人たちより、すでに全滅させられ、神話的な存在となっていた「アメリカインディアンの戦士」のほうを優先的にとりあげた。奴隷制度が廃止されたのはブラジル映画が誕生するわずか一〇年前であり、奴隷制度の犠牲者であった黒人を扱うにはいろいろ問題があったからである。」(p.182)
・アルフレッド・ヒッチコック『間違えられた男』1956年
→「一九五〇年代のアメリカ映画には、この国には黒人などいないかのように感じさせる作品が多い。(中略)〔『間違えられた男』は〕ドキュメンタリー調で撮られているものの、黒人の姿はまったくといっていいほどみあたらない。ニューヨークの地下鉄だけでなく、拘置所においてすら、である。」(p.182)
一個人の不在
「不在が構造化されていくときには、人間そのものは相手にされなくて、その歴史や制度が取りあげられるのが通例である。アフリカ系アメリカ人の全史、もしくは各種の奴隷反乱を映画作品のなかで叙述したり表象化したりするような場合でも、(テレビのシリーズ番組『ルーツ』のように)すでに野垂れ死にしている一個人に焦点をあてて描かれることはめったにない。黒人教会についても同じで、その革命的な性格は無視される。かわりに選ばれるのが、カリスマ性のある指導者や恍惚状態にさせる歌や踊りのほうにばかり関心を寄せている映像である。」(p.182)
白人の不在
「逆説的だが、映画からの白人の排除という現象もまた、白人たちによる人種差別の結果であるといえる。今日の南アフリカ共和国には、黒人観衆のために白人が製作する映画があるが、一九二〇年代から三〇年代にかけて製作されたハリウッド映画作品のなかにも、これと似たものがあった。黒人だけしか出演しないミュージカルである。この種の作品が白人排除の方針をとっていたのは、白人が顔を出せば、いままで築いてきた空想的世界の精密な構造が破壊されてしまうからであった。」(p.182)
言語的不在
「植民地化された側の言語が消去されているような言語的不在もまた、そこでは植民地主義的判断が働いていることを示している。第三世界の人々が口にする言語は、後ろのほうでささやかれる、ごちゃ混ぜの理解不能な言葉にされてしまうことが少なくない。そして「原住民側」の主要登場人物たちは、植民者と話をかわすときにはつねに相手の言語圏のなかにはいって言葉を発しなければならない(ここでまたしても範例を提供してくれるのが、アメリカインディアンがピジン・イングリッシュを話す西部劇である)。」(p.182〜183)
・ウォルター・ラング『王様と私』1956年
→ イギリス人のアンナが、シャム王国の住民に英語で「文明世界の」礼儀作法を教える。
・リチャード・レスター『さらばキューバ』1980年
→キューバ革命を好意的に描くが、キューバ人にあくまで英語を話させることで一種の言語植民地主義を堅持。
・マーヴィン・ルロイ『ラテン系の恋人たち』1952年
→ 見当はずれな言語圏への帰属。ポルトガル語圏のブラジル人に(英語を話さないときは)スペイン語で話させる。
第三世界の映画作品
自らの歴史を語る
「このような数々の歪曲に対処するため、第三世界は自分たちの歴史を自ら書き綴ろうとしてきた。映画のなかの自分たちのイメージを管理しようとしてきた。口を開くときはみずからの言葉で語ろうとしてきた。植民地主義者が現地の住民について書き伝えたものがあるが、それは歴史から逸脱したものであった。たとえばかれらは、ベトナムやセネガルの子供たちに、おまえたちの「祖先」は古代ガリア人だと教えていたのである。第三世界の映画作品の多くに活気があるのは、正確にいうと、過去をとりもどしたいという思いが根幹にあるからだ。」(p.183)
・カルロス・ディエゲス『ガンガ・ズンバ』1963年
→ 17世紀のパルマレス共和国に焦点を当て、ブラジルにおける黒人反乱史を回想する。
・ウスマン・センベーヌ『エミタイ』1972年
→第二次世界大戦期の、フランスの植民地主義とセネガルの抵抗運動。
・ラクダル・ハミナ『熾火の日の記録(小さな火の歴史)』1975年
→ アルジェリア革命の見直し。
・ミゲル・リティン『約束の地』1973年
→ マルマドゥケ・グロベが設立した「社会主義共和国」を題材とする。
進歩的リアリズム(革新的リアリズム)
※進歩的リアリズム=「ロシアの言語学者ロマン・ヤーコブソンが用いた術語。「社会主義的視点から政治批判や社会批判をおこなうときに援用される表現方法のひとつ。労働者の側、あるいは第三世界の民衆の側に立ち、かれらを支援しようとする作品によく見受けられる。」(訳注、p.299)
「覇権主義のなかでつくられたイメージについて、内実を暴露し、そうしたイメージを撃破するため、服従を強いられてきた各地の人々の多くが援用してきたのは、「進歩的リアリズム」である。女性たちや第三世界の映画監督たちは、父権制や植民地主義の言述について対象化をおこないながら、そこに自分たちの見解、および「内側からみた」現実を対置させようとする。けれども、この志には感服するが、ここにも問題がまったくないわけではない。「現実」は自明のものとしてそこにあるのではないし、「真実」もカメラによって即座にとらえられるものではないからである。さらにいうと、目標としてのリアリズム——ブレヒトのいう「因果律ネットワークの暴露化」——と、文体としてのリアリズム、あるいは騙し絵的な「現実だと思わせるような効果」をめざす戦略としてのリアリズムは区別しなければならない。目標としてのリアリズムと、反省的かつ脱構築的な文体との共生は完全に可能である。」(p.183〜184)
・セルヒオ・ヒラル『もう一人のフランシスコ』1974年
→歴史的事実に照明を当てることで、原作の空想的な奴隷廃止論を脱構築すると共に、「フィルム・テクストが組み立てられていく過程そのものにも目を向け、これを白日のもとにさらそうとしている」。(p.184)
陽性のイメージ?
陽性のイメージ
「黒人が忍耐や漸進主義を身をもって示すとき、快感をおぼえていたのはきまって黒人よりも白人のほうであった。陽性のイメージが全体に満ちあふれ、人種差別者にならぬよう懸命に努力している姿勢が随所にあらわれている映画であっても、土壇場になって、いままで描いてきた人物たちをじつは信じていないということをうっかりさらけだしてしまうときがある。」(p.184)
「同じように、ただ新しいヒーローやヒロインを投入するだけで、あとは何もしようとしない天真爛漫な差別廃止主義についても、やはり懐疑の目を向ける必要がある。ここでのヒーローやヒロインは今度は被抑圧者階級から選ばれてはいるものの、役柄自体は以前と変わっていない。すなわち、かれらが演じているのは、昔ながらの、本来的に抑圧者側に属する人物なのである。かつて植民地主義者は、少数の同化した「原住民たち」に対し、「エリート」の仲間入りをするよう求めたが、こうした現象はこれとよく似ている。」(p.184)
・ヒューバート・コムフィールド『圧点』1962年
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・ABC『モッズ特捜隊』1968〜1973年
→ 法の執行者に黒人俳優をあてる。「黒人のヒーローを起用し、通常は白人で閉められている聖人の座に黒人をすわらせているが、それは、黒人観衆のなかの特定の層(大半は男性)が抱いている夢をかなえ、かれらを嬉しがらせるためである。」(p.184)
・スタンリー・クレイマー『招かれざる客』1967年
→「エリートの黒人が、たしかに人間たちの集まりには相違ないが、そこではそれはつねに白人を意味するクラブに招待される」。(p.185)
・ABC『ルーツ』1977年
→ 黒人奴隷の問題を扱ったテレビドラマだが、そこで活用されているのは「アフリカ系アメリカ人の歴史のなかに存在する陽性のイメージ」であり、黒人たちを「民主国家アメリカで道を切り開き、自由と富を獲得しようとする、単なる移民集団のひとつとしてしか扱っていない」。(p.185)
紋切り型を摘出することの方法論的問題
「陽性のイメージの探索と、陰性のイメージや紋切り型の摘出は相補的な関係にあるが、こういうことばかりに没頭するのもまた、同じように方法論的に問題がある。これら定型化されたものを措定し、承認することにも有益な点はおおいにあった。これによって、かつてはまったく一貫性のないもののように思われていた現象のなかから、構造的に分類できる偏見のさまざまな種類を検出できたからである。けれども、陽性のものにしろ、陰性のものにしろ、イメージのことしか考えないというふうになってくると、性格学的な関心が特権的位置を占める(いいかえれば、ほかの重要な思索は損傷を負わされる)ようにならないともかぎらない。また、このまま進むと、一種の本質主義にいきつく可能性もある。たとえば、さまざまなものが織り合わされている複雑な表現を、一連の、あるかぎられた鋳型に嵌め込み、より具体的なものに還元してしまう批評家がいる。かれらは芸能界で働く黒人の子供をみると、ファリーナからゲイリー・コールマンまで、誰であれ、その背後に「ピッカニー」の影をみてとる。性的魅力に富む黒人男優には「バック」の影を、魅惑的な黒人女優には「ホーア」の影をみてとる。単純化はもともと人種差別と闘うために採用された手段であったが、こうした還元主義的な単純化は、逆に人種差別を再生産しかねない危険なものである。」(p.185)
文化的な特異性の考慮
「ステロタイプを分析するときは、文化的な特異性も考慮に入れる必要がある。北米とブラジルは、黒人の人口が多い新世界の多民族社会という点では似ているが、黒人をあらわす定型的表現については、完全に一致する者は少ない。ふたつの文化のなかで生みだされた定型的イメージには類似しているところ——「マミー」はたしかに「マエ・プレタ(黒人の母親)」という語と密接な関係がある——もあるが、類似していないところも同じように存在する。」(p.185〜186)
「同じように、ブラジル人自身が作品のなかでそれが差別的なものを共示しているとはどうしても思えないような局面であっても、北米の種々の文化に根を張っている自民族中心主義的な考え方が、「人種差別的なものにする」、すなわち、これに人種差別的な主題を呑み込まさせてしまう場合がある。」(p.186)
・グラウベル・ローシャ『黒い神と白い悪魔』1964年
→ 原題(「Deus e o Diabo na Terra do Sol」=太陽の国の神と悪魔)には無かった、人種の二分化を暗示する英題が付される(邦題も同様)。
・ジョアキム・ペドロ・デ・アンドラーデ『マクナイマ』1969年
→ ブラジルの「人種民主主義」を揶揄するシークェンスを、ブラジルの文化的コードを知らないと北米人が人種差別的とみなしてしまう。
ジャンルの慣行や文体の考慮
「全体を包括する方法論は、「現実」と表象とのあいだに介在する仲介要素にも注意を払わなければならない。すべての面にわたって正確な表象化がなされているかどうか、あるいは原点としての「現実の」モデルや雛型に対して忠実なものになっているかどうかということよりも、重視すべきは、むしろ物語構造やジャンル上の慣行、映画としての文体のほうである。あるジャンルについての基準を別なジャンルに適用するといった誤ちはおかさないように留意しなければならない。」(p.186)
・『マクナイマ』はグロテスク・リアリズム(バフチン)と共同歩調をとる祝祭映画というジャンルに属しており、陽性のイメージを見つけようとするのは根本的に誤っている。
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・メル・ブルックス『ブレージングサドル』1974年
あらゆる種類の人種的偏見を諷刺する。「諷刺映画やパロディ映画もまた、建設的な陽性のイメージにはあまり興味を示さない」。(p188)
政治的位置づけ
包囲の表象
「映画特有の仲介作用のひとつに観客の位置決定がある。西部劇において白人とアメリカインディアンとが出会うこの典型的な映画的遭遇には、トム・エンゲルハルトも指摘しているように、通例、包囲の映像が不可欠である。インディアンとどう向き合うかは、外面的にあらかじめ決定されている。幌馬車隊や砦が襲われるとき、われわれの視線は幌馬車隊や砦に釘づけとなり、観客はいっせいにかれらに同情するようになる。そしてわれわれの注意を引き、同情を集めるその中心部から、やがてわれらの親友たちが反撃に打って出て、未知の襲撃者たちに立ち向かって行く。そして襲撃者たちの性格をあらわすために、不可解な風習が描かれ、かれらの敵意が筋違いのものであることが示される。「本質的に観察者の位置は強制的に決定される。連発銃の銃身の背後が観察者の占める位置である。そして彼(原文のママ)はまさにその位置から、すなわち銃器をかまえている位置からみた、西部における植民地主義の歴史、帝国主義の歴史を受け入れて行くのである」。観察者がアメリカインディアンのほうに同情し、かれらと一体化する可能性はない。そういうものは視点からくる慣習があっさり斥けてしまうからである。観客は知らないあいだに縫合手術をほどこされ、植民地主義的視点を埋め込まれてしまうのである。」(p.188)
・アンドリュー・マクラグレン『ワイルド・ギース』1978年
西部劇の慣習をアフリカに持ち込む。アフリカの雇われ白人兵がアフリカ人を虐殺。
観客の置かれる位置はやはり機関銃の背後。
『アルジェの戦い』の分析
映画の同一化作用
・ジッロ・ポンテコルヴォ『アルジェの戦い』1966年
〔『アルジェの戦い』が〕「まちがいなく革新的であるといえるのは、ひとつは、この包囲の表象について主脚を逆転させ、植民地側ではなく、植民地化された側のために、映画の同一化作用を利用しているからである。」(p.189)
「観客が一体化するのを伝統的に映画が封じてきた集団のために、旧来の一体化の構造を逆に利用しようとしている作品」(p.192)
包囲の表象の反転
「この作品はけっしてフランス人を諷刺しようとしているのではない。民衆を抑圧する植民地主義の論理を暴露しようとしているのである。そしてたえず、われわれとアルジェリア人とを連帯させ、その共犯関係の強化をはかろうとしている。たとえば、死刑を宣告されたアルジェリア人が刑場へと運ばれていく場面があるが、このときわれわれはアルジェリア人の視線をとおしてかれの姿をとらえる。われわれがフランスの軍隊やヘリコプターをとらえるときも、カスバの内側からである。カスバの内側に身をおいて、その姿に目をやったり、そのとき聞こえてくる音に耳を傾ける。包囲され、威嚇されるのは、そしてわれわれが一体化するのは、今度は植民者に支配されている人々のほうなのである。」(p.189)
三人のアルジェリア女性が爆弾を仕掛けるシークェンスの分析
「同一化の伝統的な形式を否定することにとりわけ成功しているのが、三人のアルジェリア女性がヨーロッパ人と同じ洋装姿になるシークェンスである。彼女たちはヨーロッパ人居住区に爆弾を仕掛けようとしている。変装はフランス兵のいる検問所をうまく通過するためである。」(p.189)
・批評家は、市民に対してもテロ活動をおこなったFLNの過ちを描いた監督の誠実な姿勢、もしくは客観性を評価した。しかしそうした「物語世界(テロリストたちの行動)の記号内容よりも、どのような呼びかけをおこなっているかや、観客をどのように位置づけているかのほうが重要」である(p.189)。
・クロースアップは、三人のアルジェリア女性の個性を浮かび上がらせ、画面外からの音声は、まるで彼女たちの耳を通して性差別主義者たち言葉を聞いているかのように感じさせる。「映画をみているうちにわれわれは、女性たちには任務を完遂してほしいと思うようになる。その願望は政治的共感から必然的に生じてきたものではなく、映画の同一化作用によって引き起こされたものである」。(p.189〜190)
視点操作
・「編集による視点操作」。三人の女性との「視線の一致は、この爆弾によって引き起こされるであろう惨状について彼女が思いをめぐらしていることを暗に物語っている。罪なき人々の命を奪い取るその残虐さについては、われわれも少しは考えるかもしれない。けれどもわれわれはいまや、彼女と同じ視座からものごとをみるようになっており、危険ではあるが崇高な仕事だとされてきた任務を実行する、その彼女の勇気のほうに感動してしまうのである。」(p.190)
物語的戦略
「シークェンスの物語的位相それ自体は、彼女たちのアクションをFLNの公約履行として提示している。(中略)ここではあらゆるものを総動員して、観客が、FLNの爆弾攻撃は少数の狂信者たちの決意のあらわれではなく、全民衆の怒りの表現なのだ、と感じるようにしようとしている。それは個人的な感情の爆発などではなく、組織集団による政治行動として描かれる。気の進まぬまま引き受けたものの、やるからには周到に計画を練りあげて言った仕事として描かれる。今まで反植民地主義を掲げるゲリラは生命軽視の狂信的テロリストとして描かれてきたが、結果としてこのシークェンスはこの既成イメージに挑戦するものとなっている。(中略)ここでは反植民地主義派のテロ活動を、植民地主義者の暴力に対する回答として提示している。ここでわれわれが扱っているのは、連辞的構成の政治的位相とでも呼べるものである。植民地で抑圧政策がとられるとき、第一世界のメディアは、「左翼の破壊活動」がああり、これに対抗するためにこうした措置が講ぜられたと封じるのが通例だが、『アルジェの戦い』ではこの因果関係が逆転してしまっている。」(p.190)
マスメディアの取材技術の強奪
「ポンテコルヴォは「強奪」したマス・メディアの取材技術——手持ちカメラや頻繁なズーミング、望遠レンズの技術——を用い、体制側に管理されているメディアにはまずあらわれてこないような政治的視点を提出しようとしている」(p.190)
演出(ミザンセン)による非性差別主義者・反植民地主義者の創造
「演出(mise-en-sc è ne)もまた、古典映画のトポスで、非性差別主義者や反植民地主義者を作りだす。たとえば、鏡の前で身支度する女性たち。彼女たちがヴェールを脱ぎ、髪を切り、ヨーロッパ人にみえるよう化粧をほどこしていくとき、その顔に照明があてられ、力強い威厳に満ちた表情が照らし出されていく。ここでの鏡は虚栄心を満たすための道具としてではなく、革命用具として存在している。」(p.191)
社会的位相に照明をあてる
「被写界深度が深いおかげで背景の映像まで読みとることができるが、これをみると、フランス人は自分たちの政治制度を押しつける際、軍事占領に等しい手段でことを推し進めていったことがわかる。なぜなら、アルジェリア人は平服なのに、フランス人は制服を着用しているからである。カスバはアルジェリア人の郷里であるが、フランス人にとっては国境の前哨基地にしかすぎない。有刺鉄線と検問所は、過去のさまざまな占領事件をわれわれに思い起こさせ、結果としてわれわれは、外国人相手の反占領闘争に共感を抱くようになる。」(p.191)
兵士たちの人種差別主義的な態度
「ヨーロッパ人には親しげに「こんにちは(ボンジュール)」と挨拶するのに対し、アルジェリア人に接するときはさげすみ、疑ってかかるような態度をとる。革命を志すアルジェリア人というのが、三人の女性たちの実態であるにもかかわらず、兵士たが彼女たちと仲よく戯れるのも、彼女たちをフランス人だと思い込んでいるからである。」(p.191)
兵士たちの性差別主義的な態度
「一般に女性についても、潜在的革命分子として疑ってかからねばならないのに、差別意識が働き、女性をそういうふうにみなすことができなくなっているのである。」(p.191)
欧米人が非欧米人に対してとる姿勢
・最初、アラブの伝統的な衣装を身にまとい、顔をベールで覆って現れるハッシバ(映画で異国趣味を表す記号)は、サフサリスを脱ぎ、ベールを取り、髪を切って、欧州人種に変身する。
「観客がヨーロッパ人と一体化することは、映画が従来から許容してきたことであり、すっかり慣習化していることである。だが、このときわれわれは、ヨーロッパ人のような恰好をし、ヨーロッパ人のようにふるまう場合のみ、敬意というものが保証される体制がいかに不条理なものか、ということにも気づかされるのである。フランスの植民地主義者が唱える「同化」という神話、そこでは選ばれたアルジェリア人は第一等級のフランス市民になれるとされているが、いまその内実があきらかにされる。作品のなかでも示唆されているが、アルジェリア人も同化しようと思えば同化できる。けれどもそれは、アルジェリア人をアルジェリア人として特徴づけているもの—かれらの宗教、かれらの衣装、かれらの言語—すべてを捨て去ったときにのみ、そうした代償を支払ったときにのみしか獲得できないものなのである。」(p.191〜192)
植民地主義を批判・転倒させる映画作品
視点・構造の転倒
「観客が一体化するのを伝統的に映画が封じてきた集団のために、旧来の一体化の構造を逆に利用しようとしている作品、それが『アルジェの戦い』であるとするなら、以下のようなほかのものは、もっと皮肉っぽく、植民地主義や植民地主義的視点に立つ従来の約束事を批判している作品だといえる。」(p.192)
・ジャン・ルーシュ『少しずつ』1969年
→ アフリカ人主人公に「文化人類学をやらせる」ことで、学究分野における植民地主義の所産とでもいうべきものを転倒=質問するのはアフリカ人の側となり、彼がパリジャンに、彼らの習俗について問いかけていく。
・ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス『わたしのかわいいフランスの彼氏は極上の味だった』1971年
→ 食人族に共感を抱かせることで、ヨーロッパ人の主人公に感情移入を促す伝統的な一体化を皮肉る。
被抑圧者の視点ショット(主観ショット)の問題
「被抑圧者側への視点ショットの付与は、常に非植民地主義者の視点からものごとがとらえられていることを保証するものではない。」(p.193)
・アルフレッド・ヒッチコック『マーニー』1964年
→ 主役女性に主観ショットが与えられているが、言述の実体は家父長的。女性を子ども扱い。
・D・W・グリフィス『國民の創生』1915年
→ 黒人のガスが白人のフローラを見つめる視線は「白人の性的な被害妄想が黒人男性に投影されていること」(p.193)を示す、屈折した人種差別。
・オズヴァルド・センソニ『ジョアン・ネグリーニョ』1954年
→ 年老いた元奴隷の視点=「「善良な」黒人は好意的な白人に運命を委ねるものだ」という家父長的干渉主義。
コードと対抗戦略
一体化の問題
「登場人物のおかれている立場について、語る主体対語られる内容という観点から、より包括的な分析をおこなうとすれば、映画の内外のコードに気を配り、それらがテクスト構造内部でどのように織り合わさっているか、よく観察しなければならないであろう。すなわち、こうした分析においては、プロットや登場人物についての問題だけでなく、映画作品の具体的な語り口——構図、画面の枠取り、ショット・サイズ、画面内外の音声、音楽——についても取り組まなければならないということである。たとえば画面のショット・サイズやショットの持続時間の問題は、登場人物にどれだけ関心を寄せているのかということや、潜在的にどれだけ観客を共感させ、理解させ、一体化させようとしているのかということと無関係ではなく、むしろこれらが複雑に絡んでくる問題なのである。どういう人物にクロース・アップがあたえられ、いかなる人物が後景へと追いやられるのか? 登場人物が視線を送ったり、身体を動かしたり、あるいはただ姿だけをあらわすのは、注視させ、自分に従わせるためなのか? 観客は誰であれば親近感をもつことが許されるのか? 画面外から解説や会話が流れてくるとき、それらは映像とどう関係してくるのか?」(p.193)
一体化の推進
・ウスマン・センベーヌ『黒人少女』1966年
→ メイドの少女のショットに、画面外から彼女を非難する声が重なることで、観客はその声を「彼女の耳をとおして聞くようなかたち」になり、強く親近感を覚えさせる。
一体化の拒否
・グラウベル・ローシャ『七つの頭のライオン』(Der Leone Have Sept Cabeças)1970年
→アフリカ植民地にやってきた五人の入植者の言語を混ぜて作った多重言語の原題。抑圧者も被抑圧者も含め、いかなる登場人物とも一体化することを許さない。
音楽(サウンド・トラック)の役割
「政治的視点の確立や観客の文化的位置づけにあたっては、音楽のサウンド・トラックが決定的な役割を果たす場合もある。映画音楽には情緒的な位相があり、これによって、われわれにどれくらい共感を抱かせるか、その度合いを調整できる。またこれには、われわれに涙を流させたり、恐怖心を抱かせたりする力もある。」(p.194)
・アンドリュー・マクラグレン『ワイルド・ギース』1978年
→「レイ・バッドの音楽は、傭兵たちに声援を送る応援歌である。出撃のさいには勇壮で雄々しい曲が、かれらが感情をあらわにするときには感傷的な曲が流される。」(p.194)
・アフリカの多重リズム
→「ハリウッド映画の古典映画で繰り返し用いられているうちに、野蛮人による包囲を意味する聴覚的記号表現となった。これは可聴音による提喩的な即時伝達法の一種であり、脅威にさらされて(p.194)いることをあらわすものである。こうした脅威は、「原住民たちは眠ることを知らない」という常套句で暗に示されることもある。」(p.195)
・グラウベル・ローシャ『七つの頭のライオン』1970年
→「アフリカの多重リズムをれっきとした音楽と認め、敬意をもって迎えている。」(p.195)
諷刺の歌
・グラウベル・ローシャ『七つの頭のライオン』1970年
→『ラ・マルセイエーズ』=「植民地主義者の操り人形と化した者たちへのあてつけ」(p.195)
・ジャン=ジャック・アノー『ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー』1976年
→ アフリカ住民が御主人様を運びながら、現地語で植民地支配者を皮肉る歌を歌う。
後退的な音楽の使用
・ジッロ・ポンテコルヴォ『ケマダの戦い』1970年
→ 新植民地主義を批判する教訓映画だが、舞台となる第三世界にヨーロッパ的な合唱音楽をねじ込んだために、そのメッセージの力を損ねている。「意識的に反植民地主義の姿勢をとっている映画作品でも、テクストがいわば波状的に展開していくため、あるコードのなかでは、たしかに政治について進歩的であるといえるが、別のコードのなかにおくと、その後退性がみえてくるものが多い。」(p.195)
・アントゥネス・フィーリョ『待機』1973年
→ ブラジル型の人種差別を告発するが、音楽にエリック・サティとブラッド・スウェット&ティアーズをないまぜにしたものが使われており、それは「作品が取ろうとしている黒人寄りの姿勢を足元から崩壊させるもの」である。(p.195)
間コード的な対立
・グラウベル・ローシャ『狂乱の大地』1967年
→ 政界の白人エリートを扱った映画で、黒人は出てこないが、「アフリカ系ブラジル音楽がかれらの存在をたえず想起させる」(p.195)。「ことによると、社会が「多声音楽的」な民族社会だからかもしれないが、一般的にいって、ブラジル映画には間コード的な対立物がことのほか多い。随所に存在している。そして音楽のサウンド・トラック上でも、コード対コードの真の戦いが開始されることがときおりある。」(p.195)
・アンセルモ・デゥアルテ『合言葉』1962年
→「アフリカ系ブラジル人の楽器ベリンバウとカトリック教会の鐘とのあいだで文化闘争」をおこなわせる。(p.195)
・ネルソン・ペレイラ『奇跡のテント』1976年
→ オペラとサンバを対位法に用いることで、バイアの白人エリート層とその従属下にあるメスティーソ(白人とインディオの混血児)との闘争を表現。
誤読
「観客自身の文化認識が、映画体験を必然的に屈折したものにしていくのは、いたしかたないことである。文化認識はテクストの外部で制度化されたもので、人種や階級、性差といった一連の社会的諸関係がここで交差している。それゆえ、念頭において置かなければならないのは、われわれが映画を読むとき、物語言述の意に反し、誤読している場合もあるということである。劇映画は、つねに特定の印象や情緒を生産していこうとする、説得力にたけた機械的装置であるが、これらとて全能ではない。観客が異なれば、異なった読み方をされるかもしれないからである。
半可な知識で撮られた映画への嘲笑
・ジョージ・メルフォード『魔人ドラキュラ・スペイン語版』1931年
→ ベラ・ルゴシ主演『魔人ドラキュラ』のスペイン語版。スペイン語を話すという同一性のみを根拠にキューバ人やアルゼンチン人、メキシコ人、イベリア半島のスペイン人を出演させたが、中南米諸国の観客には馬鹿げたものに映った。
植民地主義的言述に抗う読解
「観客のもっているある特定の知識や経験は、植民地主義的表象にあらがう逆の圧力を生み出す場合もある。」(p.196)
・ラリー・ピアス『わかれ道』1964年
→ 人種的偏見を受ける黒人が、ドライブ・イン・シアターで西部劇を見て、アメリカ先住民への支持と白人への憎しみを表明する。
正反対に方向に向かう誤読
「読み込みが正反対の方向に向かっておこなわれるという誤読もある。たとえば、人種差別反対を唱えている映画作品であっても、これが、自民族中心主義的へ偏見に縛られている、口うるさい批評家や解説好きな社会の前に放り出されると、人種差別的な視点から読み込まれていくことがある。」(p.196)
・ジャン=リュック・ゴダール『男性・女性』1966年
→ 白人女性が銃を撃ったことが明白な場面であるにも関わらず、批評家のアンドリュー・サリスは民族主義者のニグロの犯行だと説明している。「観察者の知覚そのものに情報を送っているのは、観察者自身の文化に対するさまざまな期待であり、観察者は、人種や性に関してみずからが期待するものを映画作品に投影しているのである」。(p.197)
「ゆえにわれわれは、観客が映画のなかに持ち込む文化的・イデオロギー的前提に気づかなければならない。また、制度化されている期待、すなわち、姿のみえない支援者として映画産業を助けている心的機構についても自覚的であらねばならない。われわれを映画作品の消費へと向かわせているのは、ある意味でこの心的機構だといえる。われわれのほとんどがプロダクション・ヴァリューズの高い映画作品を消費することに慣れていったのも、この装置の働きかけがあったからである。」(p.197)
第三世界の現実に根ざした映画
・①支配的位置を占めている、第一世界のプロダクション・ヴァリューズの映画に対する批判的姿勢、②そういった映画製作をおこなう経済的余裕のなさを背景として、「第三世界の映画監督や批評家たちが、第三世界の現実に根ざしているもののなかから範となるものを求め」た映画作品(p.197)。
・グラウベル・ローシャ「飢餓の美学」1965年
・フェルナンド・ソラナス、オクタビオ・ヘティノ「第三の映画に向けて」1969年
・フリオ・ガルシオエスピノーサ「不完全な映画(未完了の映画)のために」1969年
・第三世界の映画作品に、第一世界のプロダクション・ヴァリューズを乱そうとしたり、映画作家を探し求めようとするのは、「主流映画の価格を暗黙のうちに決定する退行的な分析モデルをあてがおうとする行為にほかならない」(p.197)。こうしたモデルは、第三世界の一部の監督を「パンテオン神殿」に招聘するくらいのことしか約束しない。
「映画作品にみられる植民地主義や人種差別についての研究が最終的にめざしているものは何か。個々の映画館とくや批評家の人種差別的側面を告発することに本来の目的があるのではない——人種差別が制度として組み込まれている社会においては、人種的偏見から逃れことのできる者などほとんどいない……。」それは、人種差別的映像や音声についてのコード解読や脱構築をおこなおうとするとき、いかなる方法をとればいいか学ぶためである。人種的偏見はセルロイドや人の心のなかに刻み込まれているが、こうした現象は永久に変わらないということではない。それはたえず変化しつつある弁証法的過程の一部にすぎない。このなかにあってわれわれがけっして忘れてならないのは、われわれには力がないどころか、何かをなす力は十分あるということである。」(p.197)
ロバート・スタム
ニューヨーク大学の映画学教授。中南米のとくにブラジル映画を専門とする。主な著書にLiterature through Film: Realism, Magic and the Art of Adaptation (Blackwell, 2005); Francois Truffaut and Friends: Modernism, Sexuality, and Film Adaptation (Rutgers, 2006)など。日本語訳としては、『転倒させる快楽――バフチン、文化批評、映画』(浅野敏夫訳、法政大学出版局、2002年)、『映画記号論入門』(共著、松柏社、2006年)がある。(支配と抵抗の映像文化 « 大学出版部協会)
支配と抵抗の映像文化: 西洋中心主義と他者を考える (サピエンティア)
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