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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

クリスチャン・メッツ「映画――言語か言語活動か」1964年

 

映画における意味作用に関する試論―映画記号学の基本問題 (叢書 記号学的実践)

映画における意味作用に関する試論―映画記号学の基本問題 (叢書 記号学的実践)

 

 

クリスチャン・メッツ「映画(シネマ)――言語か言語活動か」武田潔訳、原著1964年、『映画における意味作用に関する試論――映画記号学の基本問題』所収、浅沼圭司監訳、水声社、2005年

 

 


映画(シネマ)の一時代――「モンタージュ至上主義」

・1959年の『カイエ・デュ・シネマ』誌、ロベルト・ロッセリーニのインタビュー。「モンタージュは、今日ではもはや万能の操作のようなものとしては理解されていない。」

 

「至上の配列法としてのモンタージュ(p.66)

エイゼンシュテインやプドフキン、ヴェルトフやクレショフと行った「モンタージュ至上主義」を掲げる理論家たちによって、「モンタージュは、それが可能にするあらゆる組み合わせを活用しようとする熱心で創意で満ちた探求を通じて、また幾多の書物や雑誌に綴られる果てしない称揚の弁を通じて、映画それ自体とほとんど一体化するに至った」(p.66)

プドフキン:単独のショットは映画の一断片ではなく、原料(現実世界の写真)にすぎないと主張「モンタージュによって初めて、写真を越える映画、複写を越える芸術が成立する」。→モンタージュを作品の構成そのものと混同

エイゼンシュテインモンタージュへの狂信。文学史や絵画史などあらゆる所にモンタージュの先駆けの事例を見出し、それらが予言的に映画を先取りしていたと主張。あらかじめ切り分けられ、組み立てられた要素群をすべてモンタージュと見なしてしまう。

・「映画における描写的リアリズムのいかなる形式をも断固として拒否」。(p.68)
 「自然主義」「ひたすら客観的な表象」「情報伝達的」なだけの物語(レシ)を否定。

「それ自体が構成され、演じられた短い場面を、連続的に記録することもまた一つの選択となりうるなどということ彼は考えてもみなかった。そうではなく、クロース・アップに分離・分割して、次に全体をあらためて組み立てるのでなければならないというわけである。撮影された光景がそれ固有の美を持ちうるかなどという問いは、口にされてはならなかった。」(p.68)

・「配列される線分自体の造形」<「それらの連鎖的な配列」(p.68)


操作の精神

モンタージュ映画と、メカノ玩具(組み立て式の知育玩具)の類似
・メカノ玩具と、民族誌学や言語学サイバネティックス情報理論との類似
(そのパンフレットはまるで言語学者の「分布分析」のテクストのよう)
  →いずれも「操作的な姿勢が優位を占めている領域」(p.69)

 

操作の手順
(1)自然の対象を分析、構成要素の分離(映画における切り分け=デクパージュ)
(2)範列関係:それらの要素を同機能のカテゴリー毎に分類(映画におけるショット毎の撮影)
(3)連辞的契機:元の対象の模像を再構成(映画におけるモンタージュ
   →現実の事物の再現や再生産、創造ではなく、「擬装(シミュラシオン)」「技能(テクネー)」
   → 思惟可能な「形式化」の結果、あるいは「操作」の結果

 

ロッセリーニが「事物はそこにある。どうしてそれらを操作するのか」と言うのに対して、エイゼンシュテインは「事物はそこにある。だからそれらを操作しなければならない」と言うだろう。

エイゼンシュテインがわれわれに示すのは世界の推移などでは決してなく、常に、彼が述べるように、完全な思考にもとづいた、徹底して意味するものとしての、「イデオロギー的視点」を通して屈折させられた世界の推移なのである。意味だけでは十分ではない。そこに意味作用が加わらなければならないのである。」(p.71〜72)

 

意味=事物や生き物が持つ自然な意味。子どもの喜ぶ顔など、連続的・包括的で判然としたシニフィアンのない意味
意味作用=意図的に意味の再配分を行う。明瞭な組織化行為。無定形な意味実体に形を与える作用


「映画=言語」から映画=言語活動へ

・映画はそれほど「操作」に適しているわけではなかったにも関わらず、多くの理論家が他ではなく映画を選び、映画独自の企てを起こしたのはなぜか? そこには何かしら映画の「本性」が関わっているのではないか?

「明らかに、映画は一種の言語活動である。ところが、人はそこに言語(ラング)を見てとったのである。映画はデクパージュとモンタージュを許容し、さらには必要としさえする。そこでなされる組織化は紛れもなく連辞的なものであり、したがって、それが行われるためにはあらかじめ範列関係がなければならない――たとえ、まだそれとはほとんど意識されないものであっても――と人は信じたのである。映画(フィルム)がメッセージであることがあまりに明瞭であったために、そこにはかならずコードがあるはずだと考えられたのである。」(p.77)

 

映画=言語に対する批判
アンドレ・バザンやロジェ・レーナルト、ジャン・ルノワールやアレクサンドル・アストリュックといった「現代」の映画論者・作家たちは、「映画が真の言語活動であろうとするならば、まず言語活動の戯画(カリカチュア)であることを止めるべきだ」(p.79)と考えた。

 

アレクサンドル・アストリュック「カメラ=万年筆論」:「映画の「語彙」は事物の様相そのものによって、「世界の練り生地(パット)によって構成される」(p.80)→言葉の印象とは裏腹に、映画=言語という概念やモンタージュ至上主義とは対極的な発想。

マルセル・マルタン「映画のうちに厳密な記号の体系を探そうとしてはならない」(p.80)

モーリス・メルロ=ポンティ「映画(シネマ)と新しい心理学」 優れて現象学的な芸術として映画を検討。


言語なき言語活動――映画(フィルム)の叙述性

・映画は言語活動なのか? それとも映画は言葉による言語活動とは異なるものなのか?

・映画が叙述的・小説的な道を選び、長編フィクション映画が支配的になった原因は、観客の需要だけでなく、映画がそうした需要に見合う「著しい適性」を有していたからではないか。

・実際、映画は「映像の芸術」であるはずなのに、観客は大抵「その筋立てしか記憶にとどめず、せいぜいいくつかの映像を覚えているだけ」(p.84)という事実が、映画における「物語」の支配の強固さを示している。

・他方、写真は物語を語らない(写真が物語を語るのは、映画を真似る場合だけ)。
 →「二枚の写真が並べられると、奇妙な必然的帰結として、それらは否応なく何事かを物語ってしまう」(p.85)
 →「一つの映像から二つの映像に移行することは、映像から言語活動に移行することにほかならない」(p.85)

・クレショフ効果はモンタージュにお墨付きを与えるものではなく、複数の映像の連なりが、特定の意図を超えて「否応なく何事かを物語ってしまう」ことを証明するものだった。

「映画が一つの言語活動であるから、映画がかくも美しい物語(イストワール)を語れるのではなく、映画がかくも美しい物語を語ったからこそ、映画は一つの言語活動となったのである。」(p.86)

 

「言語から抜け落ちるものが言語活動を増大させる。二つの運動は表裏一体をなすものである。映画においてはあたかも、コードの意味的な豊かさとメッセージのそれとが、しかとはとらえがたいが厳然と働いている一種の反比例の関係によって、互いに連合――あるいはむしろ互いに離反――しているかのようである。コードが存在するとしても、それは粗雑なものである。コードを信奉して、かつ偉大な映画作家となった者たちは、意に反してそうなったのである。一方、メッセージは、それが洗練されてゆくときにはコードを歪める。コードはいつ何時変化したり消失したりするかわからないが、メッセージはいつでも、自らを意味づけるための別の手段を見出すのである。」(p.88)


映画=言語(シネラング)と真の言語(ラング)――トーキー映画の逆説

・映画を言語と見なす立場(映像=語、シークェンス=文)に立つかぎり、映画は、精緻な言語活動に対する粗雑で劣等な模像としてしか自己を定義することができない。

 

サイレント映画の時代
・1930年以前、「映画は無声でありながら饒舌であった」(p.96)
・建前上は映画に言語的構造は不在とされながらも、字幕や大げさな身振りを通じて(言葉による言語活動を介して語ったであろうことを)言葉なしで語ろうとする無意識の試みがあった。

 

トーキー映画の逆説
・1930年以降、「それは饒舌でありながら無声であった。つまり、溢れるばかりの言葉が、旧来の規則に忠実なままの映像の構成に付け加えられたのである。」(p.96)
・トーキー映画が出現しても、数年間は(マルセル・パニョルらを例外として)映画に大きな変化はなかった。トーキー映画の否定、あるいは言葉は排除するが現実の物音や音楽は容認する「サウンド映画」推進の動きが起こり、理論的にも、言葉は映画に本質的な変化をもたらさない、映画的言語の規則は従来どおりといった説明に明け暮れた。

「映画=言語は言葉を話すものではありえず、一度たりともそうなったためしはなかった。映画が言葉を話すようになったのは、一九三〇年ではなく一九四〇年頃からであり、その時期になってようやく、映画(フィルム)は自らを変革して、すでに戸口に立っているのに足止めされているような言葉を招き入れることにしたのである。」(p.96)

・自らを言語であると見なしていた映画にとって、本物の言語は「忌まわしい余剰か筋違いの敵対関係しかもたらさないもの」(p.96〜97)。映画が柔軟な言語活動であると見做されて、初めて「映画は言葉を話せるようになった」(p.97)。


トーキー映画をよりよく理解する上で重要な「現代映画」作家
アラン・レネ
クリス・マルケル
アニエス・ヴァルダ

「そこでは言葉の(ヴェルバル)要素が、さらにはあからさまに「文学的な」要素が、全体の構成においてたいそう重きをなしており、にもかかわらず、その構成はかつてないほど真に「映画的(フィルミック)な」ものとなっているのである。『去年マリエンバートで』にあっては、映像と文章(テクスト)が隠れんぼを演じ、そのすきにふと互いを愛撫し合う。両者は互角であり、文章が映像を生み、映像が文章となる。こうした文脈(コンテクスト)の戯れの総体が、この映画(フィルム)の組織構造(コンテクスチュール)を形作っているのである。」(p.97)


一つの状態、一つの段階――「映画=言語」についての判断の試み

・「映画=言語」という考え方をどう評価するか

 

批評家の場合
・映画=言語(シネラング)は、幾ばくかの偉大な作家と傑作を生み出したが、その理論は(一部の前衛映画を除き)特定の映画作品(フィルム)において具現化されることはなく、著作や宣言のかたちでしか実体化されなかった。
→「そのような前衛映画がもたらした成果を強調することは批評家に任せておこう。」(p.99)

 

歴史家の場合
・歴史家は、理論的にも実践的にも、「映画=言語」のような型破りな目論見を通してのみ、映画は自らを自覚するようになった(=技術的な発想のもとに発明されたシネマトグラフから、映画そのものが芸術として誕生した)と指摘するだろう。
→「当時の若々しい独創性の激烈さが有していたあらゆる肯定的要因――それは豊富にある――を研究することは歴史家に任せておこう。」(p.99)

 

理論家(としてのメッツ)の場合
・映画=言語はその時代の最良の映画の大部分を生み出したが、同時に十倍の駄作も世に出た。
・「しかし、映画=言語でも駄作でもない、別の映画も存在した」(p.99)。
モンタージュ至上主義、操作の精神というイデオロギーが幅をきかせる中、特定の理論を持たず、流派にも属さないシュトロハイムムルナウといった監督たちが、己の才能や個性によって「現代映画」を予見させる映画をつくっていた。
→「飛躍的な発展とは少数者によってのみもたらされるもの」(p.100)


入れ子=概念――映画(シネマ)的特有性

・「独自の伝達手段」(コミュニケーション)ではなく、「芸術的な言語活動」としての映画

「このように映画は、ロッセリーニが述べたように、独自の伝達手段というよりも芸術的な言語活動をなすものである。既存の複数の表現形態(映像、言葉、音楽、さらには物音)の結合から生まれた映画は、個々の表現形態に特有な原理がそこで完全に失われるわけではないために、語のすべての意味において、始めから構成して作り出すことを余儀なくされている。映画が何ものかであるとすれば、それはそもそもの最初から一つの芸術なのである。そして、先行するさまざまな表現法を包括するということが、その強みでもあり弱みでもある。そこには、完全な言語活動をなしている表現法も含まれれば(言葉の要素)、多少なりとも比喩的な意味でしか言語活動をなしていない表現法も含まれるのである(音楽、映像、物音)。」(p.100)

 

・「映画(シネマ)的特有性」の真の定義は、以下の二つのレベルにまたがっている。

 

(1)映画(フィルム)的言説
・映画の全体
・映像、音楽、物音、言葉、など、先行する様々な表現法を包含・構成した、芸術的な言語活動。完全な言語活動(言葉)と、多少なりとも比喩的な言語活動(映像、音楽など)が共に含まれる。
・映画(フィルム)は芸術に包含されながらも、再び固有の言語活動となる。
 → 言語活動になろうとする芸術

 

(2)映像による言説(ディスクール・イマジェ)
・全体の内部にある固有な核
・映像の連続がまず一つの言語活動をなしている。
 → 芸術になろうとする言語活動

 

「映画(シネマ)の「特有性」とは、言語活動になろうとする芸術のただ中に、芸術になろうとする言語活動が存在するということなのである。」(p.101)

 

「映像による言説も映画(フィルム)的言説も、ともに言語ではない。言語活動であろうと芸術であろうと、映像による言説は開いた、コード化の困難な体系をなしており、その基本単位(=映像)は離散的ではなく、その理解可能性はあまりに自然であり、そのシニフィアンシニフィエのあいだには距離が欠如している。また、芸術であろうと言語活動であろうと、構成された映画(フィルム)はさらに開いた体系をなしており、そこでは意味のすべての面がわれわれに直接提供されるのである。」(p.101〜102)

 

・映画(フィルム)の諸要素が互いに並存可能なのは、そのなかに「言語」をなしている要素が一つもないから。

 

言語:同時に複数の言語を話すことはできない(英語で話している時、それはドイツ語ではない)
言語活動:その種の重複があり得る(英語で話すと同時に、身振りを交える等)。→ 芸術もまたそうした重複が可能である(オペラやバレエや詩の朗誦)。

 

「〔われわれの知っている映画は〕幾多の幸運に恵まれた「方式」である。そのような映画にあっては、種々の芸術と言語活動とが永続的な絆で結ばれており、それらのあいだの合意によって、各々の果たす役割が互いに交換可能となってゆく。それは愛の共有であるとともに財産の共有なのである。」(p.102) 

 

映画(シネマ)と言語学

「「記号学(仏:sémiologie)」という名称はスイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールに、「記号論(英:semiotics)」という名称はアメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースに由来する。(中略)ソシュール記号学に関する体系的な著作を残していないが、学生の講義ノートに基づく『一般言語学講義』によれば、記号は「シニフィアン(意味するもの、記号表現)」と「シニフィエ(意味されるもの、記号内容)」という二つの構成要素から成り立つとされる。この両者の恣意的な結びつきからなる諸記号が言語における差異の体系として存在する、というのがソシュール記号学の根底にある考え方である。」(星野太「Artwords:記号学/記号論」)

 

映画言語学の試み
・映画は言語ではない。しかし、だからと言って映画研究が言語学的な次元を含みえないということではない。

「「映画言語学的」な企ては十分に正当化されるものであり、かつまた、それは十分に「言語学的」であらねばらない、すなわち、言語学そのものに堅個に依拠したものでなければならないと確信している。」(p.103)

 

言語学記号学の一部門にすぎないが、事実としては、記号学言語学をもとに構築されている。(中略)記号学は大方においてこれから作り出されるべきものであるが、言語学の方はすでに著しい進歩を遂げている」(p.104)

 

ソシュール言語学記号学の一部門と位置づけたが、その記号学言語学をもとに構築された。レヴィ=ストロースソシュールの後継者たちも、「超言語学のようなものとして」(p.104)記号学を打ちたてようとしている。同様に、映画記号学の試みもまた、言語学との比較検討から進めていくべきではないか。

 

(1)映像による言説と「言語」との相違を比較検討することで、「映画がなんでないか」を理解すること。言語学の成果が利用でき、研究者もそちらから始めようとする。
(2)「映画が何であるか」を把握すること。本来のあり方として記号学的・超言語学的。既存の成果に頼れる度合いが小さい。


映像による言説と言語の比較検討――映画(シネマ)的「統辞法」の問題

第一次分節

文を分解することで抽出された「語」「形態素」(これ以上分解すると意味をなさなくなる最小の言語の単位)

森/の/小道/を/歩く/男

第二次分節

形態素」をさらに分解して抽出された「音素」(意味を持たない最小の言語の単位)

m o r i n o k o m i c h i w o a r u k u o t o k o


第二次文節

「映画(シネマ)には、たとえ比喩としてであれ、第二次文節に相当するものは何もない。」(p.105)

   → 映画には言語における「音素」に当たるものがない。

 

・通常の言語(日本語や英語)では、シニフィエ(記号内容)とシニフィアン(記号表現)のあいだに大きな隔たりがある(例えば「木」そのものを「木」や「tree」と表すのは恣意的であり、本来、必然性がない。)

・他方、映画の場合は、写真の忠実性とそれによる心理的な「現実感」により、映像(シニフィエ)と映像が表すもの(シニフィアン)の「隔たりを完全なまでに縮めてしまう」(p.105)。

・特定の映像(シニフィエ)を分解すると、映像が表すもの(シニフィアン)も「同型の切片に切り分けられる」(p.106)ため、第二次分節(言語における音素に当たるものを抽出すること)は不可能である(例えば三匹の犬の映像から三匹目を切り取れば、「三匹目の犬」というシニフィアンも同時に切り取られる)。

 

「映画の万国共通性とは二つの面を併せ持つ現象である。肯定的な面に着目すれば、映画が万国共通なのは、視知覚というものが世界中を通じて、特有言語ほどには多様な違いを呈さないからである。否定的な面に着目すれば、映画が万国共通なのは、それが第二次文節を免れているからである。これら二つの事実確認が互いに連動していることは強調しておかなければならない。すなわち、視覚的光景はシニフィアンシニフィエへの密着を引き起こし、そのこと自体がまた、両者の分離を、よって第二次文節の存在を、いかなるときであれ不可能にするのである。」(p.107)

 

・厳密な意味で「言語」について語ることができるのは、二重文節がある場合だけであるのに対して、「言語活動」という語には、厳密なものもそうでないものも含め、多くの意味がある。そうした多義性の増大は、以下二つの方向において進展する。

 

(1)何らかの体系の形式的構造が言語の形式的構造と似ている場合(チェス、機械の二進法言語)
(2)人間から人間へと伝えられることのすべて(花言葉、絵画、沈黙の言語活動)

 

「これら二つの隠喩的な拡大のヴェクトルは、ありうるかぎりのもっとも本来的な意味における「言語活動」(人間の音声言語)に端を発している。言葉による言語活動は人間同士の意思疎通に役立ち、それは強固に組織化されている。なおかつ、二つの比喩的な意味のグループはすでにそこにある。かならずしも厳密な意味のみに限定することのできない、そうした言葉の用法の実状を考えてみると、映画を言語なき言語活動と見なすのが妥当であるように私には思われるのである。」(p.108) 

 


第一次文節

「かつてどんな説が唱えられたにせよ、映画(シネマ)には音素がないだけでなく、「語」もまたない。映画は第一次文節には――稀にしか、またいわば偶然にしか――従わないのである。」(p.109)

 

「ここで明らかにすべきは、映画(シネマ)の「統辞論」が陥ってしまうほとんど克服不可能な障害が、大方のところ、出発点でのある混乱に由来しているということであろう。そこではまず、映像が語のようなものとして、シークェンスが文のようなものとして定義される。ところが、映像(少なくとも映画のそれ)は一つ、または複数の文に相当し、シークェンスは言説としての複合的線分をなしているのである。」(p.109)

 

        |誤った考え方|メッツの主張
映像(ショット)|  語   |一つ、または複数の文
シークェンス  |  文   |言説

 

「映像が通りを歩く一人の男性を示しているとしよう。それは「一人の男性が通りを歩いている」という文と等価である。確かに、この等価性は大雑把なものであり、大いに議論の余地があろう。それでも、この同じ映画(フィルム)的映像が、「男性」、「歩く」、「通り」といった個々の語に対応するということの方がもっと疑わしく、ましてや、冠詞や、「歩く」という動詞のゼロ形態素に対応するなどということはおよそ認め難いのである。」(p.110)

 

「映像が「文」であるのは、その意味の量(あまりに扱いにくい概念であり、特に映画においてはそうである)によるよりも、その断定的な性格によるのである。映像は常に現動化されている。したがって、内容からして語に相当するような――もともとかなり稀であるが――映像でも、それらはやはり文なのである。」(p.110)

 

(例)ピストルのクロース・アップのショットは、「ピストル」を意味しているのではない。「ここにピストルがある!」ということを意味している。


映画(シネマ)と統辞論(サンタクス)

・映画は常に言葉(パロール)であって、言語(ラング)の単位ではない。

 

「映画(シネマ)の統辞論というものは存在するが、それはこれから作り上げて行かなければならず、その企ては形態論ではなく、統辞論を基盤とすることによってしか成し遂げられない。ソシュールは、統辞法は言語活動の連辞的次元の一側面にすぎないが、あらゆる統辞法は連辞的であると指摘した。これは映画を論じる者にとっては熟慮に値する考えである。「ショット」は映画(フィルム)における連鎖の最少単位であるが(それはおそらくL・イェルムスレウが言う意味での「組成素」であろう)、シークェンスは大きな連辞的集合体である。そこで次の課題となるのは、映画(フィルム)が許容する連辞的配列の豊富さや、さらには過剰さを研究し(こうしてモンタージュの問題が別の角度から再び論じられることになる)、それを映画(シネマ)のもつ範列的表現力の驚くべき貧弱さと対比してみることであろう。」(p.111〜112)

 

統辞論と形態論
統辞論 syntax(構文論)=単語を組み合わせて文が構成される仕組み・規則を扱う。
形態論 morphology(語形論)=単語の内部構造(形態素の合成や語形の変化など)を扱う。

 

範列と連辞
範列(パラディグム paradigm)記号表現において、ある記号と共通する特徴を持ち代替可能な記号間の関係
連辞(サンタグム syntagm) 記号表現において、記号と記号を結びつける際に働いている関係・規則

            | 範列軸  |
統辞軸 | 私 | は | ラーメン | を | 食べる
            | 焼きそば |
            | デザート |


映画(フィルム)の範列論

映画(シネマ)のもつ範列的表現力の驚くべき貧弱さ

「映画においては、映像の範列は不確かで大まかなものであり、それ自体が成立しないこともしばしばで、また容易に修正することも、さらには常に避けて通ることもできる。映画(フィルム)の映像が、連鎖の同じ位置に現れえたであろう他の映像との関係で意味をなす度合いは、わずかなものでしかない。そうした他の映像を数え上げることはできないのであり、というのも、その目録は無限ではないにせよ、少なくとももっとも「開いた」言語上の目録よりも開いているからである。」(p.112)

 

・映画(フィルム)においては、すべてが現前しており、断定として語られる。現前における関係(連辞関係)が豊かである一方で、不在の単位によって現前している単位を明示するような関係(範列関係)は不要かつ困難なものとなる。

・映画(シネマ)的映像は、コードなきメッセージであり、言語なき言語活動である。映像には、音素や形態素、単語に当たるものがなく、「言葉(パロール)の単位である文が一切を支配している」(p.113)。映画は常に新たに造語することによってしか語ることができない。その意味で、あらゆる映像はハパックス(特定の文脈の上で、一度だけ出現する単語のこと)である。「「映画言語学的」な構造主義とは統辞論的なものでしかありえない」(p.113)。


映画における範列関係

「映画(フィルム)の範列関係というものは存在する。しかし、そこで換入可能な単位をなしているのは大きな意味形成単位である。」(p.113)

 

換入 commutation=「言語学記号学の用語で、記号の連鎖の特定の水準(音素や形態素など)において、表現面のある要素を他の要素に置き換えた場合、内容面に差異を生じるか否か(また逆に、内容面のある要素を他の要素に置き換えた場合、表現面に差異を生じるか否か)を確かめる操作を指す。」(訳注、p.168)
(例)「本」「門」という語を区別する二つの音素「h」「m」は、換入可能な範列を構成している。

 

・ジャン=ルイ・リユペルーによる、西部劇の歴史に関する研究

「かつて「良い」カウボーイが白い衣装で、「悪い」カウボーイが黒い衣装で示されていた時代があった」(p.113)

 

・これを、映画における初歩的な換入と見ることができるが、
(1)シニフィアン(白/黒)とシニフィエ(良い/悪い)の両面にまたがるものである。
(2)広汎な大衆によってなされる換入である。
(3)換入が成立されるのに先立って、すでに二つの色(白/黒)も性質(良い/悪い)も画面に現前している。

 という三つの点において、音韻に関わる換入と本質的に異なっている。

 

「こうした範列の貧弱さは、別の面で与えられている豊かさの代償である。話し手とは違って、映画作家は世界の多様性をわれわれに直接提示しながら表現することができる。そのために、範列はすぐさま溢れ出してしまうのである。これもまた、映画をめぐるいくつかの点において、コードとメッセージが繰り広げる戦いの一側面にほかならない。」(p.114)

 

カウボーイの例よりも言語における範列に近く、本来の意味で「映画的言語活動」を構成する、映画の範列の例
(1)多くのカメラの動き(前進移動/後退移動)
(2)句読法の技法(フェイド/ストレート・カット、すなわちディゾルヴ/ゼロ度)

 

「ここでは、ある関係と、それとは別のある関係とが対立している。換入可能な要素に加えて、観念上は不変であるような一種の支持体が常に存在しているのである。前進移動と後退移動は視線の二つの志向性に対応するが、その視線は常にある対象を、つまりカメラが近づいたり遠ざかったりする対象をとらえている。したがって、ここでは共範疇語に関する理論がわれわれの参考になるであろう。それに従えば、しかしという語が、決して反意の観念そのものを表すのではなく、常に、実現された二つの単位間の反意関係を表すのと同じように、前進移動は注意の集中を、決して注意それ自体に関わるものとしてではなく、常に対象に関わるものとして表すのである。
 こうした支持体と関係の二重性が、知覚された複数の事実の視覚的同時性を許容する言語活動のうちに認められるということから、右に挙げたいくつかの技法が示し得る超線分的な性格が理解される。現に、支持体と関係はたいてい同時に知覚される。さらに、映画における「関係」は、カメラ(と観客)が支持体=対象に注ぐ視線としばしば一体化するのであり、いわば、顔への前進移動は、この顔を見るための一つの方法にほかならない。」(p.115)

 

「映画(フィルム)は同一の線分のうちに、知覚されるものの作用域と知覚するものの作用域をともに包含している」(p.116)

 

共範疇語=「単独では限定的な意味を有さず、それを有する「範疇語」とともに用いられて、初めて意味が確定する語のこと」(訳注、p.169)

 

映画的理解

「映画(フィルム)は多かれ少なかれ理解される。まったく理解されないというようなことがたまにあるとすれば、それは特殊な事情のためであって、映画(シネマ)特有の記号学的メカニズムが原因なのではない。」(p.116)

 

「映画(フィルム)は常に理解されるが、しかし、それは常に多かれ少なかれ理解されるのであり、しかもその多少を数量化することは困難である。ここでは離散的に区切られる度合いや、容易に数え上げられる意味作用の単位が大方欠如しているからである。」(p.117)

 

「映画においては、映像のうちに並存する(コ=プレザン)意味作用の単位――というよりも要素――は、あまりに多数で、また特にあまりにも連続的である。どんなに知性的な観客でも、それらをすべて理解することはできないであろう。ところが、その代わりに、それらの要素のうちで主要なものを大まかに把握してさえいれば、全般的で概括的な(それでも的確な)全体の意味は「つかむ」ことができる。どんなに鋭敏さを欠いた観客でも、おおよそのことは理解できるのである。」(p.117)

 

記号学的なメカニズムのせいではなく、そこで言われている事柄の性質そのものが原因でメッセージが理解不能となるすべての場合は――これは映画(シネマ)においても、また言葉による言語活動や、文学や、さらには日常生活においてもきわめて頻繁に生じることであるが――明確に別のとらえ方をしなければならない。多くの映画(フィルム)が(全体的ないしは部分的に、また特定の観衆にとって)理解不能となるのは、得てして、そのディエジェーズが内包する現実や概念があまりに微妙であったり、あまりに異国的出会ったり、あるいはよく知っていると誤って想定されているからである。そうした場合には、理解不可能なのは映画(フィルム)ではなく、逆に(フィルム)のなかで説明されてないすべての事柄なのだということは、これまで十分に強調されてこなかった。」(p.118)


映画(シネマ)と文学――映画(フィルム)的表現性の問題

「映画(フィルム)そのものは、いずれにせよ、それが提示するものしか提示しない。たとえば、リアリストであろうがなかろうが、一人の映画作家が何かを撮影したとする。そこで何が生み出されるのであろうか。撮影された光景には、自然なものであれ構成されたものであれ、すでに独自の表現性が備わっていた。なぜなら、要するにそれは世界の一断片だったからであり、世界の断片には常に意味が備わっているからである。小説家が出発点とする語にも、常にあらかじめ意味が備わっている。それは言語の断片であり、言語は常に意味するからである。音楽や建築の場合には、純粋に感覚的で何ものも指示しない材料(前者では音、後者では石)でもって、本来的に美的な表現性――様式――を最初から展開することができるという、ほかにはない幸運が与えられている。しかし、文学や映画の場合には、常に外示が芸術的な企てに先行するため、もとより共示を介することを余儀なくされるのである。」(p.120)

 

共示コノテーション)=「言語学用語。「共示」と訳される。特定共時文化内において認められ,辞書に登録されている語の最大公約数的な意味をデノテーション denotation「外示」というのに対し,語が喚起する個人的・情感的・状況的な意味をさす。たとえば,ナチス全盛時代にいわれた「ユダヤ人はユダヤ人だ」という表現において,最初の「ユダヤ人」は「ユダヤ民族に属する人」というデノテーションであり,2つ目の「ユダヤ人」は当時の反ユダヤ主義が生み出した「けちで不正直な人間」というコノテーションである。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

「映画においては、自然な表現性、つまり映画(フィルム)が提示する風景や顔のそれに、美的な表現性が接合される。言葉の芸術においては、美的な表現性は真の基礎的表現性をなすようなものにではなく、およそ表現性に乏しい観衆的な意味作用、つまり言語のそれに接合される。したがって、映画は美的な次元に滑らかに――表現性に表現性を接合することで――移行するのであり、容易な芸術である映画は、いつでもそうした安易さの犠牲となる危険性を孕んでいるのである。生き物や事物や世界の自然な表現性を利用できるのであれば、感銘を与えるのはなんとたやすいことであろう! あまりに容易な芸術であるからこそ、映画は困難な芸術なのであり、その容易さの斜面を映画は絶えずよじ登りつづけてきたのである。少しの芸術性も備えていないような映画(フィルム)はごくわずかであるが、豊かな芸術性を湛えた映画(フィルム)もまたごくわずかである。それにひきかえ、文学――特に詩――はいかに成立の確実さに欠ける芸術であろうか! マラルメが排撃した「部族の言葉」に美的な表現性(つまりある程度までは自然な表現性)を付与するというあの無謀な接合は、いかにして達成できるのであろうか。」(p.121)

 

「それでも、語に表現性を与えるという、この基礎的錬金術に詩人が成功した場合には、主要な仕事はすでになされており、困難な芸術である文学は、少なくともそうした容易さを宿しているのである。その企てはきわめて険しいものであるがゆえに、斜面を滑り落ちる恐れも少ない。いかなる芸術性も欠いているような本は数多いが、豊かな芸術性を備えた本もまたいくらかは存在するのである。」(p.122)

 

「表現」と「意味作用」の区別

「映画を研究する者にとっては、表現という語は(意味作用との対比において)はなはだ貴重なものであって、それを「シニフィアン」の意味に充てることはできない。(中略)私の観点に従うならば、「表現」はシニフィアンを指すのではなく、シニフィアンシニフィエの関係が「内在的」な場合の、両者のあいだの関係を指す。さらには、表現的な記号系の場合には、表現するものと表現されるものという用語を(p.124)使用し、「シニフィアン」と「シニフィエ」という用語は、非表現的な関係(本来の意味での意味作用)に限定して用いるということも考えられるであろう。」(p.125)

 

・表現という概念(ミケル・デュフレンヌ)
 ・表現  |内在的意味素|自然 |包括的・連続的|生き物や事物に由来
 ・意味作用|外在的意味素|慣習的|離散的単位  |観念に由来

 

「世界の表現性(風景や顔)と、芸術の表現性(ワーグナー流のオーボエの憂愁)は、根本的には同じ記号学的メカニズムにしたがっており、そこでは「意味」がシニフィアンの総体から、コードの助けを借りることなく自然に引き出される。違いが存するのはこのシニフィアンのレヴェルにおいてであり、かつそこにおいてのみである――すなわち、前者の場合はそれは自然のなせるわざであり(世界の表現性)、後者の場合はそれは人間のなせるわざなのである(芸術の表現性)。」(p.123)

 

文学異質な共示を包含する芸術(非表現的な外示に表現的な共示が接合される。)
映画等質な共示を包含する芸術(表現的な外示に表現的な共示が接合される。)


映画、言語、文学(言語の芸術)の三つ巴の関係

・言葉の側では、通常の「言語」と「文学」は容易に区別することができるが、映画(フィルム)の側では、「映画(シネマ)という言い方がなされるのみで、「実用的」な映画と「美的(芸術的)」な映画を区別することが困難なのはなぜか?

「実を言えば、映画(シネマ)を完全に「美的な」用途に用いるなどということはありえない。なぜなら、いかに共示することに徹した映像であろうとも、写真的な支持作用を免れることはできないからである。(中略)他方、映画(シネマ)を完全に「実用的」な用途に用いることもまたありえない。いかに外示することに徹した映像であろうとも、やはり少しは共示するのである。ひたすら平板な説明に終始する教育的ドキュメンタリーであっても、映像の構図を決めたり、映像の連なりを組織したりする際には、なんらかの芸術的配慮らしきものを交えずにはおかないのである。「言語活動(ランガージュ)」がまったき形で存在しない場合に、たとえ拙くともその言葉を話すためには、自分自身が幾分か芸術家とならねばならない。その言葉を話すということは、ある面でそれを創り出すということでもある。これに対し、日常の言語(ラング)を話すということは、単にそれを使用するということにすぎない。
 こうしたことはすべて、映画における共示がその外示と等質であり、両者がともに表現的であることに由来している。映画においては、芸術から非芸術への、また非芸術から芸術への、移行が絶えず行われる。映画(フィルム)の美しさは、撮影された情景(スペクタクル)の美しさと幾分か同じ法則にしたがっており、場合によっては、両者のどちらが美しく、どちらが醜いのか判らなくなってしまうぐらいである。フェリーニの映画がアメリカ海軍の映画(新兵にロープの結び方を教えるための)と異なるのは、才能と目的によってであって、その記号学的メカニズムの根底にあるものによってではない。純粋に伝達的な映画(フィルム)もまた、他の映画と同じように作られているのであり、それに対してユゴーの詩は、職場の同僚との会話と同じように作られているわけではない。そもそも、詩は書かれ、会話は口頭でなされるのに対し、映画(フィルム)は常に撮影される。しかし、それは根本的な違いではない。言葉(ヴェルヴ)の伝達的な用法と、その日的な用法のあいだの溝は、異質な共示が介在する(それ自体は非表現的な語(モ)に表現的価値が付与される)ことによって生じるのである。」(p.126〜127)

 

「言葉による言語活動は日々刻々、あらゆる状況で用いられる。文学が存在するためには、まず一人の人物が書物を書くという、特殊で骨の折れる、日常性にとりまぎれてしまうことのない行為が前提となる。映画(フィルム)は、「実用的」であろうと「芸術的」であろうと、常に書物のようなものであって、会話のようなものでは決してない。それは常に創り出されなければならないのである。さらに、書物と同じく、そして話される文とは違って、映画(フィルム)はその場にいる相手が即座に同じ言語(ランガージュ)で答えるというような、直接的な返答を想定していない。この点でも、映画(フィルム)は意味作用であるよりもむしろ表現なのである。コミュニケーション(双方向的な関係)と「恣意的な」意味作用のあいだには、いささか曖昧ではあるがおそらく本質的な連帯関係がある。逆に、単方法的なメッセージはしばしば(恣意的でない)表現に帰属し、こちらはより把握しやすい結びつきをなしている。表現によって、事物や生き物は他(p.127)との違いを何よりも際立たせるのであり、そうしたメッセージは返答を想定していない。いかに仲睦まじい愛であっても、それは「対話」ではなく、問答体詩をなすものなのである。ジャックとニコルに語るのは、ジャックがニコルに抱く愛であり、ニコルがジャックに語るのは、ニコルがジャックに抱く愛である。よって、二人は同じ事柄について話しているのではなく、彼らが愛を「分かち合って」いるというのは実に当を得た言い方である。二人は互いに答え合っているのではない。自らを表現している者に真に答えることなどできないのである。
 彼らの愛は二つの愛に分かたれており、それが二つの表現をもたらす。あとからの影響や調整の作用によって規定される対話(もしくは愛を維持する相互理解)ではなしに、ある種の偶然があったからこそ――ゆえにそれが実現することは稀なのであるが――、彼らは二つの異なる感情を表明しながら、自らも知らぬ間に、対話ではなく遭遇にほかならない、かついかなる会話も消滅するような融合のみをめざす、言葉のやり取りを設定したのである。(ニコルなしの)ジャックや(ジャックなしの)ニコルのように、映画(フィルム)と書物は自らを表現するのであり、それに対して人は真に返答することはない。逆に、通常の言語活動によって、私が「何時ですか」と尋ね、相手が「八時です」と答えたとすれば、私は自らを表現したのではなく、意味し、伝達したのであり、相手は私に答えたのである。」(p.128)


映画(シネマ)と超言語学――大きな意味形成単位

「映画に現れるのは「文」や断定や現働化された単位のみである。それらについて、どうして言語との関連を探ってみずにいられようか。」(p.129) 

 

ソシュールを継承する研究の顕著な動向(p.129)→ 文の問題を扱う流れ
ジョゼフ・ヴァンドリエス「手の動作が語よりもむしろ文に相当する」
エリック・ビュイサンス、交通法規の標識や、記号に分解できないすべての「意味素」に関して同様の指摘
レヴィ・ストロース、神話の最少単位である「神話素」を「断定」として定義。「大きな神話素」は再帰的主題を持つ文の集合体。
プロップ、ロシア民話の分析
ロラン・バルト「大きな意味形成単位」
ムーナン、非言語的なコミュニケーション体系の重要性。記号学への着手の必要性。
ヤコブソン、文よりも上位の集合体に関心を寄せることで、詩についての言語学的な研究が可能?

 

「もちろん、多少なりとも言葉(パロール)の言語学に類するようなものはすべて、ジュネーヴの師の理念からは外れるものであろう。その点での困難が指摘されるのも無理はない。しかし、その困難は克服不可能なものではなく、言葉(パロール)の研究に手を出すことになりかねないという口実であらゆる研究を抑えつけてしまうのは、この偉大な言語学者に対する奇妙な敬意の表し方というものだろう。手を出す、と私は述べた。というのも、非言語的な表現手段の研究においては、扱う材料の本性そのものから、言語(ラング)についての言語学でも、真に言葉(パロール)についての言語学でもないような、むしろエミール・バンヴェニストが言う意味での(あるいはE・ビュイサンスのような研究者が、より多様な「言語活動」を把握するために、まさしくソシュールの有名な二分法を拡張しようと努めた一節でこの語を用いた際の意味における)言説についての「言語学」を実践せねばならなくなることがしばしばあるからである。米国の記号論が純然たる「記号(サイン)=出来事(イヴェント)」と呼ぶ、二度とは起こらず、科学的研究を受け付けないような出来事としての言葉(パロール)と、すべてのものが相互に関連し合っている、組織化された作用域としての言語(ラング)(人間の言語や、よりいっそう体系的なものとしての形式化された機械言語)のあいだには、「記号(サイン)=意匠(デザイン)」や、文の図式や、バルト的な意味での「エクリチュール」など、つまりは言葉(パロール)の類型を研究する余地があるのである。」(p.133)

 

結論

映画(シネマ)を論じる四つの方法
(1)映画批評
(2)映画史
(3)映画理論(制度の内部)
(4)映画学(フィルモロジー)(制度の外部)

 

「映画学と映画理論はある意味で相互に補い合うものである。」(p.134〜135)

 

「映画学からも映画理論からも――残念ながら――ひどくかけ離れたところに、言語学とその記号学的な延長部分がある。」(p.135)

 

「以上の論述を導く指針となったのは、今やある合同の企てに着手すべき時期が到来したという革新であった。(p.135)偉大な映画理論家たちの著作と、映画学の業績と、言語学の成果をともに基盤とするような考察は、人間が、人間的な意味作用を、人間社会で伝達し合う際のメカニズムを研究するという、あのソシュールの素晴らしい計画を、映画(シネマ)の領域において、徐々に――その道のりは長い――、またなかんずく大きな意味形成単位のレヴェルで、実現できるようになるであろう。
 ジュネーヴの師は、映画が私たちの世界で持つに至った重要性を確認することなく、この世を去った。誰一人としてこの重要性に異議を唱える者はいない。映画の記号学を創始しなければならない。」(p.136)