映画にとってインターネットとは何か(7) 引き延ばされた出会い
イ・ジェヨン『純愛譜』
イ・ジェヨンが2001年に制作した『純愛譜』は、インターネットを通じて、国を超えて二人の男女が出会う物語だ。ただしその出会いは、映画のラストに訪れる。
ソウルの役所で働くウインは、単調な日々の仕事に飽き飽きし、夜にインターネットでアダルトサイトを閲覧することだけが楽しみの男だ。彼は仕事の関係で知り合った赤髪の女性ミアに惹かれ、少々ストーカー気味に彼女につきまとうが、まったく相手にされないままその恋は潰えてしまう。同じ頃、東京に暮らす予備校生の彩は、「飛行機に乗って日付変更線の上を通過する時に自殺する」という計画を立て、その旅費を稼ぐために、リアルタイムで女性のプライベートを覗き見できるサイトに出演することを決意。素性を隠すために赤いカツラを被り、面接時に特徴的な靴を履いていたために「靴を履いた朝子」と名付けられる。その後、ミアに似た女性を求めて「靴を履いた朝子」のサイトに辿り着いたウインは、彼女と出会うためにサイトの発信地であるアラスカへ(この辺りの設定はかなり強引だ)。一方、旅費を得て飛行機に乗ったものの自殺することはできなかった朝子もアラスカに辿りつき、そこで二人は偶然の出会いを果たすのだ。
Korean Movie 영화 순애보(純愛譜) 예고편 HD.mp4 - YouTube
映画の大半がウインと彩の出会い「以前」の物語である以上、恋愛ものの定番であるテンポの良い会話劇は出てこないし、二人の関係性の変化が深く掘り下げられることもない。基本的には、ウインが画面の向こうにいる朝子(彩)に一方的に想いを寄せているだけであり、彼が送ったファンメールにも彩が返事をすることはない。必然的に、作中に描かれるのは、ウインと彩それぞれの独立した日常生活である。そしてそれは、上述した短いあらすじからは漏れてしまうような些細な出来事の集積で成り立っている。すぐにサボり気味になるウインの仕事ぶりや、彩と周囲の人びととの他愛のないやりとりといった細部の描写の丁寧さが、テキストに起こしてみるとほとんど犯罪者としか思えないウインの行動や、彩が自殺願望を持つに至るまでの心理描写の不足といった物語の欠点を補い、この映画を魅力的なものにしているのだ。
引き延ばされた出会い
『純愛譜』の物語構成は、サイバー犯罪を扱った映画や超常ホラーがインターネットを介した出会いや事件を序盤に置くのとは対照的だが、人間ドラマや恋愛ドラマと呼ばれるようなジャンルには、『純愛譜』と同様に終盤まで出会いを引き延ばすフィルムがちらほら見受けられる。
例えば1996年に森田芳光がパソコン通信を題材として制作した『(ハル)』では、互いに相手の素性を知らない男女がメールの交換を通じて親交を深めていく。「ハル」というハンドルネームを使う昇は、相手の「ほし」は男性だと聞いていたが、やりとりを続ける中で、実は美津江という名の女性であることを知る。その後の紆余曲折を経て、ついに実際に会う決意をした二人は新幹線のホームで待ち合わせをする。そこで両者が発する「はじめまして」が、本作の最後の台詞となるのだ。
二年後の1998年にノーラ・エフロンが制作した『ユー・ガット・メール』でも同様に、インターネットで知り合った男女の恋愛模様が描かれる。ただし本作の場合、実は二人は驚くほど身近な場所に暮らしている。街角の小さな書店を経営するキャスリーンは、この街に新たにオープンした大型書店の御曹司ジョーを目の敵にしていたが、彼こそがまさに憧れを持って接していたメール相手であったというわけだ。あらかじめその関係を知らされている観客は、誤解やすれ違いを重ねる二人を終始もどかしい気持ちで見守るのである。
インターネット上で出会った人物が実は身近な人物であったという設定は、岩井俊二の『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)にも見られる。イジメに遭っている中学生の蓮見は、自身が開設したウェブサイトで知り合った「青猫」というハンドルネームの人物と心を通わせていたが、やがて、青猫は蓮見へのイジメを主導する同学年の星野であることが明らかになるのだ。
このように、インターネットを描いた映画において出会いを終盤に設定すること自体は殊更に珍しいものではない。ただしここで挙げた三本のフィルムでは、直接対面したことがなかったり、相手の正体を知らないということはあるものの、メールやチャットによる言葉のやりとりは全編に渡っておこなわれているのであり、その意味では、両者はすでに(ネット上で)出会っているのだとも言えるだろう。
そう考えると、『純愛譜』におけるウインと彩の無関係性はいっそう際立って見えてくる。アラスカでの対面にしても、両者が少しずつ心の距離を縮めて行った結果でもなければ、実は身近な人物だったというわけでもなく、ただただ「偶然」としか言いようのないような素っ気なさが印象に残る。もしもこの映画に続きがあったとしても、特に恋愛関係や友人関係に発展することもなく、その場で別れて二度と会うこともないのではと思わせるような、「運命的」とは程遠い出会いのかたちが描かれているのだ。
この出会いは、上述した三本のフィルムよりもむしろ、『回路』(黒沢清、2001年)における亮介とミチの出会いに通じるものがある。経済学部の大学生・亮介と観葉植物の販売会社に勤めるミチの物語はそれぞれまったく無関係に進行するが、終盤、二人はある場所で偶然に顔を合わせ、行動を共にするようになる。その出会いは、インターネットを介したつながりでもなければ、この世界に溢れ出てきた幽霊たちが導いたものでもない。けれどもそんな、運命的でも必然的でも劇的でもないような素っ気なさの中にこそ、わたしたちが漠然と抱く「インターネット的」と言い得るような何かが捉えられているのではないかとも思うのだ。
エズミール・フィーリョ『名前のない少年、脚のない少女』
インターネットは世界中の人びとと「つながる」ことを可能にする。
そんな夢がこれまでくり返し語られてきたし、実際にその恩恵にあずかった者も数多く居る。しかし一方でインターネットは、これまでなら存在を知ることすらなかったはずの「存在を知ったところで結局出会えない人びと」の存在を可視化し、自分自身は参加することのできない「つながり」や「コミュニケーション」を見せつけられる場所でもある。ブラックボックスであったが故に妄想することのできた「ここではない別のどこか」の現実を、身も蓋もなく突きつけられてしまうのだ。
インターネットのそうした残酷な「出会えなさ」を描いたフィルムとして、ブラジルの映画作家エズミール・フィーリョのデビュー作『名前のない少年、脚のない少女』(2009年)を挙げることができるだろう。本作では、ブラジル南部の片田舎に暮らす少年が、インターネット上で見つけた「ジングル・ジャングル」と名乗る少女に恋をする。ジングル・ジャングルは自身の姿や恋人と過ごす時間を記録した写真や動画をアップしており、少年はそれらを閲覧することを通じて彼女への想いを強めていくのだが、どれだけ願っても二人は決して出会うことができない。なぜなら彼女は自殺し、すでにこの世に居ないからだ。
映画『名前のない少年、脚のない少女』予告編 - YouTube
従って、本作もまた最後まで大きな事件が起こらず、『純愛譜』以上に淡々とした日常の描写が全編に渡って続くことになる。1982年生まれのフィーリョは、「僕らは家庭にインターネットがあった最初の世代だ」とインタビューでも述べているように、あって当然のものとしてインターネットと関わってきた世代だ(「エズミール・フィーリョ『名前のない少年、脚のない少女』インタヴュー」、OUTO SIDE IN TOKYO)。それ故だろうか、本作のインターネット描写には、「つながり」や「コミュニケーション」への夢想でもなければ、サイバー犯罪を扱った映画に見られる過度な危険視・問題視でもない、ある種醒めた眼差しが感じられるのである。
疑似同期
またここで、少年と少女の生きる時間にズレが生じていることにも注目したい。インターネット上に残されているのは、ジングル・ジャングルが生前にアップした「過去」の記録である。しかし、少年がそのサイトにアクセスして写真や動画を見つめるたび、くり返し彼女の生きた時間が「現在」に再生され、少年の生きる時間とシンクロするのだ。
こうしたあり方について、情報社会論に親しんだ者であれば、濱野智史が『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版、2008年)で提唱した「疑似同期」という概念を思い浮かべるかもしれない。「疑似同期」とは、別の時間、異なる場所に居る複数のユーザが、あたかも同じ時間や空間を共有しているかのような感覚を得ることを意味しており、同書ではその代表的な例として、ひとつの動画を多人数で一緒に観賞しながらコメントを投げ合っているような感覚を味わうことのできる「ニコニコ動画」が挙げられている。付け加えておくと、上記の定義に従うならば、『(ハル)』や『ユー・ガット・メール』においても疑似同期的な表現が取り入れられていると言えるだろう。例えば『ユー・ガット・メール』では、本来なら数分や数時間、あるいは数日といったタイムラグがあるはずのメールのやりとりが、まるで対面してリアルタイムで会話をしているかのようなテンポで描き出されるのである。
ただし――以前「分身」のモチーフについて述べた時と同様に――ここで注意しなければならないのは、本作における疑似同期の描写が、必ずしもインターネットというメディアだけに特有のものではないということだ。例えばジングル・ジャングルがアップした動画や写真を、少年がゴミ捨て場で偶然拾ったホームムービーや家族写真に置き換えても、本作の物語はある程度成立してしまうだろう。要するに、死者の時間と生者の時間の擬似同期は――写真、映画(フィルム)、ビデオ、ウェブ動画、あるいはレコードやCDなどの――記録メディア全般で生じ得るし、実際、そうした物語はすでに数多くつくられてもいるのだ。
インターネットに特有な現象としての疑似同期を考えるなら、少年と少女の一対一の関係に比重を置いた『名前のない少年、脚のない少女』よりもむしろ、『リリイ・シュシュのすべて』のほうが適当かもしれない。本作では、不特定多数のBBSへの書き込みが画面上にテロップで表示されていく。カメラによって記録された田園や地方都市の風景が織りなすレイヤーとは別に、テキスト(テロップ)が織りなすもうひとつのレイヤーが重ねられ、現実空間と情報空間という異なる世界が並行して流れていくのだ。そうした中で、初見の観客にとっては、「青猫」というハンドルネームも数あるアカウントの中のひとつに過ぎない。けれども物語が進むうちに、次第にその名前は存在感を増していき、やがて特別な存在として認識されるようになるのである。