揺動メディア論 イントロダクション
1 安易な手ぶれ映像
映画批評や感想サイトなどでしばしば見かけるのが、「安易な手ぶれ映像」というような言葉である。このことは、「安易な固定映像」という言葉を見かけることがないことと併せて、手ぶれ映像の置かれた状況を象徴している。手ぶれ映像を語ろうとしたとき、わたしたちはあまりにも貧しい言葉しか持ち合わせていないことに途方に暮れてしまうだろう。ここで世界各国の映画研究を参照することはできないが、少なくとも日本国内においては、今のところ手ぶれ映像独自の表現を体系的に記述した論考やまとまった議論は見当たらない。手ぶれ映像は、これまでの映画史のなかで、常に周縁的なものとしてしか扱われてこなかったのだ。
そして、数少ない手ぶれ映像についての言及も——先ほどの「安易な手ぶれ映像」という言葉が示すように——楽をして「臨場感」や「リアリティ」を得るための手法であるという批判が大半を占めている。たとえば90年代後半から00年代初頭にかけて痛烈なフェイク・ドキュメンタリー批判を展開した小説家の阿部和重は、とりわけフェイク・ドキュメンタリーにおいて多用される「手持ちカメラ」による「ドキュメンタリー的な撮影スタイル」に疑問を呈し、以下のように述べている。
90年代に現れた一群の疑似ドキュメンタリー作品というのは結局、出来事のリアリティに迫るうえでの困難を取り除いて、ただその手法だけを利用しているようなものばかりだった。手持ちカメラでニュース映像みたいに撮れば何でもリアルに見えるという具合に。映像のアーカイヴ化が進んだいまは、撮り方も種別化され、そのひとつひとつに何らかの意味が含まれてもいて、文字が言葉を表すように、これは泣ける表現とか、笑える表現とか、条件反射的に判断できるような映像言語の基本用法みたいなものが一般的に浸透している。疑似ドキュメンタリー作品の多くは、そうした受け手側の条件反射を当てにして、手法化された「リアル」な表現を安易に利用しているだけに見えてしまう。しかもそこで語られているのは、何の工夫もない陳腐な教訓話みたいなもので、ドキュメンタリー的な撮影スタイルはその補強材料として役立てられているにすぎないんだ 。(阿部和重「過視的なものの世界」、東浩紀『不過視なものの世界』所収、朝日新聞社、2000年、p.217-218)
この批判はしかし、手持ちカメラによる撮影を映画制作の手法のひとつとして認め、その効果に注目しているという意味では、手ぶれ映像への一定の理解を前提としているとも言える。事実、阿部は、ドキュメンタリー・タッチで撮られた映画を十把一絡げにして切り捨ててしまうわけではない。たとえば、ジャン=リュック・ ゴダールとジャン=ピエール・ゴランが「ジガ・ヴェルトフ集団」として制作を行った『万事快調』(1972年)を、「映画のメディア的側面(媒介性) 」を顕示した最たるもののひとつとして取り上げ、またラース・フォン・トリアーの『ドッグウィル』についても、「撮影様式の点では(ステディカムを多用した)疑似ドキュメンタリー的でありつつも、セットとナレーションがドラマ内容に対して果たす相対化の機能によって映像の虚偽性(媒介性) 」を終始あらわにしたものとして評価するなど、一部の作家や作品については肯定的な見方をしている。彼が問題視しているのはあくまでドキュメンタリー・タッチ(と、それに伴う手持ちカメラによる撮影)の「安易な」使用に対してなのだ。しかしこのような良識的批判ばかりではない。より深刻な問題は、手ぶれ映像が、「安易な手法」であるどころか、「手法未満」のノイズとして初めから切り捨てられてしまうことも珍しくない、ということである。
2 カメラワークのディスクール
手ぶれ映像の置かれた状況がもっともあからさまに示されているのは、映画の文法書や教科書、入門書といったものである。映画の文法というものは、当然のことながら、あらかじめ確固たる体系として存在するものではなく、これまでに制作された映画を分析することで事後的に見出されたものである。従ってそこから読み取ることができるのは、普遍的に正しい映画のあり方や正しい撮り方などではない。その著者や同時代の人びとが、映画をどのようなものとして捉えているかという意識である。
まずは手近なところから見てみよう。映像編集ソフト「EDIUS」を販売するグラスバレー株式会社が運営している映像情報サイト「EDIUS.jp 」には、これから映像制作を目指す人びとに向けた教科書コンテンツとして、プリプロダクションからポストプロダクションまでの行程が解説されているが 、そこにある「カメラ・ワーク」のページには、カメラを固定して撮影を行う「フィックス Fix」、三脚に乗せたカメラを水平方向に回転させて、パノラマ的な撮影を行う「パン Pan = Panoramic viewing」、カメラを垂直方向に振る「ティルト Tilt」、カメラのレンズの焦点距離を変える「ズーム・イン Zoom in」と「ズーム・アウト Zoom Back」、そして「移動撮影」といった項目が記載されており、「移動撮影」には、動く被写体をカメラが追う「トラック Track」と被写体にカメラが近寄ったり遠ざかったりする「ドリー Dolly」という区別が為されている。手持ちカメラについては、欄外に「あえてフィクスで撮らないという手法もアリ」という見出しで、以下のように書かれている。
一昔前だと、「プロはフィクスで撮る」が基本中の基本でした。しかし、最近の映画やドラマを見ると、完全なフィクス撮影は減ってきています。従来なら三脚に載せてフィクスで撮る場面でも、手持ちにして微妙な揺れを意図的に創り、画面に臨場感や躍動感を与えています。また、手持ち撮影はカメラの移動が楽なので効率よい撮影ができることも、フィクス撮影が減っている大きな理由です。何事も基本は知りながらも、ひとつの考えに縛られない応用力が大切ですね 。
ここでは、手持ちカメラによる撮影がひとつの手法として認められてはいるが、それはあくまで「応用」としてであり、カメラ・ワークの「基本」とは見なされていないことが読み取れる。またそこで期待されている効果も、「臨場感」や「躍動感」を効率よく得られるという、「安易な手ぶれ映像」的な批判を裏返しただけのものに留まっている。このように、手持ちカメラを「応用」として見ることは決して「EDIUS.jp」だけの特殊な発想ではない。2000年代後半に出版された入門書を眺めてみても、「意図的に手持ちカメラを用いることもあるが、撮影技術の未熟な初心者にはあまりお勧めできない。フィックスの(固定した)絵作りが上手くこなせるようになってから、応用編である手持ちカメラに挑戦すべきである 」や「フィックスショットを繰り返していると必ずもの足らなくなってきます。そうなったら、次の段階はカメラを動かして撮る 」といった記述がしばしば見られるのである。
では、初心者向けの入門書ではなく、より専門的な記述のある書物ではどうだろうか。ダニエル・アリホンによる大著『映画の文法 実作品にみる撮影と編集の技法』を見てみよう。20章「カメラを動かすための基本的ルール二十ヵ条」には、フィルムに記録される動きの型として、(1)人間や物体が、カメラの前を動く場合、(2)カメラが、静止している人や物に向かって進んでいったり、横切ったり、離れたりする場合、(3)この二つの動きが同時に起こる場合、の三つが挙げられており、またカメラそのものの動きについては、「パニング、トラヴェリング、ズーミング(いずれもショット内の動き)」の三つが可能であると記されている 。ここには、手持ちカメラについての記述は一言もない。22章「カメラ移動」には、様々な移動撮影の方法が詳細に記され、併せて多くの図版が掲載されているが、そこに描かれたカメラはすべて台車か三脚の上に乗せられており、やはり手持ちカメラによる撮影の記述や図版は見当たらない 。手持ちカメラについての記述は25章「アクション・シーン」にのみ見られるが、それは以下のようなものである。
移動カメラによるショットは、ときとして、がくんと動くこともある(手持ちカメラ)。この種の動きが観客をいらだたせないよう、持続時間は短かく(たぶん五秒以下)しなければならない。だがこの不規則な動きは、追跡に興奮をもたらすことがよくある 。(ダニエル・アリホン『映画の文法 実作品にみる撮影と編集の技法』、岩本憲児、出口丈人 訳、紀伊国屋書店、1980年(原著初版1976年)、p.469)
日本語訳では774頁にも及ぶ同書のなかで、手持ちカメラや手ぶれ映像に関する言及はたったこれだけである。著者が映画の文法を「実作品にみる」ことを標榜しており、この時代にはすでにネオレアリズモやヌーヴェル・ヴァーグの作家たちが手持ちカメラを用いて大きな成果を上げていたにも関わらず、だ。しかしやはり、こうした手持ちカメラの軽視も特殊なものではない。具体的な「フィルム体験」を重視し、画面に映っているものをひたすらに見ることを説く蓮實重彥ですら、1983年の時点で「あらゆる映画の画面は、移動撮影によるものか、パン、すなわちキャメラを水平に軸回転させるか、ティルト、つまりそれを上下に軸展開させるか、固定ショットによるものか、いずれにせよ、その四つしか存在しない 」と述べているのであり、少なくともここでは、固定カメラによる移動撮影と手持ちカメラによる移動撮影のあいだに何ら差異を認めてはいないのだ(蓮實重彦『監督 小津安二郎』、筑摩書房、1983年、p.129-130)。
3 〈固定されたカメラ〉の映画/〈揺れ動くカメラ〉の映画
ところで、ここまで出てきたカメラ・ワークのうち、トラックとズーム・イン/ズーム・アウトとを除いたほぼすべての手法が、三脚にカメラを取り付けた状態での操作を前提としていることに注意せねばならない。三脚は、カメラを揺れないように固定し、水平を保たせ、雲台にパンやティルトの回転の軸を設定する。これらのことは一見——あまりにも一般化してしまっているために——当然のことのように思える。しかしそれはあくまで、三脚という装置の機構が要請する動きのバリエーションであって、カメラという装置が持つ物理的・技術的条件の反映ではない。何かに固定しなくても、画面が揺れていても、水平でなくても、カメラの底部・中心付近に回転の軸が設定されていなくても、映像を撮影することはできるのだ。
もちろん、映画の黎明期に用いられたカメラは大きくて重く、とても手で抱えて撮影できるようなものではなかった。従って、何かしら固定台のうえに置かれることは、カメラの物理的・技術的条件であり、またそれが撮影の基本であったと言える。しかしここまで見てきたように、家庭用のビデオカメラを初めとして、カメラの軽量化やモバイル化が進んでいる現在にあっても、三脚の機構に依存したカメラ・ワークを映画制作の基本とする思考は根強く残っている。それは今日までもっとも普及しており、馴染み深い、映画を学び、語り、つくるための「型」なのである。そこでここでは、問題提起の意味も込めて、次のような極論を述べておくことにしたい。すなわち、これまでに語られ、書かれてきた映画の歴史とは、〈固定されたカメラ(fixed camera)〉の映画史であったのだ、と。
〈固定されたカメラ〉の映画史は、三脚のうえにカメラを固定した状態を基本状態として、その固定されたカメラをどのように動かすかという観点から語られる。そこでは、手持ちカメラの使用は逸脱であり、手ぶれ映像は、場合によっては表現手法未満、映画には不要なノイズであり、不出来なカメラ・ワークの結果でしかない。フェイクドキュメンタリーを初めとして、カメラの媒介を隠さないような表現が一般化した現在でも、何らかの必然性がない限り、映像の揺れやぶれはなるべく抑えたほうが良いとされる。極端な手ぶれ映像は編集の段階ですべてカットされ、二度と撮ることができないような重要なショットが手ぶれ映像であるような場合のみ、やむなく本編に組み込まれる。さらにそのような場合でも、スローモーションやSmooth Camフィルタ などのエフェクトをかけることで、手ぶれを軽減させるための補正が為されるのである。さらに言えば、こうした傾向は映画のみならず、より広範な映像文化全体にも認められる。たとえば動画共有サイトのYouTubeでは、手ぶれ映像の含まれる動画をアップロードすると「動画にぶれがあるようです。修正しますか?」と尋ねられ、「はい」を選ぶと映像に手ぶれ補正が為される仕組みになっている 。このように、基本的に手ぶれ映像は、映像表現から排除されるべきものなのだ。
しかし手ぶれ映像を、〈固定されたカメラ〉の映画史のなかの例外的な一手法として理解してしまって良いのだろうか。そこには、〈固定されたカメラ〉からの逸脱として捉えるだけでは理解しきることのできない可能性が秘められているとは考えられないだろうか。そもそも、一言に「映像」と呼ばれているもののなかにも、写真と映画、静止画と動画、フィルムとビデオ、アナログとデジタル……といったような、まったく異なる歴史と特性を持つジャンルやメディアの対立が内包されているのだが、〈固定されたカメラ〉による映像と手持ちカメラによる映像のあいだにも、それらの差異と同じか、もしくはそれ以上の差異があると筆者は考えている。すなわち、わたしたちは、三脚によって〈固定されたカメラ〉の映画史に対して、手ぶれ映像を基本状態とする〈揺れ動くカメラ(quaked camera)〉の映画史を想像し、記述することができるはずだ 。
4 手ぶれ映像の分類
〈固定されたカメラ〉の映画史において、手ぶれ映像は、それ以上分節されることのないひとつの単位であった。すなわち、手ぶれ映像は「臨場感」や「リアリティ」や「叙情性」といった紋切り型で語られる記号として扱われているのであり、そこで具体的に問題になるのは大抵、画面が揺れているか揺れていないか、そして揺れているならそれは上述した記号的役割をうまく果たせているかどうか、ということのみである。映画における多種多様な手ぶれ映像の出現に対して、それが「どのように揺れているのか」までを分析する議論はあまりにも数が少ない。しかし、〈揺れ動くカメラ〉の映画を考えるならば、揺れているかいないのかの二項対立に基づいた分析はまったく意味を為さないだろう。なぜなら、そこではカメラが固定されている状況こそが例外的なのであり、基本的には、映像は常に揺れ続けているからだ。従って必然的に、ここで問題にしなければならないのは「どのように揺れているか」であり、またそれを「どのように語るのか」ということである。
〈固定されたカメラ〉の運動をパンやティルトといった語彙で説明するのと比べて、手ぶれ映像を正確に分節し、分類していくことは非常に困難な作業である。そしてそれには明確な理由があるのだが、ここではひとまず、本論のみならず今後行われるべき手ぶれ映像を巡る議論のための叩き台として、便宜的な分類を試みておきたい。
まずは、手ぶれ映像に含まれる運動の総称として「揺動」という言葉を設定する 。そして、この揺動を分節して、「ナガレ」「ズレ」「ユレ」「フルエ」「安定」「固定」という六つの運動と、その運動に伴う「ブレ」「ボケ」「アレ」という三つの画面の状態に分類する。主に片仮名を用いたのは、それらの語の一般的な使用と、手ぶれ映像を論じる際の用語としての使用を区別するためである。それでは以下、それぞれの語について順に解説する。
(1)手ぶれ映像の六つの運動
ナガレ:主にカメラを持つ腕の運動や、徒歩や交通メディアによる移動によって、映像が上下左右前後に「流れ」ていく運動を指す。〈固定されたカメラ〉の映画文法では、パンやティルトなどがこれに該当するが、ナガレは水平・垂直の運動であることを前提としておらず、映画制作者の肉体の可動範囲内で自由な方向に動くことができる。映画制作者の撮影意図がもっとも直接的に反映されるのがこのナガレであるが、画面に収めたい対象が素早い移動を繰り返し、それを映画制作者が追いかける場合などは、むしろその被写体に映像を「流れ」させられているとも言える。
ズレ:カメラにある方向から何らかの力が加わって、映像が映画制作者の想定していた状態から「ずれ」る運動を指す。このズレを含め、ナガレを除いた他の三つの運動と四つの状態はすべて、〈固定されたカメラ〉の映画においては文法として記されることのない、ノイズとして扱われるべきものである。ズレを生じさせる要因は、カメラを持つ腕の肘が壁に当たるなど、カメラと映画制作者の肉体が何らかの障害物にぶつかった場合や、画面に収まっていた被写体が突然外に飛び出して、慌ててそちらにカメラを向けた場合などである。ナガレが曲線的な運動を含むのに対して、ズレは基本的に直線的で単発的な運動である。
ユレ:映画制作者とカメラに何らかの衝撃や強い振動が伝わって、映像が「揺れ」る運動を指す。ユレをもたらす要因は多種多様である。映画制作者が歩行する際の足の上下運動や、そうして歩き踏みしめている地面の起伏、不安定な足場、地震といった、映画制作者を支える土台の震動によって生じるユレもあるし、映画制作者の肉体的疲労や精神的不安定によって集中力が散漫になり、カメラの扱いが粗雑になることによって生じるユレもある。脇を締め、手首の関節を固定するとユレはある程度軽減されるが、それによって柔軟性が失われ、ズレやフルエが生じやすくなる。
フルエ:映画制作者とカメラに何らかの振動が伝わって、映像が「震え」る運動を指す。ユレと比較して揺れ幅が小さく、また継続的な振動であることが多い。フルエが起こる要因としては、ひとつには、カメラを揺らさないようにして腕が力んでしまった場合や、緊張、寒さによってかじかんだ手の震えといった肉体的な振動がある。そしてもうひとつは、たとえば自転車や自動車など車輪のついた交通メディアで移動しながら撮影する場合である。その地面が荒れてでこぼこしたアスファルトや砂利道、レンガなどで舗装された道路であるときには、とりわけフルエが起こりやすい。一時的な揺動に留まるズレやユレに対して、継続的であることの多いフルエは、他の揺動と比べて観客に不快感を与えやすい。また、カメラのズーム機能などを使った場合にもフルエは強調される。
安定:あくまでカメラを手に持った状態で、なるべく上記のような揺動を起こさないように身体を静止させることを指す。もちろん、三脚に固定しているときのように完全に揺動が抑えられるわけではなく、そこには必ず微細なユレやフルエが含まれている。
固定:カメラを三脚に設置したり、手放して床や台のうえに置いたりして撮影することを指す。ここではまったく映画制作者の身体の揺動は反映されないが、それでもすべての揺動から逃れているわけではない。たとえば大型トラックの走行や地震による地面の揺れによって、あるいは強風に煽られることによって、ユレやフルエが混じり込むこともある。
(2)手ぶれ映像の三つの状態
ブレ:上記四つの運動に伴って映像が「ぶれ」、不鮮明になることを指す。一般に、素早いナガレやズレといった映画制作者の手による運動、あるいはユレやフルエといったカメラに伝わる運動によってぶれることを「カメラぶれ」と言い、仮にカメラが固定されている場合でも、被写体のほうが素早く動くなどして生じるぶれを「被写体ぶれ」と呼ぶ。フィルムカメラ、Hi8、デジタルビデオカメラ、ハイビジョンビデオカメラなど、カメラの種類や記録媒体によって、ブレ方が異なったり、特定の条件でぶれやすかったりブレにくかったりといった違いがある。
ボケ:ピントが合わずに映像がぼけてしまうことを指す。移動しながらの手持ち撮影では、オートフォーカスが追いつかずに、しばらくボケの状態が続いたり、フォーカスが合っている状態とボケている状態が交互に現れてくることもある。
アレ:映像の一部、もしくは全体が「荒れ」たり、乱れて表示されることを指す。たとえばカメラを落として物理的なダメージを受けた際に映像に生じるノイズや、解像度を低く設定したデジタルビデオを用いて撮影するときに素早いナガレやユレが生じた際に、それに伴って発生する画面の荒れがこれに相当する。アレの原因は、上述したような、カメラの物理的なダメージや故障、低画質での録画設定、夜間など光量の少ないところでの撮影といった技術的な問題と、激しい揺動が連動したときに起こりやすい。
(最終更新2013.12.16)