qspds996

揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

映画による場所論——〈郊外的環境〉を捉えるために(要旨)

 人びとが生活を営むための新しい場所として、数多くの夢や理想が託されてきたと同時に、様々な誹謗中傷にも晒されてきた〈郊外的環境〉。そこには、現実の場所の経験と、住宅広告やテレビ、映画や写真などの芸術作品、都市論や郊外論などが描き出すイメージとの相互作用によって形成された、「郊外的」と呼び得るような、ある特有な生活様式・文化・風景などのイメージがまとわりついている。本論の目的は、映画というメディアを用いて〈郊外的環境〉を捉え直し、これまでに形成されてきたイメージとは異なるその場所のあり方を見つけることである。

 しかしそれは、既存の映画に捉えられた〈郊外的環境〉を対象として分析するということではなく、また、先行する郊外論や都市論に基づいて映画脚本を書くということでもない。本論が目指すのは、映画を撮ることそれ自体が場所論を書くことであり、その映画を見ることそれ自体が場所論を読むことであるような方法を見つけることである。映画から考えるのでも、考えて映画を撮るのでもなく、映画で考えること。それが「映画による場所論」である。

 一章では、〈郊外的環境〉を定義づける。それは、一般に地理区分として用いられる「郊外」や「近郊」という語とは区別され、たとえ都市や農村であっても「郊外的」だと感じられるような場所の経験をもたらす環境を指す。そして「郊外的」とは、自律した場所のあり方ではなく、「場所ではない場所」や「場所性のない場所」といった、欠如態としての場所のあり方であると、ひとまずは言うことができる。

 二章と三章では、映画による場所論のための準備として、日本の郊外映画に多く見られる〈郊外的環境〉のイメージの「型」を分類・分析していく。二章では主に物語論的な見地から各作品を読み解く。大きな流れとしては、アメリカ的な理想の郊外生活、家族生活への憧れや戸惑いが物語を駆動する〈理想の郊外〉という見方が、六〇年代から七〇年代にかけて郊外化が進展するなかで、その場所が共同体の崩壊や場所性の喪失をもたらすという〈病理としての郊外〉という見方へと変容していく課程を示す。

 三章では、風景論的な見地から郊外映画を読み解く。欠如態としての場所のあり方を映画として表現することを可能にしたのが、〈均質な郊外〉という「型」である。その内実はイゾトピーとヘテロトピーの二種類に分けられ、都市と農村の混在として郊外化が進んできた日本においては、特にヘテロトピーをどのように可視化することができるかが重要である。ヘテロトピア(混在郷)は、複数の場所性が混在することによって均質性の印象をもたらすが、一方でそれは、新たな場所性の創出としても捉えられる。しかし既存の郊外映画は、あくまで均質性の表現に留まっており、後者のような側面を見落としてしまっていることを指摘する。

 四章では、ヘテロトピアにおける新たな場所性について考察するために、監視社会や管理社会を主題としたアメリカの郊外映画を取り上げる。〈郊外的環境〉と密接に結びついている監視・管理型の権力は、ヘテロトピアにおける複数の場所性を多層化することで、異質なものとの出会いの可能性を取り除き、そこに関わる人びとの立場や社会階層に応じて、異なる場所の経験を用意する。そのような場所のあり方を〈多層的な郊外〉と呼ぶ。また監視・管理型権力は、とりわけ人間の「見ること」に働きかけてくる。このことは、視覚メディアである映画もまた、その権力の影響を受け得ることを意味している。

 五章では、映画というメディアそのものが抱えている偏向性が〈郊外的環境〉のイメージに与える影響を検討するために、〈郊外的環境〉、カメラ、そして「風景」という概念の三者が結ぶ共犯関係を解き明かしていく。カメラは、場所の経験を対象化=風景化するための装置(柄谷行人)であり、〈多層的な郊外〉を映画に捉えるためには、風景化以前の場所の経験を可視化するようなカメラの利用方法を考案する必要がある。

 六章では、風景/風景化論(加藤典洋)とヴィヴィアン・ソブチャックの映画論をもとにして、風景化以前の場所の経験を記録する〈場所映画〉の図式を作成する。場所の経験を風景として記録する〈風景映画〉に対して、〈場所映画〉では観客がその映像を目にする時にはじめて風景化が行われる。〈場所映画〉を実現するためには、「身体図式」の組み替え(メルロ=ポンティ)によるカメラの身体化、そして、「映画を撮る」から「映画として生きる」への態度転換が行われなければならない。

 七章では、カメラの身体化について検討するうえで欠かすことのできない技法である主観ショットを取り上げる。主観ショットは、カメラの媒介を隠蔽するものと明示するものに分けられるが、さらに現在の「映像圏」的状況(渡邉大輔)においては、「カメラを通して見る世界の経験」が身体化された〈媒介前提主観〉とでも言うべき第三の主観ショットがうまれている。そしてこの〈媒介前提主観〉にこそ、〈場所映画〉を実現するための手がかりがある。

 八章では、〈媒介前提主観〉のもっとも重要な特徴である手ブレ映像=揺動性の分析から、視覚メディアとしてではなく揺動メディアとして映画を用いることの可能性を検討していく。揺動性は、人間の視覚よりもむしろ触覚と類似した特性を持っている。そこからさらに、「触れること」を契機として身体と世界との交叉を記述したメルロ=ポンティの「キアスム」概念を手がかりにして、世界=場所が「揺り動かした」記録としての〈場所映画〉を構想する。

 九章では、〈場所映画〉という方法論を実際の映画制作に実装し、実践する段階へと移行する。まずは残された課題として、手ブレ映像が世界=場所よりもむしろ映画制作者の「私」性を強調してしまう問題を取り上げ、それへの解決策を示す。続けて、筆者自身による〈場所映画〉の実践、そしてその映像を用いて制作した長編映画『土瀝青 asphalt』の概要と制作意図について述べ、この論を閉じる。

 

平成24年度 東京芸術大学大学院 美術研究科

博士後期課程(先端芸術表現) 学位論文

 

主査 木幡和枝

論文副査 若林幹夫、丸田一、正木基

作品副査 諏訪敦彦鈴木理策、たほりつこ、小谷元彦