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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

映画にとってインターネットとは何か(1) デヴィッド・フィンチャーへの不満

 

 この連載は、現在わたしが制作を進めている新作長編映画『落ちた影/Drop Shadow』(仮)の制作ノートです。neoneo webでの連載「Camera-Eye Myth/郊外映画の風景論」で展開した現実空間の場所論では扱うことのできなかった、人間の活動空間としてのインターネットを題材として、映画はそれをどのように描くことができるのか、あるいは描くことができないのかについて、先行する映画作品の分析をもとに考察していきます。

 記事の公開は不定期、作品の完成および連載の終了は2015年中を予定しています。また今後、個人ブログから別のサイトへの移行も検討しています。無理のないペースで書き進めていきたいと思っていますので、気長におつき合いいただけましたら幸いです。

 

 デヴィッド・フィンチャーソーシャル・ネットワーク

 映画にとってインターネットとは何か。この問いについて真剣に考え始めたきっかけは、2010年に制作された『ソーシャル・ネットワーク』だった。

 本作は、デヴィッド・フィンチャー監督がフェイスブックの創始者マーク・ザッカーバーグの半生を追ったフィルムである。いまさら説明するまでもないだろうが、フェイスブックは2014年時点で世界最大のユーザ数を誇る巨大なソーシャル・ネットワーキング・サービス(以下SNS)で、グーグルやツイッターなどと共に、21世紀初頭の情報環境を代表するウェブサイトであると言って良いだろう。20世紀を代表するメディアであった映画が、それに取って代わりつつある新しいメディアを代表するウェブサイトの誕生物語を真っ向から描く。しかも「21世紀の『市民ケーン』」といった前評判も聞こえてきたものだから、否が応でも期待は高まった。

 


映画『ソーシャル・ネットワーク』予告編 - YouTube

 

 しかし結論から言うと、わたしは軽く肩すかしを食らうことになった。たしかに洗練された脚本や演出を味わえる完成度の高いフィルムだと思ったし、上映中は楽しんで観ることができた。けれども本作は、映画がインターネットをどのように描くのかというわたしの興味に対して、鮮やかな解答を与えてくれるものではなかったのだ。

 もう一歩踏み込んでみよう。もしかすると『ソーシャル・ネットワーク』に感じた「洗練」や「完成度」といったものこそが、わたしの不満の直接的もしくは間接的な原因なのかもしれなかった。フィンチャーはフェイスブックザッカーバーグという旬な題材を得たのにも関わらず、インターネット経験の直接的な表象(パソコンやスマートフォンのモニタ上に表示されるフェイスブックの操作画面、その画面に没入するユーザの手つき、表情といったもの)や、それを扱うことでしか描き得ない物語や視覚表現に向かうことを避け、生身の肉体を持った役者同士による会話劇で全編を構成している。さらにそこで語られるのは、ザッカーバーグというひとりの若き野心家の成功と孤独という、情報化どころか、写真や映画が発明されるよりも前から繰り返し語られてきた古典的な人間ドラマなのである。本作では、フェイスブックナップスターといったウェブサービスも、SNSの所有権はアイデアを出した者に与えられるのかプログラミングした者に与えられるのかを争点とする現代的な訴訟問題も、物語を彩る交換可能な意匠にすぎない。脚本の大部分を変更することなしに、別の時代や場所に物語の舞台を移し替えることもできそうなほどに、既存の映画制作の「型」がベタに踏襲されてしまっていると感じたのだ。

 

 

 隠喩としてのフェイスブック

 こうしたわたしの不満とは対照的に、『ソーシャル・ネットワーク』を「フェイスブックというメディアそのもの」に迫ろうとした作品ではないかと肯定的に捉えているのが、映像作家・映画研究者の石橋今日美である(「The Girl and the Brain──D・フィンチャー『ソーシャル・ネットワーク』」、FLOWER WILD、2011年)。

 彼女は、『ソーシャル・ネットワーク』の特筆すべき点として「スピード」を挙げている。それは台詞回しのスピードではなく、話す主体の変化に合わせためまぐるしいショットの切り替えやピント送りのスピード、そして過去と現在のシークエンスがその時間的厚みを無視するかのようにしてつなぎ合わされ、交差していく形式のスピードだ。そして石橋は、このスピードにフェイスブックというメディアの特性を見て取る。フェイスブックのウォール(ユーザの投稿が表示される掲示板の名称で、Twitterのタイムラインに相当する)には、日々新たなトピックスが投稿され、古いトピックスが画面の下へと流れて消えていく。またそのウォールをスクロールしていけば、3分前の書き込みでも2年前の写真でも簡単に表示することができる。そのような、歴史的な厚みが希薄となり、過去と現在の境界が曖昧になったフェイスブックのありようを、フィンチャーは巧みな演出と編集によって映画に翻訳してみせたというのだ。

 この指摘にはなるほどと思わされたが、まだ『ソーシャル・ネットワーク』への不満は消えなかった。個人的な思い入れが多分に含まれていることを承知で言えば、それは、この映画の監督がデヴィッド・フィンチャーだからである。もともと彼は現代の文化やテクノロジーの状況に敏感に反応し、『ファイト・クラブ』(1999年)におけるイケアのカタログに迷い込んだエドワード・ノートンや、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2009年)の時を追うごとに若返っていくブラッド・ピットのように、思い描いたイメージを身も蓋もなく直接的かつ過剰に具現化する欲望に突き動かされてきた作家なのではなかったか。そんな彼が、なぜすでに一般に普及しているフェイスブックを描くためにこれほど回りくどいことをしなければならなかったのか。ありふれた日常生活の一部となっているインターネットの経験を映画化するために、なぜ直接的な表象を避けて隠喩に頼らなければならなかったのか。2007年の監督作『ゾディアック』あたりから囁かれ始めた、フィンチャーの作家としての「成熟」がこうした演出に向かわせたのだと考えることもできるだろう。しかしわたしには、それとは異なる別の理由もあるように思えてならないのである。

 

 映画の盲域

 考えてみると、そもそも『ソーシャル・ネットワーク』とフィンチャーに過度な期待を寄せたのは、それ以前から、インターネットというメディアをうまく扱えている映画が驚くほど少ないことに不満を持っていたからだった。

 この不満の中には、インターネットを扱うことによって映画のありかたを刷新するような野心的なフィルムがどこかにないものか?というスケールの大きな問いも含まれてはいるのだが、実のところ、わたしの関心の中心にあったのはもっとささやかな問いである。すなわち、映画のスクリーンにインターネットが映し出された時に感じる収まりの悪さはいったい何事なのだろうか。登場人物が見つめるパソコン画面や表示されたブラウザが、どうも作品の中で浮いて見え、そのせいでしばしば物語への没入も妨げられてしまうのはなぜだろうかということが、ずっと気になっていたのだ。

 2012年に刊行された『90年代アメリカ映画100』(佐野亨 編、大場正明 監修、芸術新聞社)に収録された粉川哲夫のコラム「90年代アメリカ映画のメディア的側面」がヒントを与えてくれる。粉川は、インターネットと共に90年代以降に存在感を増してきたメディアである携帯電話(モバイル・フォン)が映画に欠かせない小道具として重要な位置を占めるようになったのとは対照的に、インターネット黎明期に登場した『ザ・インターネット』や『ユー・ガット・メール』から2010年の『ソーシャル・ネットワーク』に至るまで、インターネットの真の実態を映像化したハリウッド映画はいまだ現れていないと指摘している。そして彼は、その原因をインターネットというメディアの特性そのものに求める。インターネットはいまや「映画的想像力の速度と規模をはるかに越えて進行」しており、「映画というメディアを越えた機能をはらんでいる」(43頁)と言うのだ。

 

90年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ)

90年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ)

 

 

 ここに、わたしの不満の原因を見つけることができるかもしれない。すなわち、映画がインターネットをうまく扱えていないことや、独特の「収まりの悪さ」が生じていることは、制作者たちの技量や失敗だけに帰せられる問題ではなく、映画が映画であるが故の必然的な帰結という側面もあるのではないか。

 以前、neoneo webでの連載「郊外映画の風景論」の中でも述べたことだが、すべてのメディアは必ず「盲域」を抱えており、気づかぬうちに扱う対象を歪めたり、見落としたりしている。現在のわたしたちが慣れ親しんでいるドキュメンタリーや劇映画だって、どのような出来事や状況でも正確に記録でき、どのような物語でも饒舌に語ることができるような万能な形式ではありえない。このことを踏まえると、映画を越えた機能を孕んでいるとされるインターネットは、まさに映画の「盲域」に位置しており、それ故に、インターネットを描こうとすると映画は機能不全を起こしてしまうのではないか。またそうであるならば、この状況を打開するためには、映画とインターネットの関係をより詳細に読み解いた上で、映画と呼ばれるものの枠組自体を拡張していくような試みが必要になるのではないか——。わたしはこのような仮説を立て、本連載でそれを追及していこうと考えたのである。

 

 インターネットとドキュメンタリー

 映画とインターネットの関係を読み解くと言っても、その切り口は無数に考えられるのであり、今のままではまだあまりにも漠然としている。そこで、「ドキュメンタリー」というキーワードを導入することで、連載の方針をより明確にしておくことにしよう。

 劇映画であれドキュメンタリーであれ、その時代の風俗や文化、風景、価値観を何らかのかたちで後世に伝える役割を果たしている。例えば100年後の人びとは、かつてフロッピー・ディスクと呼ばれる記録媒体が存在したことや、どのようなメカニズムで駆動するものかについては知識として知ることができるだろうが、それを当時の人びとがどのような用途で使っていたのか、どのような場所に仕舞っていたのか、どれほど慎重に扱うべきものだったのか、後続のCDやメモリーカードとの関係はどうだったのかといったことに関しては、自覚的に記録が残されないかぎり、忘れ去られてしまってもおかしくない。そんなとき、フロッピーをパソコンに抜き差ししたり、データの読み書きをしている描写のある映画が残っていれば、それは20世紀末のコンピュータ経験を知る上で非常に貴重な資料とみなされるだろう。

 ただし、もちろんそれが「現実」の「正しい」記録であるという保証はない。サイバー犯罪を扱った映画ではしばしば、薄暗い部屋にモニタの光が浮かび、超高速でタイピングをするハッカーが登場する。現在の観客はその描写に違和感を覚え、ネタにしたりツッコミを入れたりすることができるが、100年後の人びとならどうだろうか。自分自身の経験に照らしてみても、100年前の映画に登場する人びとの所作が「現実に即しているか」を判断することは(その分野の専門家でもないかぎり)困難だろう。当事者にとってはありえない描写でも、遠い未来には、それが20世紀末のインターネット経験の基本的なイメージとして定着しているかもしれないのである。

 では、映画がインターネットを描くとき、そのどういった側面が記録され、どういった側面が見落とされたのか。そこで記録されたものはどの程度インターネットの実態に即していて、どの程度偏向しているのか。さらにその「偏向」は、監督をはじめとする映画制作者たちがインターネットに対して抱いているイメージ(偏見)が反映された結果なのか、それともインターネットに対する映画というメディア自体の限界が露呈した結果なのか——。ある時と場に居合わせ、特定の社会に生きた人びとのインターネット経験が如何なるものであったかについて、別の時と場に生きる者が知るための手がかりとして、わたしが書いたものが何かしらの判断材料になること、あるいはさらなる謎や混乱を呼び起こすものに願いつつ、書くことを始めようと思う。