佐々木友輔監督作品『新景カサネガフチ』『落ちた影/Drop Shadow』上映会&トーク
2015年に見た新作映画ベスト20
2015年に見た新作映画のベストです。『スターウォーズ』観終えたので追記しました
今年見た映画は新作/旧作と劇場/自宅合わせて320本。ベストの最初の5本は、未知の何かを見せてくれたもの、ひたすら遠くまで連れて行ってくれたもの。しばしば映画を見ていて「人間」観が貧しすぎると感じるのですが、そんな不信を良い意味で裏切ってくれたフィルムたち。6本目以降は、ある面では保守的とも感じられるのだけれど、別の面でとても果敢な、映画の枠を軋ませるような挑戦があり、ワクワクさせてくれる瞬間のあったフィルムが並んでいるように思います。
あらためて、わたしは映画に「よくできている」ことなどまったく求めていないのだと感じます。ハリウッド大作の暴走にも近い魅力が飼いならされ始め、「よくできている」ことが(商業的にも批評的にも)大きな価値であるという空気が広がっているここ数年。来年はもっと凶悪で歪な映画が生まれてくることを祈っています(ザックへのエアリプ)。
わたしが彼女を見た瞬間、彼女はわたしを見た
「わたしが彼女を見た瞬間、彼女はわたしを見た」最終日のアーティスト・トークにゲストとして参加します。
展覧会「わたしが彼女を見た瞬間、彼女はわたしを見た」
出品作家|青柳菜摘とだつお、金川晋吾、門眞妙
会期|2015年12月11日(金)~26日(土)
時間|12:00~20:00 ※木曜日休廊
Artist Talk & Closing Party|26日(土)17時~20時(ゲスト:佐々木友輔)
会場|新宿眼科画廊スペースM、S、E
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「わたしが彼女を見た瞬間、 彼女はわたしを見た」展示作家:青柳菜摘とだつお、金川晋吾、門眞妙 見てきました。ステイトメントに掲げられた「メディウム」の意図は、実際の展示を見るとすんなり理解できる。
しかしこれ、どう言葉にすれば良いのだろうという(トークを前にしての)難問感と、こういう展示ができて羨ましいなあという気持ちが第一印象。
「わたしが彼女を見た瞬間、 彼女はわたしを見た」の方法論は、小田原のどかさんの「わたしはいま、まさに、ここにいる」展にも通じるものがある気がした。作家の組み合わせにより何かしら方向付けられたビジョンを示すというよりは、類似と衝突によって解釈可能性を無限に増殖させていくような。
ひとまずは「顔」の複数性と同一性の問題と「メディウム」の複数性と同一性の問題の重ねあわせが議論の出発点になるだろうか。あとは、さらに前提として、三者ともメディウム(メディア)の扱いが非常に巧い。その技巧をどう評価するべきか。
そんなわけで、時間をかけて考えることを促されるような、鑑賞者が試されているような、野心的な展示です。オススメ! 時間と心に余裕があれば(ないかも)まとまった感想など書きたいですが、ひとまず初見の印象でした。
2015/12/19
(備忘録として2015/12/19のツイートを転載)
『風景の死滅』はたしかに重要な参照先ではありますが、応用というよりは、風景映画という方法そのものへの批判と乗り越えが目指されています。(〈風景映画〉から〈場所映画〉へ)
まず撮影の方法論として〈場所映画〉と〈風景映画〉の区別があり、そこに事後的な編集が加わることで厳密にはどちらも「風景映画」になるのだが、しかし〈場所映画〉を編集した作品と〈風景映画〉を編集した作品の差異を強調するために、前者を「場所映画」と記述することにしている……
……みたいな定義を設けているのだけど、きっとそんなこと誰も気にしていないので、長らく倉庫で埃をかぶっています。
〈場所映画〉は、カメラと一体化した撮影者による前反省的撮影=映画として生きられた世界のことだとまとめられる。完全な〈場所映画〉は不可能だが、映画の揺動性を足がかりにして限りなくそれに近づくことはできると想定。
〈場所映画〉と〈風景映画〉はあくまで極端なモデルであり、実際の映像は両者のグラデーションの中に現れる。そしてまた、その位置は時間と共に変化していく。
時間と共に変化していく、これが重要。すなわち、〈場所映画〉から〈風景映画〉への移行を事後的に観察し得るということであり、それは、ひとが場所をどのように対象化(風景化)するのかを知る手がかりが得られる可能性があるということ。
分かりやすい例でいえば、それは移動と停止として現れる。流れていく景色の中で、色や文字、特徴的なかたちに「目を留める」。〈場所映画〉から〈風景映画〉への移行の瞬間。「場所映画」はその移行を積極的に内包する。いっぽう、「風景映画」は移行した「後」の風景の集積である。
〈場所映画〉についてはだいたいここに書いたのですが、 いま読み返すとまずい(迂闊な)表現がちらほら……ということで何かしら書き直し案を練っていたのでした。
というか、博論でも『土瀝青』本でも編集の問題にはほとんど踏み込めていない。neoneo連載最終回で提起した「編集のドキュメンタリー性」について、また時間をかけて掘り下げていきたいなーと。
『ハッピーアワー』と集会室的空間
濱口竜介の最新作『ハッピーアワー』の公開が始まっている。これまでの作品と同様、様々な切り口から語ることのできる(語りたくなる)魅力的なフィルムだ。わたしも個人的な関心から、本作について少しだけ書いてみたい。
『ビジュアル・コミュニケーション』収録の座談会でも触れたように、濱口はいわゆる「地域映画」的な枠組を非常にうまく活用しながら制作を続けている作家だ。しかしそうした制作プロセスは一見、作中の「風景」にはそれほど反映されていないように思える。たとえば『なみのおと』にはじまる「東北記録映画三部作」。そこでは時折、移動する車内から撮られた風景ショットが登場するのだが、それらは語り手たちの表情や言葉の強い印象に比べると何ともささやかで、主張せず自ら後景に退くような佇まいをしている。『ハッピーアワー』もまた、冒頭のケーブルカーのショットがわずかに地域映画的旅情を喚起させるが、その後、神戸の神戸性(特殊性)のようなものが映画の主役に躍り出ることはない。やっぱり四人の女性が主役だよな、という説得力が常に勝るのだ。このように、少なくとも濱口は——他の多くの地域映画ほどには——郷土的・観光的風景の描写に作品の力点を置いていないようである。
けれども『ハッピーアワー』には、上記とは別の意味で地域映画的というか、地方自治体的な印象を抱かせる空間が登場する。それは、たいていの市民センターや公民館に設置されているような、集会室・会議室的空間である。白色系の無難な壁面とパーテーション、適度な数のパイプ椅子と長机、小さいテレビやスクリーンだけが置かれている、無機質でそっけない部屋……。固有な場所性や土着性とは無縁な、それこそ〈均質空間〉とでも言いたくなるようなその場所は、しかし、それでもなお歴史性や固有性から完全に断絶しているわけではない。そこで生きた(活動した)人びとの痕跡であるくたびれた内装、椅子や机、テレビなどのチョイス、何よりそのそっけない空間構成自体が、「没場所的な場所の場所性」とでも言うべきものを形成している。そう、この感じは、美術館のホワイトキューブでもなければ、ショッピングモールの空店舗でもない。やはり公共施設の会議室や集会室に特有な「何か」なのだ。……異論があるかもしれないが、少なくともそこが完全にニュートラルな空間ではなく、特定の時と場を否応なく想起させられる場所であるということには同意してもらえるだろう。
さて、こうした集会室的空間は、世間的には「映画」に映えるものでないと思われている。集会室の登場シーンに大喜びしたり、わざわざ探し求めたりする人はほとんどいない。自主映画の撮影に集会室を使ったりすれば「もっと考えろよ」とツッコミが入りかねない。けれどもわたしは、こういう場所が登場する映画が好きだ。「映画」に映える場所――要するにいかにも美しかったりムードがあったり壮観であったりする場所ばかりがロケ地として選ばれていると、なんだか居心地の悪さを感じてしまう。一方、集会室的風景には等身大な感じがある。おおげさに言えば、わたしはそこに、現在の日本に生きることの条件を教えられるような気持ちを抱くのだ。だから『ハッピーアワー』や「東北記録映画三部作」の(おそらく)会議室や集会室でさらっと(ではないと思うけれど)撮影したかのようなショットを見ると、良いな、と思う。
しかし一方で、集会室的空間で繰り広げられるドラマを眺めていると、なんだか残酷なものを見せられているような気持ちにもなる。例えるなら、家庭用オーディオ機器のような音質調整がされていないモニタ・スピーカで知り合いの歌や音楽を聴いているかのような。それをひとまず、「過度にフラットな空間」と呼んでみよう(すなわち、集会室的空間を特殊な意味や志向性を備えた空間として捉えるということ。またさらに、それは「ニュートラルな空間」や「ナチュラルな空間」とも区別されなければならない)。この過度にフラットな空間は、とりわけ映画という場においては、かぎりなくムード・ゼロの空間であり、魔法の効かない世界であり、いい感じにぼかされたりエコーを掛けられたりしていない「ありのままの身体」(括弧付きであることに注意)を投げ出さざるを得ない場所である。それはとりわけ表現者にとって過酷だ。ワークショップの講師はひときわ胡散臭く見え、詩人の言葉もしらじらしく聴こえてしまう。シーンが集会室から野外、あるいはクラブ等に移行すると、演技が場所に包まれて守られているような、妙な安心感を覚えるほどだ。
『ハッピーアワー』のむせ返りそうになるほどの生っぽさは、もちろん監督の演出や役者の力に依るところが大きいのだろうけれど、きっとこうした環境によってつくられている部分もあるんじゃないかと思う。そう言えば、やはり集会室的空間で舞台の稽古がおこなわれる『親密さ』で、リアルタイムの演技とビデオで記録された演技が違って見えることについての対話があった。おそらくそこでリアルタイム/記録の二項対立を考えるだけでは不十分で、演じる環境の設定や、カメラの選択、撮影方法によっても両者の関係性は大きく変わるはずだ(例えば『不気味なものの肌に触れる』では、薄暗く艶かしい撮影・演出によって、『親密さ』や『ハッピーアワー』に見られるような「ありのままの身体」感が巧みに抑えられている)。
周囲のムードによるごまかしがきかず、コントロールしきれない身体のままならなさをありのままに露呈させる装置としての集会室的空間(だからこそ、そこは稽古の場として使われる)。当人が思い描く演技から遠ざかっていったはずの「ありのままの身体」が、中途半端に隠蔽されることなく、むしろ細部まで明かされてしまうからこそ、再び演技(架空の人物の身体)のもとへと帰還する。まだうまくまとまらないけれど、あの生っぽさの要因はそのあたりにあるのではないかと思っている。
長くなってしまったので、とりあえず今回はここまで。集会室的空間において、無防備に投げ出された身体が無数の視線にさらされるぴりぴりとした痛みの系譜というものを——「楽屋ネタ」の枠組からは少し距離を置きつつ——考えてみるのも面白そうだ。例えば山下敦弘『不詳の人』や入江悠『SR サイタマノラッパー』。あるいはフレデリック・ワイズマンの諸作品を見返してみたくなった。
disPLACEment――「場所」の置換vol.3(映画『土瀝青 asphalt』上映)
12月12日(土)、はじめて沖縄で自作を上映することになりました。土屋誠一氏企画による「disPLACEment」(vol.1/vol.2)シリーズの第3弾として、『土瀝青 asphalt』を上映し、終了後には土屋氏と私のトークがあります。沖縄在住の方、お近くにお住まいの方、ぜひぜひご覧ください。
disPLACEment――「場所」の置換vol.3
佐々木友輔作品「土瀝青 asphalt」上映会
日時|2015年12月12日(土)
開場13:00、上映13:30、トーク17:00
料金|入場無料
会場|沖縄県立芸術大学 首里当蔵キャンパス 一般教育棟 大講義室
主催:沖縄県立芸術大学 土屋研究室(tsuchiya(at)okigei.ac.jp)
助成:公益信託宇流麻学術研究助成基金
詳細|http://stsuchiya.exblog.jp/22545321/
映画ウェブサイト|http://qspds996.com/asphalt/
※上記フライヤーは昨年の上映会のもの
11月の上映&イベント
11月の予定をまとめました。
【1】三代川達 第10回上映会 base ten number system
11月7日(土)、8日(日)15:30、19:00
11月9日(月)〜11月13日(金)21:00
料金前売¥900 / 当日¥1,500(共に1ドリンク¥500別)
会場 UPLINK FACTORY(1F),ROOM(2F)
ワタナベカズキ監督『チェーンブレイカー』に脚本で参加しています。
【2】『ビジュアル・コミュニケーション』刊行記念トークイベント
「動画の時代」の「映画批評」はいかに可能か――「ポストメディウム的状況」を考える
11月17日(火)19:30〜
ジュンク堂書店 池袋本店
登壇者:三浦哲哉、渡邉大輔、佐々木友輔(司会:冨塚亮平)
- 作者: 限界研,飯田一史,海老原豊,佐々木友輔,竹本竜都,蔓葉信博,冨塚亮平,藤井義允,藤田直哉,宮本道人,渡邉大輔
- 出版社/メーカー: 南雲堂
- 発売日: 2015/09/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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【3】佐々木友輔 新作上映[Epoch]
2015年11月21日(土)、22日(日)
開場18:30、上映19:00(20:10終了予定)
料金:1500円(定員25名、要予約)
会場:新宿眼科画廊
上映作品:『落ちた影/Drop Shadow』(アナグリフ3D)
『And the Hollow Ship Sails On』(2D)