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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

2015/12/19

 

(備忘録として2015/12/19のツイートを転載)

 

『風景の死滅』はたしかに重要な参照先ではありますが、応用というよりは、風景映画という方法そのものへの批判と乗り越えが目指されています。(〈風景映画〉から〈場所映画〉へ)

 

まず撮影の方法論として〈場所映画〉と〈風景映画〉の区別があり、そこに事後的な編集が加わることで厳密にはどちらも「風景映画」になるのだが、しかし〈場所映画〉を編集した作品と〈風景映画〉を編集した作品の差異を強調するために、前者を「場所映画」と記述することにしている……

 

……みたいな定義を設けているのだけど、きっとそんなこと誰も気にしていないので、長らく倉庫で埃をかぶっています。

 

〈場所映画〉は、カメラと一体化した撮影者による前反省的撮影=映画として生きられた世界のことだとまとめられる。完全な〈場所映画〉は不可能だが、映画の揺動性を足がかりにして限りなくそれに近づくことはできると想定。

 

〈場所映画〉と〈風景映画〉はあくまで極端なモデルであり、実際の映像は両者のグラデーションの中に現れる。そしてまた、その位置は時間と共に変化していく。

 

時間と共に変化していく、これが重要。すなわち、〈場所映画〉から〈風景映画〉への移行を事後的に観察し得るということであり、それは、ひとが場所をどのように対象化(風景化)するのかを知る手がかりが得られる可能性があるということ。

 

分かりやすい例でいえば、それは移動と停止として現れる。流れていく景色の中で、色や文字、特徴的なかたちに「目を留める」。〈場所映画〉から〈風景映画〉への移行の瞬間。「場所映画」はその移行を積極的に内包する。いっぽう、「風景映画」は移行した「後」の風景の集積である。

 

〈場所映画〉についてはだいたいここに書いたのですが、 いま読み返すとまずい(迂闊な)表現がちらほら……ということで何かしら書き直し案を練っていたのでした。

 

というか、博論でも『土瀝青』本でも編集の問題にはほとんど踏み込めていない。neoneo連載最終回で提起した「編集のドキュメンタリー性」について、また時間をかけて掘り下げていきたいなーと。