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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

『ハッピーアワー』と集会室的空間


 濱口竜介の最新作『ハッピーアワー』の公開が始まっている。これまでの作品と同様、様々な切り口から語ることのできる(語りたくなる)魅力的なフィルムだ。わたしも個人的な関心から、本作について少しだけ書いてみたい。

 


映画『ハッピーアワー』予告編 - YouTube

 

 『ビジュアル・コミュニケーション』収録の座談会でも触れたように、濱口はいわゆる「地域映画」的な枠組を非常にうまく活用しながら制作を続けている作家だ。しかしそうした制作プロセスは一見、作中の「風景」にはそれほど反映されていないように思える。たとえば『なみのおと』にはじまる「東北記録映画三部作」。そこでは時折、移動する車内から撮られた風景ショットが登場するのだが、それらは語り手たちの表情や言葉の強い印象に比べると何ともささやかで、主張せず自ら後景に退くような佇まいをしている。『ハッピーアワー』もまた、冒頭のケーブルカーのショットがわずかに地域映画的旅情を喚起させるが、その後、神戸の神戸性(特殊性)のようなものが映画の主役に躍り出ることはない。やっぱり四人の女性が主役だよな、という説得力が常に勝るのだ。このように、少なくとも濱口は——他の多くの地域映画ほどには——郷土的・観光的風景の描写に作品の力点を置いていないようである。

 けれども『ハッピーアワー』には、上記とは別の意味で地域映画的というか、地方自治体的な印象を抱かせる空間が登場する。それは、たいていの市民センターや公民館に設置されているような、集会室・会議室的空間である。白色系の無難な壁面とパーテーション、適度な数のパイプ椅子と長机、小さいテレビやスクリーンだけが置かれている、無機質でそっけない部屋……。固有な場所性や土着性とは無縁な、それこそ〈均質空間〉とでも言いたくなるようなその場所は、しかし、それでもなお歴史性や固有性から完全に断絶しているわけではない。そこで生きた(活動した)人びとの痕跡であるくたびれた内装、椅子や机、テレビなどのチョイス、何よりそのそっけない空間構成自体が、「没場所的な場所の場所性」とでも言うべきものを形成している。そう、この感じは、美術館のホワイトキューブでもなければ、ショッピングモールの空店舗でもない。やはり公共施設の会議室や集会室に特有な「何か」なのだ。……異論があるかもしれないが、少なくともそこが完全にニュートラルな空間ではなく、特定の時と場を否応なく想起させられる場所であるということには同意してもらえるだろう。

 さて、こうした集会室的空間は、世間的には「映画」に映えるものでないと思われている。集会室の登場シーンに大喜びしたり、わざわざ探し求めたりする人はほとんどいない。自主映画の撮影に集会室を使ったりすれば「もっと考えろよ」とツッコミが入りかねない。けれどもわたしは、こういう場所が登場する映画が好きだ。「映画」に映える場所――要するにいかにも美しかったりムードがあったり壮観であったりする場所ばかりがロケ地として選ばれていると、なんだか居心地の悪さを感じてしまう。一方、集会室的風景には等身大な感じがある。おおげさに言えば、わたしはそこに、現在の日本に生きることの条件を教えられるような気持ちを抱くのだ。だから『ハッピーアワー』や「東北記録映画三部作」の(おそらく)会議室や集会室でさらっと(ではないと思うけれど)撮影したかのようなショットを見ると、良いな、と思う。

 しかし一方で、集会室的空間で繰り広げられるドラマを眺めていると、なんだか残酷なものを見せられているような気持ちにもなる。例えるなら、家庭用オーディオ機器のような音質調整がされていないモニタ・スピーカで知り合いの歌や音楽を聴いているかのような。それをひとまず、「過度にフラットな空間」と呼んでみよう(すなわち、集会室的空間を特殊な意味や志向性を備えた空間として捉えるということ。またさらに、それは「ニュートラルな空間」や「ナチュラルな空間」とも区別されなければならない)。この過度にフラットな空間は、とりわけ映画という場においては、かぎりなくムード・ゼロの空間であり、魔法の効かない世界であり、いい感じにぼかされたりエコーを掛けられたりしていない「ありのままの身体」(括弧付きであることに注意)を投げ出さざるを得ない場所である。それはとりわけ表現者にとって過酷だ。ワークショップの講師はひときわ胡散臭く見え、詩人の言葉もしらじらしく聴こえてしまう。シーンが集会室から野外、あるいはクラブ等に移行すると、演技が場所に包まれて守られているような、妙な安心感を覚えるほどだ。

 『ハッピーアワー』のむせ返りそうになるほどの生っぽさは、もちろん監督の演出や役者の力に依るところが大きいのだろうけれど、きっとこうした環境によってつくられている部分もあるんじゃないかと思う。そう言えば、やはり集会室的空間で舞台の稽古がおこなわれる『親密さ』で、リアルタイムの演技とビデオで記録された演技が違って見えることについての対話があった。おそらくそこでリアルタイム/記録の二項対立を考えるだけでは不十分で、演じる環境の設定や、カメラの選択、撮影方法によっても両者の関係性は大きく変わるはずだ(例えば『不気味なものの肌に触れる』では、薄暗く艶かしい撮影・演出によって、『親密さ』や『ハッピーアワー』に見られるような「ありのままの身体」感が巧みに抑えられている)。

 周囲のムードによるごまかしがきかず、コントロールしきれない身体のままならなさをありのままに露呈させる装置としての集会室的空間(だからこそ、そこは稽古の場として使われる)。当人が思い描く演技から遠ざかっていったはずの「ありのままの身体」が、中途半端に隠蔽されることなく、むしろ細部まで明かされてしまうからこそ、再び演技(架空の人物の身体)のもとへと帰還する。まだうまくまとまらないけれど、あの生っぽさの要因はそのあたりにあるのではないかと思っている。

 長くなってしまったので、とりあえず今回はここまで。集会室的空間において、無防備に投げ出された身体が無数の視線にさらされるぴりぴりとした痛みの系譜というものを——「楽屋ネタ」の枠組からは少し距離を置きつつ——考えてみるのも面白そうだ。例えば山下敦弘『不詳の人』や入江悠『SR サイタマノラッパー』。あるいはフレデリック・ワイズマンの諸作品を見返してみたくなった。

 

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