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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

「動画の時代」の「映画批評」はいかに可能か——「ポストメディウム的状況」を考える

 

限界研の新刊 『ビジュアル・コミュニケーション』の刊行記念トークイベントに参加します。

11月17日(火)19:30〜、ジュンク堂池袋店にて開催です。

 

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

 

 

『ビジュアル・コミュニケーション』(南雲堂)刊行記念トークイベント

佐々木友輔×三浦哲哉×渡邉大輔(司会進行:冨塚亮平)
「動画の時代」の「映画批評」はいかに可能か
「ポストメディウム的状況」を考える

 

ここ最近、映画の世界は大きな変化を迎えている。誰でもスマホで「映画」っぽいものが作れ、ネット上にはVine動画やゲーム実況など、いままで見たこともないような新しい映像コンテンツが映画と肩を並べるようにして、活況を呈するようになりつつある。『映画とは何か』(筑摩書房)など、映画の現在について先鋭な批評活動を繰り広げる俊英・三浦哲哉氏をゲストに迎え、9月末刊行の評論集『ビジュアル・コ
ミュニケーション——動画時代の文化批評』(南雲堂)の内容を踏まえ、こうした「動画の時代」にかつての「映画批評」はどのように対応していくべきなのか。『ゼロ・グラビティ』『親密さ』『ルック・オブ・サイレンス』『THE COCKPIT』……などなど、数々の話題作を素材に、そして映画誕生120年の現在、あらためて「映画」と「映像」の関わりについて「映画批評」の観点から徹底的に語り合う。

 

 

佐々木友輔─ささき・ゆうすけ
1985年神戸生まれ。映像作家、企画者。近年の上映・展示に「反戦 来るべき戦争に抗うために」展、第7回恵比寿映像祭、編著に『土瀝青—場所が揺らす映画』(トポフィル)、論考に「二種類の幽霊、二種類の霊媒—揺動メディアとしての映画論」(『ART CRITIQUE n. 04』所収、BLUE ART)など。

 

三浦哲哉─みうら・てつや
1976年福島県郡山市生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。現在、青山学院大学文学部准教授。博士(学術)。専門は映画批評・研究、表象文化論福島県内外での映画上映プロジェクトImage.Fukushima代表。主な著書に『映画とは何か: フランス映画思想史』(筑摩書房)、『サスペンス映画史』(みすず書房)など。

 

渡邉大輔─わたなべ・だいすけ
1982年生まれ。映画史研究者・批評家。専攻は日本映画史・映像文化論・メディア論。現在、跡見学園女子大学文学部助教日本大学芸術学部非常勤講師。著作に『イメージの進行形』(人文書院)、共著に『日本映画史叢書15 日本映画の誕生』(森話社)『見えない殺人カード』(講談社文庫)『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)『ソーシャル・ドキュメンタリー』(フィルムアート社)『アジア映画で〈世
界〉を見る』(作品社)など多数。近刊共著に『日本映画の国際進出』(仮題、森話社)。

佐々木友輔 新作上映[Epoch]

 

22日(日)の回は定員に達しましたため、
受付を終了させていただきました。

当日券扱いにて、作品をご覧いただくことは可能ですが、
ご予約の方を優先でお通ししますので、
少々見づらい(3D効果が得づらい)座席に
なってしまうかもしれないことをご了承ください。
上映の5分前(18:55)から受付・ご入場いただけます。

なお、21日(土)の回はまだご予約を受け付けております。

 

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『落ちた影/Drop Shadow』

 

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『And the Hollow Ship Sails On』

 

佐々木友輔 新作上映[Epoch]

 

日時:2015年11月21日(土)、22日(日)※22日は受付終了

   開場18:30、上映19:00(20:10終了予定)

料金:1500円(定員25名、要予約)

会場:新宿眼科画廊(東京都新宿区新宿5-18-11)

上映作品:『落ちた影/Drop Shadow』(アナグリフ3D)

     『And the Hollow Ship Sails On』(2D)

お問い合わせ:qspds996.info(at)gmail.com

予約方法:(1)お名前(2)人数(3)希望日 以上の要項を明記の上、件名を「予約/佐々木友輔 新作上映」として qspds996.info(at)gmail.com までメールでお申し込み下さい。

 

アナグリフ3Dによって得られる立体感には個人差があります。強い眼の疲労や気分が悪くなるなどの症状が出た場合は視聴をお控えください。観賞は自己責任でお願いします。6歳以下のお子様はご覧いただけません。

 

 



『落ちた影/Drop Shadow』

アナグリフ3D 約30分 2015年

出演/菊地裕貴、永田希、小林千花 音楽/田中文久 協力/門眞妙

2015年。正体不明のウィルスによる死亡事件が相次ぐ中、孤独に生きる男・渡利雅はニュースサイトでかつての恋人・乃亜の名を目にする。乃亜の結婚相手である真瀬利治がウィルス事件の容疑者として指名手配され、その火の粉が彼女にも降り掛かっていたのだ。渡利は事の真相を知るべく、真瀬利治に関する情報を調べ始めるが……。アナグリフ方式による3D上映に加え、全編がパソコン&スマートフォンの画面上で進行するデスクトップ・ノワール

 

 

『And the Hollow Ship Sails On』

2D 約30分 2015年

朗読/菊地裕貴 音楽/田中文久 協力/佐々木つばさ

19世紀、21世紀、そして23世紀、茨城の原舎浜を三たび訪れたまるい舟。中には黒い箱を抱えた女がひとり微笑んでいた。人びとは彼女を出迎え、その歌声に魅了されるが、やがて疑いを抱きこの国から追放してしまう。彼女を慕う少数の者たちは、再びうつろ舟がやって来る日を待つのだった。江戸時代に曲亭馬琴らが広めた伝説「虚舟」(うつろぶね)をモチーフに、三つの時代、三つの記録メディアのかさね合わせにより描く、新たな風景映画。

 

ビジュアル・コミュニケーション——動画時代の文化批評

 

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

 

 

限界研の新刊『ビジュアル・コミュニケーション——動画時代の文化批評』に寄稿しました。「三脚とは何だったのか——映画・映像入門書の二〇世紀」と題し、戦前から現代までの映画・映像制作入門書の分析を通じて「三脚」に設置されたカメラを前提とする映画史とは異なる歴史の記述を試みています。こちらのサイトでは序文が試し読みできるようです。

 

また、書籍の刊行に合わせて執筆陣でおこなった座談会が「Yahoo!ニュース個人」の飯田一史さんのページで公開されました。私もあれやこれやと話しています。

 

(1)映像はいかに変わったか――ポストメディア化と「ハリウッド的」なるものの変容

(2)認知科学や神経科学的知見の映像研究への応用について

(3)「中間映画」的領域をいかに再興するか

(4)機械と人間のインタラクションをいかに利用し、映像/視覚文化に偶発性と新奇性を取り込むか

(5)映像/視覚文化におけるアクセス可能なアーカイヴと体験性の相補関係

(6)「ながらメディア」としての長尺映像に適応していく身体

(7)親がネットに写真をアップしまくる時代に子どものアイデンティティはどうなるか

(8)視覚文化研究の現在と、映像批評の受容/需要

なぜ「私」が撮るのか 髙橋耕平作品《HARADA-san》上映&トーク

 

「なぜ「私」が撮るのか」 髙橋耕平作品《HARADA-san》上映&トークに参加します。初引込線です。

 

hikikomisen.com

 

なぜ「私」が撮るのか

初老のアートウォッチャーを題材にしたドキュメンタリー映像と年表からなる、髙橋耕平の作品《HARADA-san》を上映。 その後、作者とゲストが“なぜ「私」が撮るのか”をテーマに議論する。

 

企画:櫻井拓
メンバー:川村麻純、佐々木友輔、髙橋耕平
日時:9月13日(日)11:00~13:30

 

川村麻純 KAWAMURA Masumi
2012年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修士課程修了。主な展覧会に、「展覧会ドラフト2015PARASOPHIA特別連帯プログラム 川村麻純『鳥の歌』」(京都芸術センター、京都、2015年)、「第7回シセイドウアートエッグ展『川村麻純 Mirror Portraits』」(資生堂ギャラリー、東京、2013年)、「Mirror Portraits」(LIXILギャラリー、東京、2012年)、グループ展「8人の女たち」(クリエイションギャラリーG8、東京、2015年)など。平成27年度新進芸術家海外研修制度(長期)で、2016年春よりNYへ1年滞在予定。

 

佐々木友輔 SASAKI Yusuke
1985年神戸生まれ。映像作家、企画者。東京藝術大学大学院美術研究科博士課程修了。近年の上映・展示に「反戦 来るべき戦争に抗うために」(SNOW Contemporary、東京、2014年)、「第7回恵比寿映像祭」(恵比寿ガーデンプレイス、東京、2015年)、編著に『土瀝青――場所が揺らす映画』(トポフィル、2014年)、論考に「二種類の幽霊、二種類の霊媒――揺動メディアとしての映画論」(『ART CRITIQUE n. 04』所収、BLUE ART、2014年)など。

 

髙橋耕平 TAKAHASHI Kohei
1977年 京都府生まれ。京都精華大学大学院芸術研究科修士課程修了。 近年の展覧会に「PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭 特別連携プログラム『still moving』」(元崇仁小学校、京都、2015年)、「ほんとの うえの ツクリゴト」(旧本多忠次邸、愛知、2015 年)、「imitator 2」(MART、ダブリン/アイルランド、2014年)、「作家ドラフト2014 高橋耕平『史と詩と私と』」(京都芸術センターギャラリー南、京都、2014年)、「高橋耕平 個展『HARADA-san』」 (Gallery PARC、京都、2013年)など。

映画にとってインターネットとは何か(9) 検索編・補遺

 

 インターネットを扱った映画の分類

 第1回から8回までの考察をもとにして、以下のようにインターネットを扱った映画の「型」を便宜的に分類・整理してみた。今回はこれを踏まえて、まだ紹介できていないいくつかの型を補足的に取り上げることにしよう。

 

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 03 出会い系ドラマ > 悩み相談系

 インターネットを通じた出会いのドラマを描くフィルムは、大別すると、物語の序盤に出会いが訪れるもの(導入系)と、第7回で取り上げたように、出会いを終盤まで引き延ばしたり、最後まで出会えない人びとを描くもの(すれ違い系)があるが、そこにもうひとつ、〈悩み相談系〉とでも言うべき項目を加えておきたい。

 実のところ〈悩み相談系〉に該当する作品はごく僅かであり、とてもひとつのジャンルを形成しているとは言いがたいのだが、わたしが具体的に想定しているのは『電車男』(村上正典、2005年)と『痴漢男』(寺内幸太郎、2005年)の二作である。どちらも匿名掲示板「2ちゃんねる」への書き込みがもとになったフィルムで、映画のみならず、同名の書籍やテレビドラマ、ラジオドラマや漫画など数々の派生作品がつくられている。

 


映画『電車男』 予告篇 - YouTube

 

 『電車男』では、冴えないオタクの男性が電車内で酔っぱらいに絡まれていた女性を救い、お礼としてエルメスのティーカップをプレゼントされる。しかし彼はそれにどう対応して良いか分からず、インターネットの匿名掲示板(「2ちゃんねる」ではなく、架空のサイトに変更されている)に助けを求める。そこで、この話に興味を持ったスレッドの住人たちは、男のことを「電車男」、彼が電車内で知り合った女を「エルメス」と呼び、真面目なアドバイスや冷やかしを交えながら、二人の恋を後押しするのだ。

 本作は、(1)電車男がその日起きた出来事や事件をスレッドに報告し、(2)次にとるべき行動を相談、(3)スレッドの住人がアドバイスやツッコミを入れ、(4)それを踏まえて電車男が行動する、という流れを反復しながら物語が進行していく。スレッドの住人それぞれの素顔や日常生活が描写されることもあるが、原則として彼らが電車男エルメスの関係に直接介入することはない。電車男だけが現実空間と情報空間を結びつける接点となっているのだ。そのため本作におけるインターネットは、漫画などにしばしば見られる「天使と悪魔が論争する」描写を思わせるような、電車男のプライヴェートな心の内を覗ける場所として描かれることになるだろう。その結果、原作となった2ちゃんねるのスレッドには存在した、誰でもアクセスが可能であるが故に当事者にも読まれ得るという危険性や緊張感は、やんわりと覆い隠されている。

 

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痴漢男 [DVD]

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 04 伝記ドラマ

 第1回で取り上げた『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー、2010年)はFacebookの創始者マーク・ザッカーバーグの半生を描いたフィルムであったが、これ以外にもIT業界の先駆者たちの伝記映画は数多くつくられている。

 例えば1999年には、アップルのスティーヴ・ジョブズマイクロソフトビル・ゲイツの確執をフィクションのドラマとして描いた『バトル・オブ・シリコンバレー』(マ-ティン・バ-ク)がテレビ放映され、2013年には、ジョブズ公認の評伝『スティーブ・ジョブズ』(原題「Steve Jobs: The Exclusive Biography」、ウォルター・アイザクソン、2011年)に基づいた伝記映画『スティーブ・ジョブズ』(ジョシュア・マイケル・スターン)が公開されている。両作共に、自宅ガレージでのアップル社創業、ペプシコーラ事業担当社長の引き抜き、リドリー・スコットによるCM「1984」公開といった「伝説的」エピソードが作中に散りばめられており、その描かれ方の違いを比べてみるのも一興であろう。他にも、フェイクの予告編から発展して長編映画した『iSteve』(ライアン・ペレス、2013年)が無料でウェブ公開されたり、2015年にダニー・ボイルによる新たなジョブズの伝記映画の公開が予定されていたりと、ジョブズの破天荒な人生は現在も格好の題材となり続けている。

 

 

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 1999年にジョー・チャペルが制作した『ザ・ハッカー』は、ハッカー(クラッカー)のケビン・ミトニック逮捕に貢献したコンピュータ・セキュリティ専門家・下村努の活躍を描いたノンフィクション『テイクダウン――若き天才日本人学者vs超大物ハッカー』(下村努、ジョン・マーコフ共著、1996年)を原作とする。一応実際に起きた出来事に基づいているとは言え、『サイバーネット』を思わせる派手な視覚効果やいかにもサスペンス映画といった趣の物語展開が取り入れられており、原作を知らなければ決して伝記映画とは気づかないだろう。

 

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 2010年には、ネット支払い処理会社PaycomやePassportの事業を興した企業家クリストファー・マリックの経験にもとづいて脚本が書かれたコメディ・サスペンス『ミドルメン/アダルト業界でネットを変えた男たち』(ジョージ・ギャロ)が公開された。そのタイトルが示すとおり、アップルやマイクロソフトの華やかな伝説と比べると語られることの少ない、インターネット黎明期のアダルト業界の暗部が描かれているが、プロデューサーとして自ら製作に携わったマリックがePassportの顧客から盗んだ金を制作資金にしたことで批難を浴びるという、皮肉な運命を辿ることになったフィルムである。

 

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 ザッカーバーグにせよジョブズにせよ、彼らが見せる独特な身振りや語り口はIT業界の象徴となっており、時として、パソコン画面やインターネット利用の様子を直接見せることよりも遥かに雄弁にその時代におけるインターネットのイメージを喚起させる。それ故、『ソーシャル・ネットワーク』でザッカーバーグを演じたジェシー・アイゼンバーグや『スティーブ・ジョブズ』でジョブズを演じたアシュトン・ カッチャーにも、一個人の生き様の解釈や再現という域を超えて、ある種の「時代精神」を体現した身振りや語り口が求められることになるだろう。伝記映画および自伝・評伝にもとづいたドラマに限らず、『サベイランス―監視―』(ピーター・ハウイット、2001年)や『マンモス――世界最大のSNSを創った男』(ラーシュ・ヨンソン、2011年)などのフィクション映画にも、ジョブズなどIT業界人を思わせる身振りや語り口の人物たちが登場する。そうした描写からは、正しいか間違っているかはともかくとして、IT業界やインターネットの世界について映画制作者たちが抱く(紋切り型の)イメージの一端を読み取ることができるだろう。

 

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 06 隠喩としてのインターネット

 第3回で取り上げた『アバター』(ジェームズ・キャメロン、2009年)や「マトリックス」三部作(ラリー(ラナ)&アンディ・ウォシャウスキー、1999〜2003年)のように、作中の世界観を、インターネットのありよう(『アバター』なら「セカンドライフ」的な3D仮想世界)の隠喩としてつくりあげたフィルムも存在する。ただし本論では、具体的なインターネット利用の描写がある映画を主な考察対象としているため、これらの作品群について深く踏み込むことはしない。

 

 

 

 また、インターネットを隠喩的に描くと言っても、どこまでをそれに該当するものと看做すかは難しい問題である。例えば押井守による初の実写映画『アヴァロン』(2001年)は近未来のオンラインゲームを描いたフィルムであるが、これを「映画とインターネット」の関係性において捉えることははたして適切だろうか。ARPANETを前身とする狭義の「インターネット」という語の意味を超えて、コンピュータを利用したネットワーク全般を考察対象とするならば、取り扱うべき作品の数は跳ね上がり、その意味も拡散してしまうだろう。『アヴァロン』に関しても、『バイオハザード』(ポール・W・S・アンダーソン、2002年)『オブリビオン』(ジョセフ・コシンスキー、2013年)などと共に「デジタル・ゲーム」の文脈から見るべきかもしれないし、『トロン』(スティーブン・リズバーガー、1982年)や『ヴァーチャル・ウォーズ』(ブレッド・レナード、1992年)などと共に「ヴァーチャル・リアリティ(VR)」の文脈で見たほうが良いのかもしれないが、いずれにせよ、本作をインターネットと関連づけて論じる必要はそれほどないと思われる。

 

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 07 インターネット連動型映画

 これも本論の趣旨とは少々ずれるが、広報活動や製作過程にインターネットが深く関わり合っている映画についても触れておこう。もしかすると「映画とインターネット」と聞いて、大多数の人びとが真っ先に想像するのはこれらの作品群かもしれない。

 テレビ番組やインターネットを利用した広報戦略で成功を収めた『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス、1999年)を先駆けとして、2000年代以降の映画はしばしば本編と連動したウェブサイトやアカウントを開設してきた。例えば本編の内容と関連する海中油田事故を報じた架空のニュース番組YouTubeにアップして話題となった『クローバーフィールド/HAKAISHA』(マット・リーヴス、2008年)や、試写会で観賞中のツイートまでも推奨して口コミ(?)による宣伝効果を狙った『SUPER8/スーパーエイト』(J・J・エイブラムス、2011年)、近年では架空のテーマパークの公式ウェブサイトを立ち上げた『ジュラシック・ワールド』(コリン・トレボロウ、2015年)などが挙げられる。

 

ブレア・ウィッチ・プロジェクト <HDニューマスター版> Blu-ray

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 映画の製作過程にインターネットを組み込んだフィルムの先駆けは、岩井俊二が2001年に制作した『リリイ・シュシュのすべて』だろう。岩井はインターネット上に誰でも投稿可能な掲示板「Lilyholic」を立ち上げ、他の参加者たちに混ざってパスカルというハンドルネームで『リリイ・シュシュのすべて』の原型となる物語を書き込んでいく。完成したフィルムにはその掲示板に書き込まれた有象無象の言葉がテロップで表示され、実写で撮られたフィクションの世界と文字で書かれたノンフィクションの世界がかさなり合うような、奇妙な映画体験が生み出されることになった。

 

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 2011年にケヴィン・マクドナルドが制作した『LIFE IN A DAY 地球上のある一日の物語』も記憶に新しい。本作は、「2010年7月24日に撮られた映像」という括りで世界各国から公募で集められた8万本・計4500時間もの映像を約95分の長編映画にまとめたもので、現在もYouTubeで全編を観ることができる。また本作から派生した企画として、東日本大震災から一年後の2012年3月11日に撮られた映像を公募・編集した『JAPAN IN A DAY ジャパン イン ア デイ』(フィリップ・マーティン、成田岳)も2012年に公開されている。

 


Life In A Day - YouTube

 

 その他、直接的に作品内容に関わるわけではないが、クラウドファンディングによって資金を集めた映画も多くつくられている。当然のことながら、どんな企画に対しても満足のいく支援がおこなわれるわけではなく、人びとの趣味・趣向、またインターネットという場所独特の価値観に適合した企画を立てる必要があるし、資金調達後も出資者たちの期待に沿うことが求められたり、事前に確約した特典(メールマガジンや関連商品・上映チケットなど)を用意する必要があるなど、クラウドファンディング特有の苦労があるようだ。そうした事柄は、良くも悪くも、完成する映画の内容や出来にも無視できない影響を与えているだろう。

 

 

 ……さて、まだまだ論じることのできていない作品や論点は多々残っていますが、元よりすべてを網羅することはできません。そんなわけで、ひとまずここでひと区切りとして、本連載の第一部「検索編」を終えることにします。少し間を置いて、次回からはより詳細な表現技法や問題点に踏み込んだ「解析編」を始めるつもりで準備を進めていますので、どうぞご期待ください。ここまでおつき合いいただいた読者のみなさま、ありがとうございました。

誰もが映画監督(映像作家)になり得る時代

 

 まったく新しい時代の始まりだ。

 わたしたちはいま、誰もが映画監督になり得る世界に生きているのだ――。

 

 このような希望に満ちた言葉が唱えられるようになったのは、一体いつ頃からだろう。つい最近のことのように思う者もいるかもしれないが、実はその歴史は長い。1920年代にはすでに、一般家庭用の映写機・カメラ・フィルムが開発され(小型映画)、人びとを魅了していた。それを手にすることができたのはまだ富裕層中心だったとはいえ、事実上、誰もが映画監督になり得る世界はこの時すでに実現していたのだ。

 

 映像文化史家の松本夏樹氏が所有する大正時代のフィルムには、実写映画の画面上に子どもが一コマ一コマ絵を描き、ちょっとした手描きアニメーションを実現させたものがある(第40回イメージライブラリー映像講座「幻燈及活動寫眞大上映會-日本Animeのルーツを体験する-」、2012年)。これなど、あえて今風の言葉を使うならまさにMAD動画の先駆けであると言えるだろう。

 

 もちろんその後も、ビデオの普及やデジタル化、インディーズ映画や学生映画の流行、インターネットによる動画配信サービスの登場など、新たな映像メディアやプラットフォームが現れるたびに、誰もが映画監督(映像作家)になり得るという主張は――時には映画のデモクラシーという夢の実現のために、時には商品を売るための宣伝のために――繰り返されてきた。それは昨日・今日に言われ始めたことではなく、20世紀初頭から現在まで、映画の歴史と並走してきた言葉なのだ。

 

 とは言えそこから短絡して、巷で喧伝される「新しさ」など過去への無知でしかないのだと断定してしまうこともまた、別の意味で愚かな振る舞いであるだろう。新たな映像メディアやプラットフォームの登場・普及のサイクルは、決して同じことの繰り返しではなく、その都度映画のありかたに質的な違いを生み出してきたはずである。そうした変化を無視して、「新しさ」をはなから認めない態度をとることは――物語や主題を読み解くにせよ、画面の運動のみに注目するにせよ、「映画」とは何かを問うにせよ――変化を変化と気づくこともできない、己の見る目のなさを告白することと同義なのだ。

映画にとってインターネットとは何か(8) (SNSへの)無知がもたらす予期せぬ奇跡

 

 フェイクドキュメンタリーとSNS――『クロニクル』

 これまで、フェイクドキュメンタリーに対する最大のツッコミ所は、「なぜ危険を冒してまでカメラを回し続けるのか?」ということだった。もちろんそこで撮影を止めてしまえば映画にならないのだが、戦場カメラマンならいざ知らず、ふざけて心霊スポットにやってくるような軽薄な学生たちが死の直前までカメラを回し続けるというのは、どうしても不自然で、ご都合主義的に見えてしまう。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス、1999年)の非常時にも撮影を続ける女を仲間たちが批難するシーンや、『REC/レック』(ジャウマ・バラゲロ、パコ・プラサ、2007年)の「何があっても撮り続けて」という自己言及的な台詞からも、制作者たちの苦心の跡が見て取れるだろう。

 

ブレア・ウィッチ・プロジェクト <HDニューマスター版> Blu-ray

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REC/レック [Blu-ray]

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 けれども今や、この問題は過去のものになりつつある。2010年代に入り、「なぜ危険を冒してまでカメラを回し続けるのか?」という疑問に縛られない開放感を持ったフェイクドキュメンタリーが目立ち始めたのだ。フェイクドキュメンタリーという表現自体が慣習化・一般化し、危険を冒してカメラを回し続ける行為がひとつの様式として受け入れられるようになったことも一因としてあるだろうが、それに加えて、YouTubeやVimeoなど動画共有サービスの普及がこの変化に深く関わっていることは間違いない。日々投稿され、SNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)やバイラルメディアを通じて拡散を続ける膨大な動画群を見る経験によって、わたしたちは、「危険を冒してまでカメラを回し続ける」行為がそれほど特殊なものでないことを知り、また、そうした撮影によって得られる映像がどのようなものかを知ることになった。映像のリアリティ(本当らしさ)の基準や、映画世界への没入の条件が、いつしか書き換えられているのだ。

 例えば2012年にジョシュ・トランクが制作した『クロニクル』。超能力を得た若者たちがその力を利用した悪戯の様子をビデオカメラで記録し続けることに、2010年代の観客はとりたてて疑問を抱かないだろう。日本ではバイトテロやバカッターと呼ばれているが、アメリカでも、コンビニやファーストフード店の店員が商品に悪戯する様子を撮影してアップしたり、犯罪行為の報告を喜々としてSNSに投稿したりする事件が相次いでいる(「ツイッターのつぶやきが原因でクビになったアメリカの10人」、カラパイア)。従って、もしも「超能力」が現実に使えるようになれば、それを撮影して見せびらかす者が出てくることは容易に想像ができるし、ジョシュ・トランクもそうした状況を踏まえて映画制作をおこなっている。現代の観客がバイトテロやバカッター的な動画を見た記憶に働きかけるカメラワークや演出を用いることで、「なぜ危険を冒してまでカメラを回し続けるのか?」といった疑問をショートカットして、すぐさま物語世界に没入できる仕組みを取り入れているのだ。

 


映画「クロニクル」予告編 - YouTube

 

 

 常時接続――『イントゥ・ザ・ストーム』

 『クロニクル』と同じく、動画共有サービスとSNSの普及以後を代表するフェイクドキュメンタリーとして『イントゥ・ザ・ストーム』(スティーヴン・クォーレ、2014年)を挙げることができる。田舎町を襲った巨大な竜巻を前にした人びとのドラマを描いた本作において、もっとも無謀で馬鹿げた行動をしながら、ある意味ではもっとも「現実にこういう人いそう」というリアリティを持っているのが、動画の再生回数を稼ぎたいがために竜巻に突っ込んでいくユーチューバー、ドンクとリービスの二人組である。

 


映画『イントゥ・ザ・ストーム』予告編 - YouTube

 

 竜巻に魅せられて各地で撮影を続けるドキュメンタリー制作者のピートや、竜巻の進行ルート上に取り残された息子を助け出そうとする父親のゲイリーといった他の主要な登場人物と較べて、ドンクとリービスは明らかに「場違い」な存在だ。危険なのは分かっているはずなのに大した装備もなく出かけて行き、竜巻が間近に迫ってもまったく緊張感を持たない。常に状況とずれた振る舞いを続けるのである。

 研究者の和田伸一郎は『存在論的メディア論――ハイデガーヴィリリオ』(新曜社、2004年)において、携帯電話で通話をする際に、目の前にはいない通話相手にお辞儀をしたり身振り手振りを交えて話をしてしまう経験について分析をおこなっている。和田によれば、「ここ」にはいない通話相手との対話に没入するためには、自分自身が「ここ」にいるという意識を麻痺させ、忘却しなければならない。そしてこの時、「ここ」にはいない通話相手と対話する精神としての身体=〈仮想的身体〉と、どうしても「ここ」に残されてしまう肉の塊としての身体=〈生身の身体〉の分裂が起こる。あの場違いなお辞儀は、「ここ」にはいない〈仮想的身体〉がおこなったお辞儀が、ただの肉の塊である〈生身の身体〉を通じて「ここ」に幽霊的に現れたものだというのだ。

 

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

 

 

 ドンクとリービスは竜巻映像のリアルタイム配信をおこなっているわけではなく、GoProなどで撮影した映像を事後的に編集・公開することを目指している。けれども彼らは、数多くのネットユーザーによって「見られること」を内面化しており、常にYouTubeで公開された自分たちの姿を意識しながら行動している。要するに、たとえオフラインの時であっても彼らの〈仮想的身体〉はインターネットと常時接続しており、「ここ」ではないどこかでネットユーザーたちとのコミュニケーションがおこなわれているのだ。従って、彼らが巨大竜巻を恐れる様子を見せないのは「勇敢だから」ではない。竜巻が間近に迫る「ここ」に彼らの〈仮想的身体〉はなく、肉の塊である〈生身の身体〉だけが取り残された結果があの場違いな振る舞いなのだ。

 

 

 SNSへの無知――『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

 ドンクとリービスのように、ネットユーザーに「見られること」への意識が場違いな行動を誘発してしまうのは決して珍しいことではない。例えば『ゴーン・ガール』(デヴィッド・フィンチャー、2014年)において、妻の失踪という深刻な問題を抱えたニックは、捜索に協力するボランティアの女性にツーショット写真を求められ、カメラを向けられると反射的にベタな笑顔をつくってしまう。結果、その写真はFacebookにアップされて拡散し、案の定、不謹慎な男だとして「炎上」してしまうのだ。このことはもちろんニックのネットリテラシー不足が原因であるのだが、一方で、彼がSNSに関する知識をまったく持っていなければ起こり得なかった事態でもある。「Facebookに掲載される写真にはこのような表情で写るべき」という暗黙の規範をニックが内面化していたことが、炎上という事態を招いたのだ。

 

 

 このように、SNSが人びとの世界の見方や行動を一律に変えるのではなく、それへのコミットの度合いによってまったく異なる景色を見せることに注目し、それを巧みに利用した物語をつくりあげたのが、メキシコの映画作家アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥである。

 


映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』日本版予告編 - YouTube

 

 イニャリトゥが2014年に制作した『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』では、SNSについて何の知識も持たない劇作家のリーガンに対して、彼の娘であり付き人でもあるサムがSNSの重要性を伝えようとする。かつてはヒーロー映画の主演をつとめて世界的な名声を得ながらも現在は忘れられた人となり、ブロードウェイの舞台演出で起死回生を計るリーガンにとって、公演の話題づくりや自身の名声を高める可能性を持ったSNSを利用することは大きなメリットとなるはずである。しかし彼は、一向に娘の言葉に耳を貸さない。業界で大きな影響力を持つ批評家や新聞の劇評、実際に公演に訪れる観客の目は気にしても、SNSにはまったく関心を持とうとしないのだ。

 ところが皮肉なことに、そうした無関心と無知こそが思わぬ奇跡をもたらすことになる。映画の終盤、リーガンは数々のトラブルや偶然が重なった結果ブロードウェイを下着一枚で歩くことになり、さらには思い余って舞台上で自殺未遂を起こしてしまうのだが、それがきっかけで彼は一躍有名人へと返り咲く。その強力な後押しをしたのが、他ならぬSNSであったのだ。

 リーガンの奇行を目の当たりにした人びとが撮影した写真や動画、目撃談は、瞬く間に世界中に拡散していく。元有名人が半裸で歩くとか、公開で自殺未遂をするというのは、明らかにインターネットやSNSでバズりやすい(爆発的に多くの人びとに拡散しやすい)ネタであるのだが、そうした行為がヤラセであったり、話題づくりであることがバレてしまった場合には、一転して負の「炎上」のネタとなる危険性が伴う(ネットユーザーは情報発信者の自意識におそろしく過敏である)。リーガンの行動がおおよそ肯定的・同情的な支持を得られたのは、この時代にあって彼がSNSに対してまったく無知であり、自分がそこでどのように見られるかということについてまったく無関心であったが故の奇跡なのだ。