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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

映画にとってインターネットとは何か(9) 検索編・補遺

 

 インターネットを扱った映画の分類

 第1回から8回までの考察をもとにして、以下のようにインターネットを扱った映画の「型」を便宜的に分類・整理してみた。今回はこれを踏まえて、まだ紹介できていないいくつかの型を補足的に取り上げることにしよう。

 

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 03 出会い系ドラマ > 悩み相談系

 インターネットを通じた出会いのドラマを描くフィルムは、大別すると、物語の序盤に出会いが訪れるもの(導入系)と、第7回で取り上げたように、出会いを終盤まで引き延ばしたり、最後まで出会えない人びとを描くもの(すれ違い系)があるが、そこにもうひとつ、〈悩み相談系〉とでも言うべき項目を加えておきたい。

 実のところ〈悩み相談系〉に該当する作品はごく僅かであり、とてもひとつのジャンルを形成しているとは言いがたいのだが、わたしが具体的に想定しているのは『電車男』(村上正典、2005年)と『痴漢男』(寺内幸太郎、2005年)の二作である。どちらも匿名掲示板「2ちゃんねる」への書き込みがもとになったフィルムで、映画のみならず、同名の書籍やテレビドラマ、ラジオドラマや漫画など数々の派生作品がつくられている。

 


映画『電車男』 予告篇 - YouTube

 

 『電車男』では、冴えないオタクの男性が電車内で酔っぱらいに絡まれていた女性を救い、お礼としてエルメスのティーカップをプレゼントされる。しかし彼はそれにどう対応して良いか分からず、インターネットの匿名掲示板(「2ちゃんねる」ではなく、架空のサイトに変更されている)に助けを求める。そこで、この話に興味を持ったスレッドの住人たちは、男のことを「電車男」、彼が電車内で知り合った女を「エルメス」と呼び、真面目なアドバイスや冷やかしを交えながら、二人の恋を後押しするのだ。

 本作は、(1)電車男がその日起きた出来事や事件をスレッドに報告し、(2)次にとるべき行動を相談、(3)スレッドの住人がアドバイスやツッコミを入れ、(4)それを踏まえて電車男が行動する、という流れを反復しながら物語が進行していく。スレッドの住人それぞれの素顔や日常生活が描写されることもあるが、原則として彼らが電車男エルメスの関係に直接介入することはない。電車男だけが現実空間と情報空間を結びつける接点となっているのだ。そのため本作におけるインターネットは、漫画などにしばしば見られる「天使と悪魔が論争する」描写を思わせるような、電車男のプライヴェートな心の内を覗ける場所として描かれることになるだろう。その結果、原作となった2ちゃんねるのスレッドには存在した、誰でもアクセスが可能であるが故に当事者にも読まれ得るという危険性や緊張感は、やんわりと覆い隠されている。

 

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 04 伝記ドラマ

 第1回で取り上げた『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー、2010年)はFacebookの創始者マーク・ザッカーバーグの半生を描いたフィルムであったが、これ以外にもIT業界の先駆者たちの伝記映画は数多くつくられている。

 例えば1999年には、アップルのスティーヴ・ジョブズマイクロソフトビル・ゲイツの確執をフィクションのドラマとして描いた『バトル・オブ・シリコンバレー』(マ-ティン・バ-ク)がテレビ放映され、2013年には、ジョブズ公認の評伝『スティーブ・ジョブズ』(原題「Steve Jobs: The Exclusive Biography」、ウォルター・アイザクソン、2011年)に基づいた伝記映画『スティーブ・ジョブズ』(ジョシュア・マイケル・スターン)が公開されている。両作共に、自宅ガレージでのアップル社創業、ペプシコーラ事業担当社長の引き抜き、リドリー・スコットによるCM「1984」公開といった「伝説的」エピソードが作中に散りばめられており、その描かれ方の違いを比べてみるのも一興であろう。他にも、フェイクの予告編から発展して長編映画した『iSteve』(ライアン・ペレス、2013年)が無料でウェブ公開されたり、2015年にダニー・ボイルによる新たなジョブズの伝記映画の公開が予定されていたりと、ジョブズの破天荒な人生は現在も格好の題材となり続けている。

 

 

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 1999年にジョー・チャペルが制作した『ザ・ハッカー』は、ハッカー(クラッカー)のケビン・ミトニック逮捕に貢献したコンピュータ・セキュリティ専門家・下村努の活躍を描いたノンフィクション『テイクダウン――若き天才日本人学者vs超大物ハッカー』(下村努、ジョン・マーコフ共著、1996年)を原作とする。一応実際に起きた出来事に基づいているとは言え、『サイバーネット』を思わせる派手な視覚効果やいかにもサスペンス映画といった趣の物語展開が取り入れられており、原作を知らなければ決して伝記映画とは気づかないだろう。

 

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 2010年には、ネット支払い処理会社PaycomやePassportの事業を興した企業家クリストファー・マリックの経験にもとづいて脚本が書かれたコメディ・サスペンス『ミドルメン/アダルト業界でネットを変えた男たち』(ジョージ・ギャロ)が公開された。そのタイトルが示すとおり、アップルやマイクロソフトの華やかな伝説と比べると語られることの少ない、インターネット黎明期のアダルト業界の暗部が描かれているが、プロデューサーとして自ら製作に携わったマリックがePassportの顧客から盗んだ金を制作資金にしたことで批難を浴びるという、皮肉な運命を辿ることになったフィルムである。

 

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 ザッカーバーグにせよジョブズにせよ、彼らが見せる独特な身振りや語り口はIT業界の象徴となっており、時として、パソコン画面やインターネット利用の様子を直接見せることよりも遥かに雄弁にその時代におけるインターネットのイメージを喚起させる。それ故、『ソーシャル・ネットワーク』でザッカーバーグを演じたジェシー・アイゼンバーグや『スティーブ・ジョブズ』でジョブズを演じたアシュトン・ カッチャーにも、一個人の生き様の解釈や再現という域を超えて、ある種の「時代精神」を体現した身振りや語り口が求められることになるだろう。伝記映画および自伝・評伝にもとづいたドラマに限らず、『サベイランス―監視―』(ピーター・ハウイット、2001年)や『マンモス――世界最大のSNSを創った男』(ラーシュ・ヨンソン、2011年)などのフィクション映画にも、ジョブズなどIT業界人を思わせる身振りや語り口の人物たちが登場する。そうした描写からは、正しいか間違っているかはともかくとして、IT業界やインターネットの世界について映画制作者たちが抱く(紋切り型の)イメージの一端を読み取ることができるだろう。

 

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 06 隠喩としてのインターネット

 第3回で取り上げた『アバター』(ジェームズ・キャメロン、2009年)や「マトリックス」三部作(ラリー(ラナ)&アンディ・ウォシャウスキー、1999〜2003年)のように、作中の世界観を、インターネットのありよう(『アバター』なら「セカンドライフ」的な3D仮想世界)の隠喩としてつくりあげたフィルムも存在する。ただし本論では、具体的なインターネット利用の描写がある映画を主な考察対象としているため、これらの作品群について深く踏み込むことはしない。

 

 

 

 また、インターネットを隠喩的に描くと言っても、どこまでをそれに該当するものと看做すかは難しい問題である。例えば押井守による初の実写映画『アヴァロン』(2001年)は近未来のオンラインゲームを描いたフィルムであるが、これを「映画とインターネット」の関係性において捉えることははたして適切だろうか。ARPANETを前身とする狭義の「インターネット」という語の意味を超えて、コンピュータを利用したネットワーク全般を考察対象とするならば、取り扱うべき作品の数は跳ね上がり、その意味も拡散してしまうだろう。『アヴァロン』に関しても、『バイオハザード』(ポール・W・S・アンダーソン、2002年)『オブリビオン』(ジョセフ・コシンスキー、2013年)などと共に「デジタル・ゲーム」の文脈から見るべきかもしれないし、『トロン』(スティーブン・リズバーガー、1982年)や『ヴァーチャル・ウォーズ』(ブレッド・レナード、1992年)などと共に「ヴァーチャル・リアリティ(VR)」の文脈で見たほうが良いのかもしれないが、いずれにせよ、本作をインターネットと関連づけて論じる必要はそれほどないと思われる。

 

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 07 インターネット連動型映画

 これも本論の趣旨とは少々ずれるが、広報活動や製作過程にインターネットが深く関わり合っている映画についても触れておこう。もしかすると「映画とインターネット」と聞いて、大多数の人びとが真っ先に想像するのはこれらの作品群かもしれない。

 テレビ番組やインターネットを利用した広報戦略で成功を収めた『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス、1999年)を先駆けとして、2000年代以降の映画はしばしば本編と連動したウェブサイトやアカウントを開設してきた。例えば本編の内容と関連する海中油田事故を報じた架空のニュース番組YouTubeにアップして話題となった『クローバーフィールド/HAKAISHA』(マット・リーヴス、2008年)や、試写会で観賞中のツイートまでも推奨して口コミ(?)による宣伝効果を狙った『SUPER8/スーパーエイト』(J・J・エイブラムス、2011年)、近年では架空のテーマパークの公式ウェブサイトを立ち上げた『ジュラシック・ワールド』(コリン・トレボロウ、2015年)などが挙げられる。

 

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 映画の製作過程にインターネットを組み込んだフィルムの先駆けは、岩井俊二が2001年に制作した『リリイ・シュシュのすべて』だろう。岩井はインターネット上に誰でも投稿可能な掲示板「Lilyholic」を立ち上げ、他の参加者たちに混ざってパスカルというハンドルネームで『リリイ・シュシュのすべて』の原型となる物語を書き込んでいく。完成したフィルムにはその掲示板に書き込まれた有象無象の言葉がテロップで表示され、実写で撮られたフィクションの世界と文字で書かれたノンフィクションの世界がかさなり合うような、奇妙な映画体験が生み出されることになった。

 

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 2011年にケヴィン・マクドナルドが制作した『LIFE IN A DAY 地球上のある一日の物語』も記憶に新しい。本作は、「2010年7月24日に撮られた映像」という括りで世界各国から公募で集められた8万本・計4500時間もの映像を約95分の長編映画にまとめたもので、現在もYouTubeで全編を観ることができる。また本作から派生した企画として、東日本大震災から一年後の2012年3月11日に撮られた映像を公募・編集した『JAPAN IN A DAY ジャパン イン ア デイ』(フィリップ・マーティン、成田岳)も2012年に公開されている。

 


Life In A Day - YouTube

 

 その他、直接的に作品内容に関わるわけではないが、クラウドファンディングによって資金を集めた映画も多くつくられている。当然のことながら、どんな企画に対しても満足のいく支援がおこなわれるわけではなく、人びとの趣味・趣向、またインターネットという場所独特の価値観に適合した企画を立てる必要があるし、資金調達後も出資者たちの期待に沿うことが求められたり、事前に確約した特典(メールマガジンや関連商品・上映チケットなど)を用意する必要があるなど、クラウドファンディング特有の苦労があるようだ。そうした事柄は、良くも悪くも、完成する映画の内容や出来にも無視できない影響を与えているだろう。

 

 

 ……さて、まだまだ論じることのできていない作品や論点は多々残っていますが、元よりすべてを網羅することはできません。そんなわけで、ひとまずここでひと区切りとして、本連載の第一部「検索編」を終えることにします。少し間を置いて、次回からはより詳細な表現技法や問題点に踏み込んだ「解析編」を始めるつもりで準備を進めていますので、どうぞご期待ください。ここまでおつき合いいただいた読者のみなさま、ありがとうございました。

誰もが映画監督(映像作家)になり得る時代

 

 まったく新しい時代の始まりだ。

 わたしたちはいま、誰もが映画監督になり得る世界に生きているのだ――。

 

 このような希望に満ちた言葉が唱えられるようになったのは、一体いつ頃からだろう。つい最近のことのように思う者もいるかもしれないが、実はその歴史は長い。1920年代にはすでに、一般家庭用の映写機・カメラ・フィルムが開発され(小型映画)、人びとを魅了していた。それを手にすることができたのはまだ富裕層中心だったとはいえ、事実上、誰もが映画監督になり得る世界はこの時すでに実現していたのだ。

 

 映像文化史家の松本夏樹氏が所有する大正時代のフィルムには、実写映画の画面上に子どもが一コマ一コマ絵を描き、ちょっとした手描きアニメーションを実現させたものがある(第40回イメージライブラリー映像講座「幻燈及活動寫眞大上映會-日本Animeのルーツを体験する-」、2012年)。これなど、あえて今風の言葉を使うならまさにMAD動画の先駆けであると言えるだろう。

 

 もちろんその後も、ビデオの普及やデジタル化、インディーズ映画や学生映画の流行、インターネットによる動画配信サービスの登場など、新たな映像メディアやプラットフォームが現れるたびに、誰もが映画監督(映像作家)になり得るという主張は――時には映画のデモクラシーという夢の実現のために、時には商品を売るための宣伝のために――繰り返されてきた。それは昨日・今日に言われ始めたことではなく、20世紀初頭から現在まで、映画の歴史と並走してきた言葉なのだ。

 

 とは言えそこから短絡して、巷で喧伝される「新しさ」など過去への無知でしかないのだと断定してしまうこともまた、別の意味で愚かな振る舞いであるだろう。新たな映像メディアやプラットフォームの登場・普及のサイクルは、決して同じことの繰り返しではなく、その都度映画のありかたに質的な違いを生み出してきたはずである。そうした変化を無視して、「新しさ」をはなから認めない態度をとることは――物語や主題を読み解くにせよ、画面の運動のみに注目するにせよ、「映画」とは何かを問うにせよ――変化を変化と気づくこともできない、己の見る目のなさを告白することと同義なのだ。

映画にとってインターネットとは何か(8) (SNSへの)無知がもたらす予期せぬ奇跡

 

 フェイクドキュメンタリーとSNS――『クロニクル』

 これまで、フェイクドキュメンタリーに対する最大のツッコミ所は、「なぜ危険を冒してまでカメラを回し続けるのか?」ということだった。もちろんそこで撮影を止めてしまえば映画にならないのだが、戦場カメラマンならいざ知らず、ふざけて心霊スポットにやってくるような軽薄な学生たちが死の直前までカメラを回し続けるというのは、どうしても不自然で、ご都合主義的に見えてしまう。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス、1999年)の非常時にも撮影を続ける女を仲間たちが批難するシーンや、『REC/レック』(ジャウマ・バラゲロ、パコ・プラサ、2007年)の「何があっても撮り続けて」という自己言及的な台詞からも、制作者たちの苦心の跡が見て取れるだろう。

 

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REC/レック [Blu-ray]

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 けれども今や、この問題は過去のものになりつつある。2010年代に入り、「なぜ危険を冒してまでカメラを回し続けるのか?」という疑問に縛られない開放感を持ったフェイクドキュメンタリーが目立ち始めたのだ。フェイクドキュメンタリーという表現自体が慣習化・一般化し、危険を冒してカメラを回し続ける行為がひとつの様式として受け入れられるようになったことも一因としてあるだろうが、それに加えて、YouTubeやVimeoなど動画共有サービスの普及がこの変化に深く関わっていることは間違いない。日々投稿され、SNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)やバイラルメディアを通じて拡散を続ける膨大な動画群を見る経験によって、わたしたちは、「危険を冒してまでカメラを回し続ける」行為がそれほど特殊なものでないことを知り、また、そうした撮影によって得られる映像がどのようなものかを知ることになった。映像のリアリティ(本当らしさ)の基準や、映画世界への没入の条件が、いつしか書き換えられているのだ。

 例えば2012年にジョシュ・トランクが制作した『クロニクル』。超能力を得た若者たちがその力を利用した悪戯の様子をビデオカメラで記録し続けることに、2010年代の観客はとりたてて疑問を抱かないだろう。日本ではバイトテロやバカッターと呼ばれているが、アメリカでも、コンビニやファーストフード店の店員が商品に悪戯する様子を撮影してアップしたり、犯罪行為の報告を喜々としてSNSに投稿したりする事件が相次いでいる(「ツイッターのつぶやきが原因でクビになったアメリカの10人」、カラパイア)。従って、もしも「超能力」が現実に使えるようになれば、それを撮影して見せびらかす者が出てくることは容易に想像ができるし、ジョシュ・トランクもそうした状況を踏まえて映画制作をおこなっている。現代の観客がバイトテロやバカッター的な動画を見た記憶に働きかけるカメラワークや演出を用いることで、「なぜ危険を冒してまでカメラを回し続けるのか?」といった疑問をショートカットして、すぐさま物語世界に没入できる仕組みを取り入れているのだ。

 


映画「クロニクル」予告編 - YouTube

 

 

 常時接続――『イントゥ・ザ・ストーム』

 『クロニクル』と同じく、動画共有サービスとSNSの普及以後を代表するフェイクドキュメンタリーとして『イントゥ・ザ・ストーム』(スティーヴン・クォーレ、2014年)を挙げることができる。田舎町を襲った巨大な竜巻を前にした人びとのドラマを描いた本作において、もっとも無謀で馬鹿げた行動をしながら、ある意味ではもっとも「現実にこういう人いそう」というリアリティを持っているのが、動画の再生回数を稼ぎたいがために竜巻に突っ込んでいくユーチューバー、ドンクとリービスの二人組である。

 


映画『イントゥ・ザ・ストーム』予告編 - YouTube

 

 竜巻に魅せられて各地で撮影を続けるドキュメンタリー制作者のピートや、竜巻の進行ルート上に取り残された息子を助け出そうとする父親のゲイリーといった他の主要な登場人物と較べて、ドンクとリービスは明らかに「場違い」な存在だ。危険なのは分かっているはずなのに大した装備もなく出かけて行き、竜巻が間近に迫ってもまったく緊張感を持たない。常に状況とずれた振る舞いを続けるのである。

 研究者の和田伸一郎は『存在論的メディア論――ハイデガーヴィリリオ』(新曜社、2004年)において、携帯電話で通話をする際に、目の前にはいない通話相手にお辞儀をしたり身振り手振りを交えて話をしてしまう経験について分析をおこなっている。和田によれば、「ここ」にはいない通話相手との対話に没入するためには、自分自身が「ここ」にいるという意識を麻痺させ、忘却しなければならない。そしてこの時、「ここ」にはいない通話相手と対話する精神としての身体=〈仮想的身体〉と、どうしても「ここ」に残されてしまう肉の塊としての身体=〈生身の身体〉の分裂が起こる。あの場違いなお辞儀は、「ここ」にはいない〈仮想的身体〉がおこなったお辞儀が、ただの肉の塊である〈生身の身体〉を通じて「ここ」に幽霊的に現れたものだというのだ。

 

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

 

 

 ドンクとリービスは竜巻映像のリアルタイム配信をおこなっているわけではなく、GoProなどで撮影した映像を事後的に編集・公開することを目指している。けれども彼らは、数多くのネットユーザーによって「見られること」を内面化しており、常にYouTubeで公開された自分たちの姿を意識しながら行動している。要するに、たとえオフラインの時であっても彼らの〈仮想的身体〉はインターネットと常時接続しており、「ここ」ではないどこかでネットユーザーたちとのコミュニケーションがおこなわれているのだ。従って、彼らが巨大竜巻を恐れる様子を見せないのは「勇敢だから」ではない。竜巻が間近に迫る「ここ」に彼らの〈仮想的身体〉はなく、肉の塊である〈生身の身体〉だけが取り残された結果があの場違いな振る舞いなのだ。

 

 

 SNSへの無知――『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

 ドンクとリービスのように、ネットユーザーに「見られること」への意識が場違いな行動を誘発してしまうのは決して珍しいことではない。例えば『ゴーン・ガール』(デヴィッド・フィンチャー、2014年)において、妻の失踪という深刻な問題を抱えたニックは、捜索に協力するボランティアの女性にツーショット写真を求められ、カメラを向けられると反射的にベタな笑顔をつくってしまう。結果、その写真はFacebookにアップされて拡散し、案の定、不謹慎な男だとして「炎上」してしまうのだ。このことはもちろんニックのネットリテラシー不足が原因であるのだが、一方で、彼がSNSに関する知識をまったく持っていなければ起こり得なかった事態でもある。「Facebookに掲載される写真にはこのような表情で写るべき」という暗黙の規範をニックが内面化していたことが、炎上という事態を招いたのだ。

 

 

 このように、SNSが人びとの世界の見方や行動を一律に変えるのではなく、それへのコミットの度合いによってまったく異なる景色を見せることに注目し、それを巧みに利用した物語をつくりあげたのが、メキシコの映画作家アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥである。

 


映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』日本版予告編 - YouTube

 

 イニャリトゥが2014年に制作した『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』では、SNSについて何の知識も持たない劇作家のリーガンに対して、彼の娘であり付き人でもあるサムがSNSの重要性を伝えようとする。かつてはヒーロー映画の主演をつとめて世界的な名声を得ながらも現在は忘れられた人となり、ブロードウェイの舞台演出で起死回生を計るリーガンにとって、公演の話題づくりや自身の名声を高める可能性を持ったSNSを利用することは大きなメリットとなるはずである。しかし彼は、一向に娘の言葉に耳を貸さない。業界で大きな影響力を持つ批評家や新聞の劇評、実際に公演に訪れる観客の目は気にしても、SNSにはまったく関心を持とうとしないのだ。

 ところが皮肉なことに、そうした無関心と無知こそが思わぬ奇跡をもたらすことになる。映画の終盤、リーガンは数々のトラブルや偶然が重なった結果ブロードウェイを下着一枚で歩くことになり、さらには思い余って舞台上で自殺未遂を起こしてしまうのだが、それがきっかけで彼は一躍有名人へと返り咲く。その強力な後押しをしたのが、他ならぬSNSであったのだ。

 リーガンの奇行を目の当たりにした人びとが撮影した写真や動画、目撃談は、瞬く間に世界中に拡散していく。元有名人が半裸で歩くとか、公開で自殺未遂をするというのは、明らかにインターネットやSNSでバズりやすい(爆発的に多くの人びとに拡散しやすい)ネタであるのだが、そうした行為がヤラセであったり、話題づくりであることがバレてしまった場合には、一転して負の「炎上」のネタとなる危険性が伴う(ネットユーザーは情報発信者の自意識におそろしく過敏である)。リーガンの行動がおおよそ肯定的・同情的な支持を得られたのは、この時代にあって彼がSNSに対してまったく無知であり、自分がそこでどのように見られるかということについてまったく無関心であったが故の奇跡なのだ。

 

 

映画にとってインターネットとは何か(7) 引き延ばされた出会い

 

 イ・ジェヨン『純愛譜』

 イ・ジェヨンが2001年に制作した『純愛譜』は、インターネットを通じて、国を超えて二人の男女が出会う物語だ。ただしその出会いは、映画のラストに訪れる。

 ソウルの役所で働くウインは、単調な日々の仕事に飽き飽きし、夜にインターネットでアダルトサイトを閲覧することだけが楽しみの男だ。彼は仕事の関係で知り合った赤髪の女性ミアに惹かれ、少々ストーカー気味に彼女につきまとうが、まったく相手にされないままその恋は潰えてしまう。同じ頃、東京に暮らす予備校生の彩は、「飛行機に乗って日付変更線の上を通過する時に自殺する」という計画を立て、その旅費を稼ぐために、リアルタイムで女性のプライベートを覗き見できるサイトに出演することを決意。素性を隠すために赤いカツラを被り、面接時に特徴的な靴を履いていたために「靴を履いた朝子」と名付けられる。その後、ミアに似た女性を求めて「靴を履いた朝子」のサイトに辿り着いたウインは、彼女と出会うためにサイトの発信地であるアラスカへ(この辺りの設定はかなり強引だ)。一方、旅費を得て飛行機に乗ったものの自殺することはできなかった朝子もアラスカに辿りつき、そこで二人は偶然の出会いを果たすのだ。

 


Korean Movie 영화 순애보(純愛譜) 예고편 HD.mp4 - YouTube

 

 映画の大半がウインと彩の出会い「以前」の物語である以上、恋愛ものの定番であるテンポの良い会話劇は出てこないし、二人の関係性の変化が深く掘り下げられることもない。基本的には、ウインが画面の向こうにいる朝子(彩)に一方的に想いを寄せているだけであり、彼が送ったファンメールにも彩が返事をすることはない。必然的に、作中に描かれるのは、ウインと彩それぞれの独立した日常生活である。そしてそれは、上述した短いあらすじからは漏れてしまうような些細な出来事の集積で成り立っている。すぐにサボり気味になるウインの仕事ぶりや、彩と周囲の人びととの他愛のないやりとりといった細部の描写の丁寧さが、テキストに起こしてみるとほとんど犯罪者としか思えないウインの行動や、彩が自殺願望を持つに至るまでの心理描写の不足といった物語の欠点を補い、この映画を魅力的なものにしているのだ。

 

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 引き延ばされた出会い

 『純愛譜』の物語構成は、サイバー犯罪を扱った映画や超常ホラーがインターネットを介した出会いや事件を序盤に置くのとは対照的だが、人間ドラマや恋愛ドラマと呼ばれるようなジャンルには、『純愛譜』と同様に終盤まで出会いを引き延ばすフィルムがちらほら見受けられる。

 例えば1996年に森田芳光パソコン通信を題材として制作した『(ハル)』では、互いに相手の素性を知らない男女がメールの交換を通じて親交を深めていく。「ハル」というハンドルネームを使う昇は、相手の「ほし」は男性だと聞いていたが、やりとりを続ける中で、実は美津江という名の女性であることを知る。その後の紆余曲折を経て、ついに実際に会う決意をした二人は新幹線のホームで待ち合わせをする。そこで両者が発する「はじめまして」が、本作の最後の台詞となるのだ。

 

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 二年後の1998年にノーラ・エフロンが制作した『ユー・ガット・メール』でも同様に、インターネットで知り合った男女の恋愛模様が描かれる。ただし本作の場合、実は二人は驚くほど身近な場所に暮らしている。街角の小さな書店を経営するキャスリーンは、この街に新たにオープンした大型書店の御曹司ジョーを目の敵にしていたが、彼こそがまさに憧れを持って接していたメール相手であったというわけだ。あらかじめその関係を知らされている観客は、誤解やすれ違いを重ねる二人を終始もどかしい気持ちで見守るのである。

 

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 インターネット上で出会った人物が実は身近な人物であったという設定は、岩井俊二の『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)にも見られる。イジメに遭っている中学生の蓮見は、自身が開設したウェブサイトで知り合った「青猫」というハンドルネームの人物と心を通わせていたが、やがて、青猫は蓮見へのイジメを主導する同学年の星野であることが明らかになるのだ。

 

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 このように、インターネットを描いた映画において出会いを終盤に設定すること自体は殊更に珍しいものではない。ただしここで挙げた三本のフィルムでは、直接対面したことがなかったり、相手の正体を知らないということはあるものの、メールやチャットによる言葉のやりとりは全編に渡っておこなわれているのであり、その意味では、両者はすでに(ネット上で)出会っているのだとも言えるだろう。

 そう考えると、『純愛譜』におけるウインと彩の無関係性はいっそう際立って見えてくる。アラスカでの対面にしても、両者が少しずつ心の距離を縮めて行った結果でもなければ、実は身近な人物だったというわけでもなく、ただただ「偶然」としか言いようのないような素っ気なさが印象に残る。もしもこの映画に続きがあったとしても、特に恋愛関係や友人関係に発展することもなく、その場で別れて二度と会うこともないのではと思わせるような、「運命的」とは程遠い出会いのかたちが描かれているのだ。

 この出会いは、上述した三本のフィルムよりもむしろ、『回路』(黒沢清、2001年)における亮介とミチの出会いに通じるものがある。経済学部の大学生・亮介と観葉植物の販売会社に勤めるミチの物語はそれぞれまったく無関係に進行するが、終盤、二人はある場所で偶然に顔を合わせ、行動を共にするようになる。その出会いは、インターネットを介したつながりでもなければ、この世界に溢れ出てきた幽霊たちが導いたものでもない。けれどもそんな、運命的でも必然的でも劇的でもないような素っ気なさの中にこそ、わたしたちが漠然と抱く「インターネット的」と言い得るような何かが捉えられているのではないかとも思うのだ。

 

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 エズミール・フィーリョ『名前のない少年、脚のない少女』

 インターネットは世界中の人びとと「つながる」ことを可能にする。

 そんな夢がこれまでくり返し語られてきたし、実際にその恩恵にあずかった者も数多く居る。しかし一方でインターネットは、これまでなら存在を知ることすらなかったはずの「存在を知ったところで結局出会えない人びと」の存在を可視化し、自分自身は参加することのできない「つながり」や「コミュニケーション」を見せつけられる場所でもある。ブラックボックスであったが故に妄想することのできた「ここではない別のどこか」の現実を、身も蓋もなく突きつけられてしまうのだ。

 インターネットのそうした残酷な「出会えなさ」を描いたフィルムとして、ブラジルの映画作家エズミール・フィーリョのデビュー作『名前のない少年、脚のない少女』(2009年)を挙げることができるだろう。本作では、ブラジル南部の片田舎に暮らす少年が、インターネット上で見つけた「ジングル・ジャングル」と名乗る少女に恋をする。ジングル・ジャングルは自身の姿や恋人と過ごす時間を記録した写真や動画をアップしており、少年はそれらを閲覧することを通じて彼女への想いを強めていくのだが、どれだけ願っても二人は決して出会うことができない。なぜなら彼女は自殺し、すでにこの世に居ないからだ。

 


映画『名前のない少年、脚のない少女』予告編 - YouTube

 

 従って、本作もまた最後まで大きな事件が起こらず、『純愛譜』以上に淡々とした日常の描写が全編に渡って続くことになる。1982年生まれのフィーリョは、「僕らは家庭にインターネットがあった最初の世代だ」とインタビューでも述べているように、あって当然のものとしてインターネットと関わってきた世代だ(「エズミール・フィーリョ『名前のない少年、脚のない少女』インタヴュー」、OUTO SIDE IN TOKYO)。それ故だろうか、本作のインターネット描写には、「つながり」や「コミュニケーション」への夢想でもなければ、サイバー犯罪を扱った映画に見られる過度な危険視・問題視でもない、ある種醒めた眼差しが感じられるのである。

 

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 疑似同期

 またここで、少年と少女の生きる時間にズレが生じていることにも注目したい。インターネット上に残されているのは、ジングル・ジャングルが生前にアップした「過去」の記録である。しかし、少年がそのサイトにアクセスして写真や動画を見つめるたび、くり返し彼女の生きた時間が「現在」に再生され、少年の生きる時間とシンクロするのだ。

 こうしたあり方について、情報社会論に親しんだ者であれば、濱野智史が『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版、2008年)で提唱した「疑似同期」という概念を思い浮かべるかもしれない。「疑似同期」とは、別の時間、異なる場所に居る複数のユーザが、あたかも同じ時間や空間を共有しているかのような感覚を得ることを意味しており、同書ではその代表的な例として、ひとつの動画を多人数で一緒に観賞しながらコメントを投げ合っているような感覚を味わうことのできる「ニコニコ動画」が挙げられている。付け加えておくと、上記の定義に従うならば、『(ハル)』や『ユー・ガット・メール』においても疑似同期的な表現が取り入れられていると言えるだろう。例えば『ユー・ガット・メール』では、本来なら数分や数時間、あるいは数日といったタイムラグがあるはずのメールのやりとりが、まるで対面してリアルタイムで会話をしているかのようなテンポで描き出されるのである。

 

アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか

アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか

 

 

 ただし――以前「分身」のモチーフについて述べた時と同様に――ここで注意しなければならないのは、本作における疑似同期の描写が、必ずしもインターネットというメディアだけに特有のものではないということだ。例えばジングル・ジャングルがアップした動画や写真を、少年がゴミ捨て場で偶然拾ったホームムービーや家族写真に置き換えても、本作の物語はある程度成立してしまうだろう。要するに、死者の時間と生者の時間の擬似同期は――写真、映画(フィルム)、ビデオ、ウェブ動画、あるいはレコードやCDなどの――記録メディア全般で生じ得るし、実際、そうした物語はすでに数多くつくられてもいるのだ。

 インターネットに特有な現象としての疑似同期を考えるなら、少年と少女の一対一の関係に比重を置いた『名前のない少年、脚のない少女』よりもむしろ、『リリイ・シュシュのすべて』のほうが適当かもしれない。本作では、不特定多数のBBSへの書き込みが画面上にテロップで表示されていく。カメラによって記録された田園や地方都市の風景が織りなすレイヤーとは別に、テキスト(テロップ)が織りなすもうひとつのレイヤーが重ねられ、現実空間と情報空間という異なる世界が並行して流れていくのだ。そうした中で、初見の観客にとっては、「青猫」というハンドルネームも数あるアカウントの中のひとつに過ぎない。けれども物語が進むうちに、次第にその名前は存在感を増していき、やがて特別な存在として認識されるようになるのである。

 

 

映画にとってインターネットとは何か(6)  Jホラー・ネットロア・モビリティ

 

  レンタルビデオショップから見える風景 

 たまにはパソコン画面から離れて、街のレンタルビデオショップに出かけてみよう。DVDがずらりと並んだ棚を見渡してみると、インターネットで「インターネットを扱った映画」を検索した時とはまったく異なる風景が広がっている。

 これはわたしが見た某店舗の例。そこでは、グーグルの検索結果では目立っていたサイバー犯罪映画(ハッカー映画やネットワーク利用犯罪映画)の存在感が驚くほど薄い。というのも、そこには「サイバー犯罪」というジャンルの括り自体が存在せず、該当する作品は「サスペンス」や「アクション」といったジャンルの棚に分散して置かれているからだ。

 一方、店内でひときわ目を惹いたのがホラー映画――しかも日本のホラー映画の棚である。そこには、インターネットを意識して付けられたタイトルや、2ちゃんねるYouTubeなど有名サイトを直接的・間接的に模倣したタイトルがずらりと並んでおり、10巻を超えるシリーズ化作品も珍しくない。

 例えば——明らかにインターネット登場以後の映像環境を意識しているのであろう——「動画」という語を冠したシリーズを拾ってみても、一度はネット上で公開されたが後に削除・封印されたいわくつきの動画を集めたという触れ込みの「Not Found -ネット上から削除された禁断動画」(古賀奏一郎・吉川久岳、1~19巻、2010年~)、同様に心霊映像から犯罪行為まで表に出せない映像ばかりを集めたという「闇動画」(児玉和土、1~11巻、2011年~)、同作のスピンオフとして対象を心霊映像に絞った「心霊闇動画」(佐々木良夫、1~6巻、2014年~)、監修の怪人Kが呪死を覚悟で(しかもお祓いを済ませることなく)世に送り出した「本当にあった怨霊恐怖動画」(1~11巻、2013年~)、怪談投稿サイトを主宰する住倉カオス監修による「恐い動画 限定解禁」(1~7巻、2012年~)、その他「絶対に怖い動画」(製作・酒匂暢彦、大橋孝史、1~3巻、2012年~)や「本当の心霊動画」(製作・島野伸一、庄子圭、監督・木場丈、「影」1~16巻、「呪」1~13巻、編集版1~3巻、2012年~)、「ノロイノドウガ 怖すぎる心霊動画集」(魚田童夢、怨編・憑編・うらみ編、2014年~)など、無数の作品が制作されていることが分かる(巻数はすべて2015年3月時点)。数だけで言えば、サイバー犯罪映画をはるかに凌いでいるのだ。

 ただしこれらのシリーズが皆、この連載の考察対象である「インターネットを扱った映画」に当てはまるかどうかはまた別の問題である。確かに中には、ウェブ動画的なルック(画面全体の雰囲気、画調)を採用した作品や、短編ごとの有料ウェブ配信を試みるシリーズなど、興味深いものも混ざっているのだが、ほとんどはネット以前から存在するような心霊映像の紹介や体験談・再現ビデオで構成された作品ばかりで、物語や主題に直接インターネットが関係しているものは僅かしかない。要するに、以前ならば「投稿ビデオ」や「心霊映像」と銘打たれていたものが、「投稿動画」や「心霊動画」という語に置き換えられただけなのだ。

 

 三つの分類

 ひとまず本論の主旨に沿わないものは除外して、インターネットがその作品の成立に不可欠な要素となっているものに絞ってホラー棚を調べ直してみた所、大きく分けて三つの傾向に分類することができそうである。

 ひとつめは、前回取り上げた黒澤清の『回路』(2001年)に代表される超常ホラー映画である。例えばメディアを通じた呪いの感染を描く「リング」シリーズのリブート的フィルム『貞子3D』(英勉、2012年)では、時流に合わせて「呪いのビデオ(VHS)」から「呪いの動画」にメディアを移行。ニコニコ生放送で配信されたいわく付きの動画を見た者が次々と不審な死を遂げていく。他にも、ブレイク前の染谷翔太が出演している『DEATH FILE』(福田陽平、2006年)では、名前を載せられた者が死に至るウェブサイトを開設した超能力者を追う女刑事の物語が語られ、乃木坂46中田花奈が主演をつとめる『デスブログ 劇場版』では、名前が書き込まれた人物に次々と不幸が起こる女子高生の個人ブログの恐怖が描かれた。

 

 

DEATH FILE [DVD]

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デスブログ 劇場版 [DVD]

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 分類の二つめは、第4回に取り上げた福田陽平の『殺人動画サイト Death Tube』や続編『殺人動画サイト Death Tube 2』(共に2010年)、『学校裏サイト』(2009年)のように、ゲーム的なネットワーク利用犯罪を扱ったホラー映画である。坂牧良太が2012年に制作した『死刑ドットネット』では、「死刑ドットネット」というサイトに集った6名の参加者がそれぞれ殺したい人物の名を挙げ、役割分担をして交換殺人を遂行する。殺人を躊躇った者や失敗した者には、罰ゲームとして自らの死が待っているのだ。

 

死刑ドットネット [DVD]

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 分類の三つめは、「投稿」という体裁をとったホラー映画である。これはさらに、視聴者から送られてきた心霊写真や心霊映像などを紹介する(フェイク)ドキュメンタリー的な作品と、視聴者の恐怖体験談やインターネット上の都市伝説などをもとにした再現ビデオ的な作品に分けることができ、先ほど紹介した「動画」という語を冠したシリーズは多くが前者に当てはまる。後者の代表的な作品としては、永江二朗が手がける「2ちゃんねるの呪い」シリーズ(2011年~)や『ツイッターの呪い』(2011年)、福田陽平『ことりばこ』(2011年)などが挙げられる。これらの作品も基本的には体験談や都市伝説を映像化したというだけで、必ずしも物語や主題にインターネットが深く関わるわけではないのだが、中には、原作自体の性質も手伝って、本論の問題意識に関わるような興味深いフィルムも含まれている。

 

2ちゃんねるの呪い VOL.1 [DVD]

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ことりばこ [DVD]

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 永江二郎『2ちゃんねるの呪い 劇場版』

 永江二郎が2011年に制作した『2ちゃんねるの呪い 劇場版』は、匿名掲示板「2ちゃんねる」のオカルト板などに書きこまれた怪談を映像化した短編オムニバス・シリーズの長編映画化である。ただし本作ではオムニバス形式をとらず、2ちゃんねる発の怪談の中でも屈指の知名度を誇る「赤い部屋」と「鮫島事件」を混ぜ合わせ、ひとつの物語にまとめている。視覚面でも、『リング』をはじめとして先行するJホラーからの影響が色濃く見られ、全体的に無節操な寄せ集め感が強いフィルムとなっている。

 


映画『2ちゃんねるの呪い 劇場版』予告編 - YouTube

 

 しかしこのような特徴は、必ずしも汚点とはなっていない。2ちゃんねるをタイトルに冠したフィルムとしては、それこそが「正しい」ありかたではないかとも思えるのだ。

 「赤い部屋」や「鮫島事件」のようにインターネット上に投稿され拡散していく怪談や都市伝説は、「ウェブ怪談」や「ネットロア」と呼ばれている(ここではネットロアの語を採用する)。怪しげで広大なネットロアの世界を眺めていると、どうしても民俗学的な興味をそそられるだろう。例えばRootportによるブログ記事「いかにして『八尺様』は生まれたのか/Web怪談と現代のオカルト」(2012年)や広田すみれと高木淳による論文「インターネット上でのネットロアの伝達と変容過程」(2009年)でも論じられているように、ネットロアは不特定多数の人びとによって語られていくうちに内容が変化し、無数の異本が生成されていく。自動車事故を免れた男に「死ねば良かったのに」と囁く不気味な幽霊も、ネット上を徘徊するうちにいつしかツンデレ属性が与えられ、ついにはその男にお弁当をつくるようになるのである。

 永江はこうしたネットロアの魅力を理解しているのではないだろうか。『2ちゃんねるの呪い 劇場版』は明らかに、「赤い部屋」と「鮫島事件」の正統な起源を探り出すことや、原作を忠実に映画化することを目指していない。本作の特徴である雑多な寄せ集め感は、これもまたネット上に遍在する無数の異本のひとつにすぎないのだと規定する、映画自身の謙虚さの現れのように見えるのだ。

 こうした態度は映画のラストにも端的に示されている。主人公すらも無惨に殺されてしまう救いのない展開は、実はすべて作中のある人物の妄想であり、2ちゃんねるにネットロアとして書き込まれた創作であったことが明かされるのだ。

 これを、悪名高い「夢オチ」の変形であると見ることもできよう。しかし夢オチには、作中の出来事をすべて引っくり返してしまうことの無責任さばかりでなく、どこか甘美な印象も備わっている。しばしば「映画」と「夢」は似たもの同士として結びつけられるのであり、夢オチは映画の経験を否定するのではなく、むしろ強化する方向にも働くだろう。それと比べれば、『2ちゃんねるの呪い 劇場版』の妄想オチはあまりに身も蓋もない。そこには甘美さなど微塵も感じられないのだ。

 この後味をあえて表現しようとするならば、評論家・ライターのさやわかが『一〇年代文化論』で取り上げたキーワード「残念」がもっともふさわしいのではないだろうか。本来のネガティブな意味だけでなく、その何とも言えない微妙な感じをポジティブにも受けとめていこうというニュアンスを含んだ「残念」という語が、ネット上を中心として2007年頃から用いられてきたということを踏まえれば、2010年代初頭に制作された本作は、その名に違わず、首尾一貫して日本のインターネット文化に寄り添ったフィルムであると見ることもできるだろう。

 

一〇年代文化論 (星海社新書)

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2ちゃんねるの呪い 劇場版

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 福田陽平『学校裏サイト

 続いて、福田陽平が2009年に制作した『学校裏サイト』を見てみよう。

 


学校裏サイト - YouTube

 

 本作では、あるプロフサイトに登録した高校生たちが、勝者には賞金と安全、敗者には他人に知られたくない秘密の暴露というルールのもとに、互いの携帯電話を奪い合うサバイバル・ゲームを繰り広げる。このあらすじからも窺えるように、2000年代に社会問題化した「学校裏サイト」をめぐる問題とはあまり関係がない(学校でのイジメの描写などはあるものの、おそらく時事ネタからタイトルをいただいてきたという以上の意味はないだろう)。本作の見所はそこではなく、ゲームを進行するためのアイテムとして登場する携帯電話にある。

 粉川哲夫が、インターネットの実態を映像化した映画の不在を指摘する一方で、携帯電話はすでに映画に欠かせない小道具として重要な位置を占めていると述べていたことを思い起こそう(『90年代アメリカ映画100佐野亨 編、大場正明 監修、芸術新聞社、43頁)。なるほど携帯電話は、パソコンやインターネットほどの異物感はなく自然と映画世界に入り込み、ありふれた日常の道具として画面に馴染んでいるし、三池崇史が第一作の監督をつとめた「着信アリ」シリーズ(2004年~)のように携帯電話を物語の中心に据えて成功したフィルムもすでにつくられている。では、両者の差はいったい何に因るものなのか。

 

着信アリ(通常版・2枚組) [DVD]

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 『学校裏サイト』を見て気づくのは――考えてみると当たり前のことなのだが――モビリティ(移動性)こそが、携帯電話と映画の相性の良さを保証しているということである。福田は低予算映画の枠組みの中でも工夫を凝らし、若い俳優たちの柔軟な身体やロケ地の特性を活かして躍動感溢れるアクション・シーンをつくりだしている。そうしたアクションの流れを中断せず、なおかつテンポよく物語を進行させるためには、どのような場所でも、どのような姿勢でも片手が空いていれば使用することができ、さらにアクションと同時並行で遠くの人間と対話させることもできる携帯電話は必須のアイテムなのだ。もしもこれがパソコンであれば、インターネットにアクセスするたびにアクションが途切れ、物語も間延びしてしまうだろう。

 インターネットは、自宅に居ながらにして世界中にアクセスできるメディアとして登場した。先行する電話や電信、写真や映画以上に、特定の場所の制約から逃れられる自由さと速度を備えていたのだ。ところがインターネットが映画に描かれる際には、これと反対の事態が生じる。すなわち、その都度パソコンなどの端末がある所に戻らないとインターネットにアクセスすることができないという意味で、むしろ特定の場所の制約を強く受けてしまうことになるのだ。

 

学校裏サイト [DVD]

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映画にとってインターネットとは何か(5) ニューメディアと幽霊

 

 この連載は、現在わたしが制作を進めている新作長編映画『落ちた影/Drop Shadow』(仮)の制作ノートです。neoneo webでの連載「Camera-Eye Myth/郊外映画の風景論」で展開した現実空間の場所論では扱うことのできなかった、人間の活動空間としてのインターネットを題材として、映画はそれをどのように描くことができるのか、あるいは描くことができないのかについて、先行する映画作品の分析をもとに考察していきます。

 

 ジム・ソンゼロ『パルス』

 新しいメディアの登場には怪談がつきものである。今回は、現在の科学では説明不可能な超常現象を扱ったホラー映画とインターネットとの関係を見てみたい。最初に取り上げるのは2006年にジム・ソンゼロが制作した『パルス』。黒沢清『回路』(2001年)のハリウッド・リメイク作である。

 


Pulse (2006) - Official Trailer - YouTube

 

 冒頭、コンピュータに詳しい大学生ジョシュが、自宅で首吊り自殺をしているのが発見される。第一発見者であり、ジョシュの恋人であったマティは、携帯電話やパソコンに死んだはずの彼からメッセージが届くことを不安を感じ、友人のストーンにジョシュのパソコンをシャットダウンするよう頼むが、ストーンもまた生気を失い、やがて姿を消してしまうのだった。折しもその頃、アメリカの各地で行方不明事件が多発。マティは、ジョシュのパソコンに表示される「幽霊に会いたいですか?」(Do you want to meet a ghost?)という一文と、続けて映し出される自殺のライブ映像を見て、そのウェブサイトが一連の行方不明事件に関わっていることを悟る。

 

 

 大筋は『回路』の物語を忠実になぞっているし、印象的な「飛び降り」と「墜落」のシーンも丁寧に再現されている。とは言え、やはり、Jホラーを見慣れた者は無数の違和感を覚えるだろう。例えば黒沢映画に特徴的な、生きている時から死んでいるかのような佇まいの登場人物たちは、「暗い気分に浸ってないで踊りに行こうぜ」と声をかけるような軽い調子の人物像に変更されている。また、「電波の届かない場所には幽霊はやって来れない」「赤いテープは幽霊の進行を遮断する」といった分かりやすいルールが設けられており、どこにも逃げ場がないと感じさせた『回路』の不条理さ・理不尽さは良くも悪くもずいぶんと軽減されている。

 そして、誰もが感じるであろう両者の最大の違いは、なんと言っても「視覚的な派手さ」である。『パルス』では、見るからにおぞましい姿をしたクリーチャーが人間に襲いかかり、さらには『サイバー・ネット』のようにVFXを駆使した派手でノイジーな画面づくりが積極的におこなわれている。こうした演出は、リメイク版の『ザ・リング』(ゴア・ヴァービンスキー、2002年)や、Jホラー的モチーフとインターネットを組み合わせた『フィアー・ドット・コム』(ウィリアム・マローン、2002年)にも見ることができ、Jホラーを意識したハリウッド映画のひとつの特徴となっている。

 

 

 これは、Jホラーの暗く抑制された世界観では地味すぎると判断されたが故の改変(改悪)なのだろうか? どうやら、そうとも言いきれないようである。研究者の前川修は、「1998 年に公開された日本のホラー映画が地下で密造コピーされ、それが密かに出まわり、 カルト的価値をもつようになっていた」という90年代末のハリウッドにおける都市伝説を紹介し、そうした「劣化した粗い画像」が増幅させる恐怖がハリウッドのリメイク企画者の目に留まったことを指摘している(前川修「メディア論の憑依:ポスト・メディウム的状況における写真」、2011年)。そうだとするならば、『パルス』や『フィアー・ドット・コム』におけるエフェクティブでノイジーな画面を「改変」と見るのは誤りで、むしろ、ハリウッドが抱くJホラーのイメージを忠実に「再現」した結果であると見ることもできるのだ。

 

 黒沢清『回路』

 続いて、オリジナルである黒沢清の『回路』を見てみよう。『パルス』において重要なモチーフとなっていた「幽霊」「インターネット」「赤いテープで塞がれた部屋」は、もちろん本作にも登場する。ただし、その三者の位置づけや関係性は大きく異なっており、そのことが、映画がインターネットをどのように描くのかについての重大な態度の違いにもつながっているのだ。

 


回路 予告編 - YouTube

 

 「例えばさ、一番最初、それは馬鹿みたいなことで始まったんじゃないかな。」

 映画の中盤、幽霊たちがこちらの世界に進出してくるようになった経緯を大学院生の吉崎が推測するシーン。画面には、とある工場の解体作業現場の様子が映し出されている。ひとりの作業員が赤いテープで部屋の扉や窓を塞いだことから、偶然にしてこの世とあの世をつなぐ「あかずの間」がつくられてしまうのだ。やがて解体作業は進み、その建物も取り壊される。瓦礫や破れ落ちた赤いテープの傍にある電話回線の差込口に、カメラがゆっくりと近づいていく。それに合わせて鳴り響くインターネットの接続音。幽霊たちが、電話回線を通じてインターネットにアクセスし、そこから世界中に拡散して行ったことが示唆される。

 

回路 [DVD]

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 ここで興味深いのは、『回路』と『パルス』では、赤いテープの位置づけが真逆になっていることだ。『回路』では、赤いテープは幽霊を呼び出すために必要なアイテムであり、幽霊を目撃してしまった者は、赤いテープで塞がれた部屋には絶対に近づくなと友人に忠告している。一方、『パルス』における赤いテープは、幽霊の進行を遮断するためのアイテムとして設定されている。そのことを知る者は、隅々まで赤いテープを貼った密室に閉じこもることで、幽霊から身を守ろうとするのだ。

 赤いテープの位置づけが異なる以上、必然的に、幽霊出現の原因についても『回路』とはまったく異なる設定が用意されている。具体的には、『パルス』の幽霊は、ジョシュとその仲間が通信に関する研究の中で発見した未知の周波数に乗ってやってきたのだ。本作の幽霊は、一貫して電波に乗って移動する。それに対して人間も、ネットワークに侵入した幽霊をコンピュータ・ウィルスによって撃退しようとしたり、パソコンや携帯電話など電波を受信できるものが近くにない場所に移動して難を逃れるといった仕方で、事態に対処しようとするのである。

 

 メタメディア/ニューメディア

 このように、『パルス』の幽霊はその出現から拡散まで常にインターネットと密接な関わりを持っている。一方、『回路』の幽霊は赤いテープで塞がれた「あかずの間」を通じてやって来るのであり、インターネットは彼らがこちらの世界に進出するために必要不可欠なものではない。本作におけるインターネットは、幽霊に対して二次的な関わりしか持つことができていないのだ。

 どこまで意図的かは分からないが、この設定は、インターネットのニューメディア(メタメディア)としてのありかたを的確に捉えていると見ることができるのではないか。

 インターネットは、写真やテレビ、電話、書籍といった伝送形式と伝達内容が垂直統合された従来型のメディアのありかたを解体し、それらすべての機能を統合した「メタメディア」である。この語を提唱したアラン・ケイは、「最初のメタメディア」であるコンピュータについて、「さまざまな道具として振舞うことができるが、コンピュータそれ自体は道具ではない」と指摘した(『アラン・ケイアスキー、1992年、118頁)。これと同様にインターネットも、映画館で映画を見る代わりにウェブ配信を見る、本を読む代わりにブログ記事を読むといった仕方で活用されるのであり、従来型のメディアの機能とは関わりのない完全にオリジナルな活用法を想定するのは困難であろう。またメディア理論家のレフ・マノヴィッチも、『ニューメディアの言語――デジタル時代のアート、デザイン、映画』(みすず書房、2013年)において、インターネットやデジタルゲームのような「ニューメディア」の中にも、映画や写真といったオールドメディアが築き上げてきた慣習が色濃く残り、影響を与えていることを指摘している。

 以上のことを踏まえて『回路』に立ち戻るならば、「あかずの間」とインターネットの関係は、まさにオールドメディアとニューメディアの関係として捉え返すことができるだろう(赤いテープで隙間を塞いでつくりだした暗室内にぼんやりとした光(幽霊)が浮かび上がる様は、カメラ・オブスクーラ=暗い部屋を想起させる)。幽霊は「あかずの間」というシンプルかつアナログなオールドメディアによって召喚された。そして彼らは、ニューメディアであるインターネットに目をつけ、自らをデジタル化して世界中に拡散していくのである。

 

アラン・ケイ (Ascii books)

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ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

 

 

 アンチ・インターネット?

 ところが、『回路』におけるインターネットの描写を詳細に見ていくと、ここまでの解釈に誤りがあることが判明する。

 実は本作の幽霊は、インターネットを「利用」してはいるが、『パルス』の幽霊のようにネットワーク上を「移動」することは一度もしていないのだ。従って当然、その幽霊は貞子のようにモニタの中から飛び出して来ることはない。彼らが作中でインターネットを利用しておこなったことは、(1)自殺志願者たちの集うウェブサイトを利用して視聴者に「幽霊に会いたいですか?」と問いかけたことと、(2)人びとに「あかずの間」のつくり方を紹介して、この世とあの世の通路を増やそうとしたことの二つだけである。インターネットを扱ったホラーという触れ込みや思わせぶりな演出によって気づきにくくなってはいるが、本作におけるインターネットは、幽霊に対して二次的どころか間接的な関わりしか持てていないのだ。

 ちなみに、黒沢清が執筆した小説版『回路』(徳間書店、2001年)に「あかずの間」は登場しない。幽霊は赤いテープが貼られたパソコンを通じてこの世界に進出し、さらにネットワーク上を自由に移動する。それに対して人間たちは、身近なパソコンを破壊することで幽霊の侵攻を防ごうとする。どちらかと言えば『パルス』に近い設定が採用されているのだ。

 

回路

回路

 

 

 他ならぬ映画版で、「あかずの間」とインターネットがそれぞれ異なる機能を持ったメディアとして描き分けられたこと。穿った見方をするならば、ここから、本作のアンチ・インターネット的性格を読み取ることもできるだろう。

 映画・写真前史たるカメラ・オブスクーラを想起させる「あかずの間」は、映画(もしくは映画館)の隠喩である。幽霊を召喚し、住まわせることができる映画(館)に対して、パソコン画面に映っているのは幽霊ではなく、まるで幽霊のようではあるが本物の幽霊ではない人間(幽霊未然の者たち)の姿ばかり。要するに、本作に登場するインターネットには「あかずの間」=映画の機能が備わっていない。このインターネットでは映画を見ることができないのであり、それを使ってできることと言えば、せいぜい、新作の公開情報を閲覧したり、映画館へのアクセスマップを調べることぐらいなのだ。

 

 

udocorg 個展「れいより40℃も高熱」

 

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udocorg(鵜戸庚司)個展「れいより40℃も高熱」

2015.6.6 (sat) – 6.14 (sun) @TAV GALLERY

http://tavgallery.com/udocorg/

 

udocorgさんの個展に寄せて、短いテキストを書きました。

上記ウェブサイトにも掲載していただいています。

 

DID / udocorgについて

DIDを主宰するudocorgは、「映画」「動画」「ファッション」をビジュアルドウガという名のもとに出会わせようとする。しかしそれは、映画をウェブ配信する、登場人物にブランド物を着せる、ファッションブランドのPVを撮るといった意味合いに留まらない。彼が試みるのは、三項がそれぞれ洗練させてきた異なる美のありようを、あくまでひとつの画面のうちに融合させることなのだ。

決して簡単なことではない。美は必ずしも溶け合わない。時には反発し、打ち消し合うこともあるだろう(少なくとも21世紀の日本では、現代映画、ウェブ動画、ファッションの新たな潮流は、不幸な出会い損ねを繰り返しているように思えてならない)。

DIDのドウガに見られる、静止画のように(なのに)揺れる身体や、セルフィーの演技する(が故の)自然体、ぐだぐだ(振る舞い)とバキバキ(解像度)のカップリングといったものは、まさに異なる美の衝突が生んだ揺れや軋みであり、それらを融合させるための試行錯誤の痕跡であるだろう。あなたはこれを、それぞれの美の相容れなさと受け取るだろうか。それとも、映画とも動画ともファッションとも異なる、新たな美の誕生を予感するだろうか。