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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

映画にとってインターネットとは何か(2) 1995年、二つのハッカー映画

 

 アーウィン・ウィンクラー『ザ・インターネット』

 1995年、Windows95の発売によってインターネットが一般家庭に急速に普及し、社会現象ともなったこの年、アーウィン・ウィンクラー監督がその名も『ザ・インターネット』(原題「The Net」)というフィルムを発表した。公開当時に絶大な支持を集めたというわけではないが、現在でもしばしばインターネットを題材にした映画の筆頭に挙げられる、妙な存在感を持ったサスペンス映画である。

 


The Net Movie Trailer 1995 - YouTube

 

 物語の主人公は、自宅に引きこもってデバッグの仕事に励むコンピュータ・アナリストのアンジェラ。彼女は偶然に機密情報が保存されたフロッピー・ディスクを受け取ったことから巨大な陰謀に巻き込まれ、命を狙われることになる。正体不明の追っ手はアンジェラのクレジットカードを使用不可にしたり、銀行口座を空にしたり、さらには個人情報を書き換えて犯罪歴のある別人に仕立て上げることで、彼女を精神的に追いつめていく。ふだんの近所付き合いがなかったために、アンジェラがアンジェラであることを証明できる人間は誰もおらず、唯一の肉親である母親もアルツハイマーのため娘を娘と認識できない。そんな孤立無援の恐怖を、アーウィン・ウィンクラーは丁寧に描き出している。

 現実にこのような犯罪行為が実現可能なのかという疑問や、コンピュータやインターネットに関する描写の正確さに関する批判は、『ザ・インターネット』の制作者たちにとってそれほど痛手にはならないだろう。本作の巧妙さは、インターネットが一般家庭に普及し始めたタイミングで、人びとが必然的に抱くであろう新しいメディアへの漠然とした不安を煽ったことにある。劇場に足を運ぶ大半の観客はインターネットの専門家ではない。登場人物がパソコンを使って何をしているのかが分からなくても物語の筋はじゅうぶんに理解できるし、むしろ具体的に何をしているか分からないからこそ不安は増幅され、そこにサスペンスが生じるだろう。要するに、『ザ・インターネット』は1995年のウェルメイドな娯楽映画の役割をまっとうしているのだ。

 

 

 絵にならないインターネット

 同作に限らず、多くの人びとにとって、インターネットの登場する映画と聞いて真っ先に思い浮かべるのはこうしたハッカーによるハッキングやクラッキングを扱ったフィルムではないだろうか。インターネットで検索してみても、『ザ・インターネット』以前に製作された『ウォー・ゲーム』(ジョン・バダム、1983年)や『スニーカーズ』(フィル・アルデン・ロビンソン、1992年)、近年では『ミッシングID』(ジョン・シングルトン、2012年)や『ブラック・ハッカー』(ナチョ・ビガロンド、2014年)など多くのハッカー映画が上位にヒットし、ひとつのジャンルと呼び得る広がりが形成されていることが窺える。

 ただしこれらのハッカー映画に対しては今の所、熱烈な支持よりも批判やツッコミのほうが目立っている。それは先ほど述べたように、作中の犯罪の実現可能性や、インターネットの描写の正確さに関するものである。例えばブログ記事「何故フィクションの中のハッカーは物凄い速さでキーボードを叩くのか」において著者のkatoyuuは、ハッキング映画の描写にツッコミを入れたりネタにしているブログや掲示板、まとめサイトなどのリンクを簡潔にまとめた上で、各所に共通して見られるツッコミとして「画面が無駄にグラフィカル」「キーボードを物凄い速さでガチャガチャ叩くだけ」という二つの描写を挙げている。さらに各リンク先を眺めてみると、「タブブラウザを用いずにウィンドウを無数に開く」「薄暗い部屋にいくつも浮かび上がるモニタの光」「無意味に大きな効果音」などハッカー映画の描写の紋切り型が並ぶ。それらの指摘は、なるほど確かにと思わせるものばかりで、今回取り上げた『ザ・インターネット』にも当てはまる部分が少なからずあるだろう。

 では、ハッカー映画はなぜ現実に忠実で「リアル」な描写ではなく、このような奇妙な描写のほうを選ぶのか。katoyuuはその答えを「誰が見てもそれが一番わかりやすいから」と一言でまとめている。それはシンプルであるが的確な答えだ。もしもハッカーが世界を激震させるような大事件を起こしたとしても、それがコンピュータの前でモニタを眺め、マウスを動かし、キーボードを叩くという、おそろしく動きの少ない地味な行為によって実行されたのだとしたら、端的に言って「絵にならない」。情報社会化やインターネットの普及はたしかに映画の世界に話題性のある新しいネタを提供したのだが、そのネタがスクリーンに映えるかどうかはまた別問題だったというわけだ。

 

 サスペンスの契機として

 こうした、1995年のインターネット利用が本質的に持つ視覚的地味さに直面しながら、アーウィン・ウィンクラーは非常にクレバーな解決策を打ち出した。彼は、チャットやメールの送受信、グラフィカルなハッキング画面など「いかにもインターネット的」なイメージを所々に盛り込みつつも、それらの描写自体を中心に据えることはせず、あくまで物語を展開させていくための契機としてのみ利用する。すなわち、メールのやりとりや情報の書き換えなどインターネット上で起きた出来事が映画の見せ場なのではなく、インターネット上で起きた出来事が、アンジェラを全速で走らせたり、身を隠させたり、自動車やボートを運転させるというように、真の見せ場である彼女の全身を使ったアクションを誘発する契機となっているのだ。こうしてインターネットは、アルフレッド・ヒッチコックマクガフィンと呼んだものと同様の働きをする入替可能なブラックボックスへと変貌し、ウィンクラーは古典的なサスペンス映画のセオリーを存分に活用することが可能になる。

 しかし前回の『ソーシャル・ネットワーク』と同様、こうした戦略の巧みさ故に、ウィンクラーはインターネットを描くことを回避した(インターネットを正面から扱わずに迂回することで処理した)という印象もまたぬぐい去ることができない。要するに、本作はインターネットの経験を既存の映画の枠組に当てはめ、それに収まりきらない部分を捨象することによって成立しているフィルムであるように思われるのだ。

 

 イアン・ソフトリー『サイバーネット』

 一方、『ザ・インターネット』と同年に制作された『サイバーネット』(原題「Hackers」、イアン・ソフトリー、1995年)は、まったく正反対とも言えるアプローチでインターネットの視覚的地味さを乗り越えようとしたフィルムとして特筆に値する。

 


Hackers Trailer - YouTube

 

 高校生のハッカー仲間と彼らに罪を着せて悪事を働こうとする凄腕ハッカーとの対決が描かれるこの映画では、インターネット上で起きる出来事を映画の見せ場として描くことが積極的に試みられている。イアン・ソフトリーは、VFXを駆使して情報空間のイメージをつくりだし、ハッキングやクラッキングを視覚的に表現したり、多重露光など様々な視覚表現を投入して画面が単調になることを防ぐ。さらに、高校生ハッカーたちが着込んだ奇抜なファッションやつくりこまれた舞台美術も画面に彩りを添えている(これらはみな、『ザ・インターネット』では慎重に避けられていたものばかりだ)。新しいメディアを描くためにはそれに見合った新しい画面づくりをせねばならない——そう言わんばかりの本作には、登場する高校生ハッカー役のキャストたちの初々しさとも相まって、野心的かつ初々しい魅力が溢れている。

 とは言え『サイバーネット』において、インターネットを描く試みが成功していると言えるかどうかは意見が分かれるところだろう。上述したような戦略をとっているが故に、本作は「画面が無駄にグラフィカル」や「キーボードを物凄い速さでガチャガチャ叩くだけ」に代表されるハッカー映画へのツッコミ所がほとんどすべてと言って良いほど当てはまるフィルムとなってしまっている。もちろん映画である以上、多少の誇張表現はあってしかるべきだろう。けれどもこの映画では、物語を追う妨げになるほど、多々あるツッコミ所に意識が行ってしまうこともまたたしかなのだ。もしも作中のインターネットの描写が観客にとって自然で違和感のないものであれば、その描写は透明化する(特別に意識することがなくなる)はずである。しかしリテラルな意味(現実のインターネットの技術的条件などに忠実な描写であるか)においても、フェノメナルな意味(人びとのインターネット経験の「リアル」に則った描写であるか)においても、本作はインターネットの経験を透明化できているとは言いがたい。

 また、『サイバーネット』を観ていると、インターネットも含めたコンピュータ文化全般の変化の速度を否応なく痛感させられる。おそらく当時としては最新のVFX技術を用いたのであろう情報空間のイメージも、今となってはどうしても古色蒼然として見えてしまうのだ。もちろん『ザ・インターネット』にも古びて見える箇所やツッコミ所は多々あるのだが、物語や演出に古典的な形式を採用しているために、細部はそれほど気にならない。しかし『サイバーネット』はそうした部分こそを前面に押し出しているために、ことさらにレトロなイメージが強調されて見えてしまうのである。

 

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