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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

郊外と芸術の交点について

12月20日に某所(別に隠す必要ないと思いますが念のため)でおこなわれた勉強会でプレゼンする機会があり、郊外(論)と芸術にかんする私自身の問題意識をお話ししました。当日配布したレジュメを、いただいたご意見・ご感想を反映して多少修正したものを以下に掲載します。neoneoでの連載「郊外映画の風景論」の執筆動機にあたる内容となっています。

 

 

【1】郊外とは何か

 

■地理区分としての郊外(suburb)

・都市に隣接する地域

・人びとの住む場所(山岳地帯や海洋、砂漠は郊外と呼ばない)
・通勤や通学などを通じた都市との結びつき(職住分離していない町や村も郊外と呼ばれない)

→日本における郊外とは、東京や大阪など大都市を囲むベッドタウンとしての機能を持った、住宅地中心の土地を指す。(国毎に郊外の位置づけは異なる。)

 

■郊外のイメージ(suburbia/郊外的)

・郊外的なる風景……西洋風の白い一戸建て住宅、緑に包まれた公園、団地、ニュータウン、ファミレス、ショッピング・モール、ロードサイド、ファスト風土etc.
・郊外的なる文化……/休日のドライブやショッピング、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を体現するような幸福な家族生活、近年ではマイルドヤンキー etc.

→単なる地理区分を超え、「住宅地や住人の生活様式や風俗、文化といった要素」大場正明『サバービアの憂鬱 アメリカン・ファミリーの光と影』、東京書籍、1993年)を含みこんだ概念としての「郊外」

 


【2】場所ではない場所

 

■社会問題としての郊外

社会学、思想、批評、そしてアートの問題として捉えられた「郊外」
・建築家の中谷礼仁による「郊外につきまとうステレオタイプ」(『建築雑誌2010年4月号 特集〈郊外〉でくくるな』所収、日本建築学会、2010年)
(1)中流階級ユートピア

(2)均質・画一的・没個性的な空間

(3)コミュニティの喪失・欠如

(4)消費社会の純粋な体現

(5)コンテクストのない環境

(6)ファスト風土

・映画やテレビ、写真など芸術に描かれる郊外
 『団地妻 昼下がりの情事』(西村昭五郎監督、1971年)、『遠雷』(根岸吉太郎監督、1981年)、『岸辺のアルバム』(TBS、1977年)、『金曜日の妻たちへ』(TBS、1983年)、『LANDSCAPES』(小林のりお、1981年)、『東京漂流』(藤原新也、1983年)、『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』(ホンマタカシ、1998年)etc.

 

■均質性と非・場所性

・『映画による場所論——〈郊外的環境〉を捉えるために』および、neoneo webでの連載「郊外映画の風景論」http://webneo.org/archives/20386で問題視した、郊外的なるイメージの二つの「型」——〈均質性〉と〈非・場所性〉

 

〈均質性〉
・「地方の独自性がいちじるしく摩滅し、中央の複製とでも呼ぶほかない、均質化された風景」松田政男『風景の死滅 増補新版』、航思社、2013年)
・「それは、直接的には地方農村部の郊外化を意味する。と同時に、中心市街地の没落をさす。都市部でも農村部でも、地域固有の歴史、伝統、価値観、生活様式を持ったコミュニティが崩壊し、代わって、ちょうどファストフードのように全国一律の均質な生活環境が拡大した。それこそがファスト風土なのである」三浦展ファスト風土化する日本——郊外化とその病理』、洋泉社、2004年)

 

〈非・場所性〉
ノン・カテゴリー・シティ ——「……である」というような積極的な定義づけよりも、「……でない」というようなマイナスの定義づけをしかしようがない場所(『10+1 no.1 ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容』所収、INAX出版、1994年)
没場所性 placelessness ——「どの場所も外見ばかりか雰囲気まで同じようになってしまい、場所のアイデンティティが、どれも同じようなあたりさわりのない経験しか与えなくなってしまうほどまでに弱められてしまうこと」「個性的な場所の無造作な破壊と、場所の意義に対するセンスの欠如によってもたらされる」(エドワード・レルフ『場所の現象学―没場所性を越えて』、ちくま学芸文庫、1999年)※ただしここでは、レルフの掲げた概念そのものというよりも、それを理論的根拠として利用した郊外批判における言葉の用い方を問題としている。

 

→「均質性」や「非・場所性」によって特徴付けられる郊外は、それぞれ自律した場所のあり方としてではなく——他の場所のあり方と比較して「足りないもの」や「失われたもの」があるというような——欠如態として語られる。
「場所性の失われた場所」あるいは「場所ではない場所」としての郊外

 

■「郊外批判」への批判

(1)「均質」であることは必ずしも悪いことなのか?(様々なライフスタイルを受け入れる「均質な多様性」によって救われる者も)
(2)そもそも郊外は「均質」で「没場所的」なのか?(見る者の眼差しの問題。事物の喪失としてではなく事物の再配置としてのヘテロトピックな場所性の見落とし)
(3)そもそも「かつての場所性」は存在したのか?(大都市目線の地方幻想と悪しきノスタルジー)
(4)現状の郊外にもその批判は有効なのか?(フェーズの移行、少子高齢化、都市回帰、インフラの問題)

・参考
 若林幹夫『都市への/からの視線』、青弓社、2003年
 若林幹夫『郊外の社会学——現代を生きる形』、ちくま新書、2007年
 若林幹夫 編著『モール化する都市と社会』、NTT出版、2013年
 丸田一『「場所」論―ウェブのリアリズム、地域のロマンチシズム』、NTT出版、2008年
 佐々木友輔 編著『floating view "郊外"からうまれるアート』、トポフィル、2011年
  『建築雑誌2010年4月号 特集〈郊外〉でくくるな』、日本建築学会、2010年

 


【3】芸術の問題設定

 

■郊外批判者の「リセット」志向

・郊外批判者は、しばしば、均質性や没場所性といった言葉のもとに現在の郊外で具体的に営まれている生活や、積み重ねられている歴史を軽視し、「なかったこと」にしようとする。
・都市計画に関わる者は、郊外化を都市計画の「失敗」や現代生活の「病理」として断罪し、まったく別な都市計画を上書きしようとするか、あるいは郊外化以前の街や自然の姿、歴史や風景をノスタルジックに復元しようと試みる。

 

■歴史の切断

・たしかに郊外化が、「既存の状態の延長とは違う別のものとして未来の社会と景観を考える」(エドワード・レルフ、『都市景観の20世紀』、ちくま学芸文庫、2013年)というユートピア主義的な発想を具現化した代表的な例であることは間違いない。
・しかし、一度つくられた場所や風景をリセットして、別の都市計画をやりなおそうとする(やり直すことができると考える)ことは、郊外という都市システムを否定しておきながら、実は、そのシステムの負の側面だけを引き継ぐものになりはしないか?

 

■故郷喪失の反復

・一度失われてしまった街や自然のありようを元通りに復元することはできないのであり、それを試みたとしても、オリジナルによく似た「別の何か」にしかなり得ない。
・郊外は、まだ短い時間であっても、すでに人びとの生きる場所として時を刻んでいる。それを「リセット」して、また次の何かを立ち上げようとすることは、新たな故郷喪失を引き起こすだけではないか?

 

■芸術の問題設定

・郊外をめぐるイメージ、概念への働きかけ
→「均質性」や「没場所性」など欠如態として語るのではない郊外観を創出すること
→もはやない過去やいまだない未来を賛美するのではなく、過去と未来をつなぐ現在に焦点を合わせること
→歴史や場所性からの切断として捉えられた「郊外」を、あらためて歴史や場所性の一部として位置づけ、縫い付けていくこと

 

■具体例として:「ゼンカイ」ハウス

Renovation Archives[018]《「ゼンカイ」ハウス

宮本佳明建築設計事務所

・建築家の宮本佳明が、1995年に起きた阪神・淡路大震災によって「全壊」の判定を受けた自らの生家を、取り壊して更地にしてしまうのではなく、建物全体を鉄骨で支え、補強し、アトリエとしてリノベーションしたもの。
・大きなダメージを受けた建築を「リセット」して新しい建築に建て替えてしまえば良いと考えるのでもなければ、古い建築がいつまでもそのままの姿であるように修復・保存に勤しむべきだと考えるのでもなく、2つの時間それぞれを尊重し、両者をかさね合わせるようにして新たな形態を生み出している。
・「新」と「旧」の対立や「自然」と「人工」の対立を前提としないところで建築が思考されており、郊外をめぐる問題にも大きな示唆を与えてくれる。

 

環境ノイズを読み、風景をつくる。 (建築文化シナジー)

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floating view 郊外からうまれるアート

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土瀝青 場所が揺らす映画

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