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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

リヴァイアサン――おそるべき、無邪気な映画

映画


映画『リヴァイアサン』予告編 - YouTube


ヴェレナ・パラヴェルルーシァン・キャステーヌ=テイラーによる共作『リヴァイアサン』を観た。以下、乱雑ではあるが備忘録として直後の感想を記しておく。

 

紹介文には、「マサチューセッツ州のニューベッドフォードから出航した漁船の仕事を捉えたドキュメンタリー。船の各所に取り付けたカメラが、荒れ狂う海、空を覆いつくすほどの鳥の大群、海を泳ぐ魚たちの姿を捉えていく」とある。

 

しかしこれは、漁船とそこに生きる漁師たちについてのドキュメンタリーでも、GoProというカメラ=テクノロジーが可能にした「見たことのない」映像を堪能できる新しい映画でもない。新しい玩具(カメラ)を買ってもらって無邪気にはしゃぐ子どもの喜びを記録したセルフドキュメンタリーとして、希有な映画なのではないか。

 

   *

 

カメラを持つ者(そして編集台の前に座る者)は、目の前で何が起こっているのかということにほとんど興味を示さない。漁師が何をしているのか、今どういう状況なのか説明する気がない。彼が関心を向けているのはひたすら「見るもの」としての視覚的な美のみである。そして、そこで見出された美は、従来の美の基準を突き崩す確信的なものというよりは、意外と王道的であり、少々保守的でさえある。

 

船体などに取り付けたカメラが記録した映像は一見、非人間的なカメラの眼そのものに見える。が、そうではない。

 

そもそもこういう撮り方をして、すべてがこんなにも分かりやすく「美しく」撮れているはずがないのだ。機械の眼は当然、ゴミショット、何も写っていないショットも膨大に生んでいるはずである。いや、むしろそうした映像が8〜9割を占めているはずだ。

 

しかし本作では、編集の段階で、そうした映像は慎重に選り分けられ、追い出されたようだ。残された映像は、制作者の審美眼によって染め上げられており、カメラの視点や人称の問題をあれこれ論じるというよりは、抽象映画のように、何も考えずに画面にきらめく光の動きを味わい尽くせばそれで良いといった感じの映画に仕上がっているのである。

 

   *

 

リヴァイアサン』の無邪気さとは、ひとつには、こうした美的な欲望の追及と、被写体となっている漁師たちへの無関心とさえ言いたくなるようなそっけない態度に起因する。

 

本作の各ショットを見ていくと、上述したように、美的には一定の基準があることが感じられるが、被写体とカメラの関係、距離感、立ち位置といったものは、ショットごとにてんでバラバラである。

 

例えば、もしも本作の制作者たちが、『三里塚』シリーズのスタッフのような態度で漁船に長期滞在して、漁師たちと共に生活や仕事をしながら撮影を続けるといったことを徹底させていれば、まったく別の映像が仕上がっていてもおかしくはない(※1)。生活を共にするということは、漁師の行動や、扱う機械、道具、そうしたひとつひとつの持つ意味(用途)を理解していくということであり、そうした意味を度外視して映像を撮影することは困難になる。ただ対象を美的に捉えるだけではなく、漁師たちの世界の分節の仕方がカメラワークや構図に刻み付けられるはずなのだ。

 

しかし彼らは、意図的にか、無自覚にか、漁師たちに同化しようとする欲望を持つことなく、徹底して美しい風景だけを追い求める「一見さん」であり続ける(※2)。実践的な世界の分節ではなく、非人間的な機械の眼による世界の文節でもなく、あくまで観賞者としての美的な世界の分節にこだわり続ける。

 

風景とは、その土地で実践的に営まれている場所の経験を美的に「見るもの」として対象化することによってつくられるものである。この定義に従うならば、本作は正しく風景映画と呼ばれるべきであろう。画面には、被写体たちが本来持っていたであろう意味が抜き取られ、没場所化しているのである。

 

(※1)インタビューには「制作に1年半をかけた」という発言があったが、わたしは、あたかも3日間ぐらいで撮り上げられた作品であるかのような印象を抱いた。もちろん、本作が3日間で撮れるわけもなく、長期間にわたっての粘り強い撮影と試行錯誤があってこそ可能な作品であることは間違いない。ただ重要なのは、それにもかかわらず、本作が徹頭徹尾(後に詳しく述べるように)撮影スタッフが漁船乗船「初日」に撮ったかのようなテンションを保ち続けていることである。

 

(※2)ただし終盤、テレビ(ラジオ?)をぼやっと見つめている漁師の姿をフィックスで捉えているショットだけは、他のショットとは踏み込みのレベルが違っており、漁師のある種の内面に切り込むようなそぶりを見せている。このショットには、映画全体のありかたを揺るがすような「ブレ」が含まれているように思う。

 

   *

 

そして本作は、「美しい映像」を選択する手つきにかんしても、異様な無邪気さを持っている。

 

新しいビデオカメラを手にした者は、最初は撮影するという行為そのものが新鮮で、楽しい。身の回りのものに無差別にカメラを向けて試し撮りをしてみるだろう。あれこれ撮り方を変えてみることで、肉眼で見るのとは全く異なる世界が切り取られることに驚き、はしゃぐのだ。

 

しかしふつう、そうした驚きは長続きしない。ただ映像が記録されることには満足できなくなり、さらに映像作家を志す人間であれば、繰り返し撮影を続けるうちに、いかにも「美しい」といった感じの映像を撮ることに飽きてくる。そして、ちょっと構図を崩してみたり、溜めをつくってみたり、ゆるめてみたり、ひねりを加えてみたり、ダサかっこいい感じを加えてみたりして、大人の階段を登っていくのである。

 

しかし『リヴァイアサン』の制作者たちは、大人の階段を登らないことを選択する。すなわち、はじめて手にしたビデオカメラで無邪気に遊ぶ子どものままでいることを選ぶのだ。

 

本作には、同じ対象を、時間をかけてくり返し撮影してきたことによってこそ生まれるようなショットが見られない。言い替えれば、ちょっと構図を崩してみたり、溜めをつくってみたり、ゆるめてみたり、ひねりを加えてみたり、ダサかっこいい感じを加えてみたり……といった操作がほとんど見られず、徹頭徹尾、漁船乗船「初日」のテンションで撮られたかのような映像が続くのである。

 

何も知らずに船に乗り込んで、眼についた目新しいものに反射的にカメラを回す。面白そうなところを見つけては手当たり次第にカメラを設置して、いろんな角度からの撮影を試してみる。記録された映像を再生してみて、「うおー!こんなの撮れた!」「やべえ、すげえ!」といった態度で大はしゃぎする……そんな制作者の歓喜する姿が思い浮かぶようだ。

 

ここまで徹底的に「新しい玩具(カメラ)を買ってもらって無邪気にはしゃぐ子ども」の視点でつくられた映画があるということに、わたしは大きく心を動かされた。その意味で、やはり本作の主役は漁船・漁師ではなく、GoProというテクノロジーでもない。主役はあくまで、カメラの背後にいる制作者たちだと断言したいのである。