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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

我々はテクノロジーではない

 


映画『トランスフォーマー/ロストエイジ』最新映像第2弾 - YouTube

 

映画『トランスフォーマー/ロストエイジ』公式サイト

 

※少々ネタバレ有り

 

トランスフォーマー/ロストエイジ』を観たが、まだうまく事態を理解できていない。前三部作とはキャストが一新しているが、そればかりではなく、映画の方針そのものが大きく転換しているように思える。

 

方針転換が成功しているのか失敗しているのかは分からない。傑作とも駄作とも言いがたい。そうした言葉で語ること自体が的外れなような気もする。くり返し劇場に足を運んで楽しめるような映画ではないが、少なくとも、マイケル・ベイというひとりの作家にとって、ある転機となる重要な作品であることは間違いない。

 

前半から中盤にかけては、マイケル・ベイの映画作品としては、かなり低調な部類に入る。失笑するほかないお下劣なギャグは抑えられ(これは大歓迎すべき改善点)、これまでと比べるとずいぶん真面目に家族のドラマが語られるが、ところどころに挟み込まれるアクションシーンには、それほど目新しさがない。あれ?これだけ?という感じが拭えない。

 

とは言え、もしもこれが他の監督が制作したハリウッド・ブロックバスターなのであれば、どこをとっても映画のクライマックスに持って来れるような、派手で完成度の高いアクションの連続ではある(この一年に公開された大作の中でも、突出していると思う)。しかしやはり、マイケル・ベイの映画としては物足りないと感じる。彼に対する期待値がどれだけ高くなっているかということに、ふと気づかされる。

 

こうした不満は、しかし、終盤の数10分で完全に覆される。その映像は、一度観ただけでは何が起こっていたのか理解することもままならない。ありえないものが動く。ありえない場所から降ってくる。ベタな感想であると思いながらも、「眼は未開の状態で存在する」というブルトンの言葉(たしかスタン・ブラッケージもこの言葉を引用していたような気がする)を思い出す。まだこんなにも眼は新鮮さを感じられる。知らなかった運動に触れることができる……。

 

しかし、この映画でもっとも印象に残るのは、中盤に唐突にオプティマスプライムが叫ぶ、次の言葉である。

 

「我々はテクノロジーではない」

 

ここで『トランスフォーマー/ロストエイジ』は突然、『ゼクレアトル〜神マンガ戦記』の世界へと突入する。オプティマスは唐突に観客たちに向かって語りかける。

 

「我々は命を持った存在なのだ。テクノロジーではない。人類に都合良く利用されながらも、力を尽くして戦ってきた。アクションシーンをこなしてきた。にも関わらず、人類は我々を軽蔑して「ポルノ」や「ドラッグ」呼ばわりする。実写映画は現実の写し鏡であるかのように賛美され、手描きアニメーションは手づくりの暖かみが愛されるのに、なぜVFXによって命を吹き込まれた者はこうも虐げられ、敵視されなければならないのか。アニメーションという言葉の語源が「動かないものに命を与えて動かすこと」であり、動くことが「命」であるならば、我々も立派な生命ではないか。」

 

もちろん作中にこんな台詞はない。しかしわたしは混乱する。こんな言葉が、スクリーンからずっと聞こえてくるのだ。「これが最後だ、もう一度だけ」と言いながら人類のために戦うオプティマスの動作のすべてがどこか投げやりに見えるのは、きっと気のせいではないだろう。機械が(テクノロジーが)戦っているのではない。うんざりとした表情を浮かべながら投げやりに戦う彼の姿は、たしかに命を持っているようにしか見えない。これを、適当な初期値を投げ込んでおけば勝手にコンピュータがつくってくれるVFX映像と片付けてしまって、ほんとうに良いのだろうか?

 

分かっている。すべて気のせいだ。これは、わたしがマイケル・ベイという「立場なき」映画作家に肩入れしたいがために見てしまっている幻であり、偏りすぎた解釈なのだ。そう思っていると、いよいよ映画は終わりを迎えるところである。またしても人類の危機を救ったオプティマスは、唐突にこんなことを言いだす。

 

「創造主(クリエイター)に会いに行く」

 

彼はそう言って、ひとりで宇宙へと飛び去っていく。ああ、きっとその先にはマイケル・ベイが待っているのだろう。ベイはオプティマスに何と声をかけるのだろうか。居酒屋で二人、肩を寄せ合って愚痴でもこぼすのだろうか。