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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

上映&トーク「風景/映画再考」

お知らせ 映画 郊外論

 

10月15日(土)に原將人氏とMAORI氏、10月16日(日)に比嘉賢多氏を鳥取にお招きして、SAKAE401で上映&トークイベント「風景/映画再考」をおこないます。

 

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映画は「かつてあった」場所を記憶し、「来るべき」風景を映し出す。

日本と映画の起源をめぐる旅を続ける伝説の映画作家・原將人×MAORIと、沖縄と大和の間にある心的ラインを浮き彫りにするドキュメンタリーを世に問うた新鋭・比嘉賢多を迎えておこなう本上映は、わたしたちが生きるこの場所、この国の姿を見つめ直すための絶好の機会となるでしょう。

 

Vol.1 日本の起源をたどる映画の旅 『MI・TA・RI!』

ゲスト・原將人×MAORI
2016年10月15日(土)上映16時30分/トーク18時
※トークには比嘉賢多氏も参加予定。
SAKAE401鳥取市栄町401本通ビル3階)

入場無料

 

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『MI・TA・RI!』(ライブ上映)
監督・脚本・撮影・編集・音楽・主演:原將人×MAORI
8ミリフィルム・ビデオ、3面複合スクリーン、90分、2002年
歌と語り、ビデオプロジェクターと2台の8ミリ映写機による3面マルチスクリーンで上映されるライブ映画。
原將人は、生まれ育った東京を離れ、移住した京都で、いつしかパートナーとなった真織と出逢い、結婚をして、新しい命を迎える。歴史ある美しい京都での日常を取り巻くデイリーなドキュメンタリーから、広島、沖縄へ。起点と終点を同じくする結果となったロードムービー。第1回フランクフルト国際映画祭・観客賞を受賞。

【原將人 HARA Masato】1950年生まれ。映画監督。高校在学中に映画『おかしさに彩られた悲しみのバラード』を制作し、第1回東京フィルムフェスティバルグランプリとATG賞を受賞。以後、日本の個人映画の牽引者として精力的な活動を行う。代表作に、個人映画・風景映画の傑作『初国知所之天皇』(1973年)、広末涼子の初主演作『20世紀ノスタルジア』(1997年)など。

【MAORI】1973年生まれ。アーティスト。『MI・TA・RI!』(2002年)や『あなたにゐてほしい』(2015年)で原將人との共同監督や主演を務める。2001年には、初監督作品『原発通信創刊号』が第1回フランクフルト国際映画祭に正式招待された。

 

Vol.2 不可視のラインをめぐって 『沖縄/大和』『大魂込み』

ゲスト・比嘉賢多
2016年10月16日(日)上映16時30分/トーク18時30分
※トークには原將人氏とMAORI氏も参加予定。
於 SAKAE401鳥取市栄町401本通ビル3階)
入場無料

 


沖縄 / 大和 予告編

 

『沖縄/大和』
監督・撮影・編集:比嘉賢多 ビデオ、99分、2014年
沖縄と大和の双方に対して違和感を抱える日本復帰後世代のウチナーンチュ。彼らにとって米軍基地は生まれた時から身近にあるものであり、一方で、沖縄の文化や風習を知らないままに育ってきたという実感もある。監督の比嘉は、様々な世代や立場の異なる人々の言葉に耳を傾けるうちに、沖縄と大和の間にある心的な「ライン」というテーマを見出していく。 

『大魂込み(うふまぶいぐみ)
監督・撮影・編集:比嘉賢多 ビデオ、17分30秒、2015年
沖縄の喜屋武部落を中心として、繁華街や牧場、観光地など人々の日々の暮らしが垣間見える風景に、沖縄語(ウチナーグチ)によるナレーションが重ね合わせられた映像詩。

【比嘉賢多 HIGA Kenta】1991年沖縄生まれ。映画監督。映画制作を中心に、論考の執筆、映画上映会運営などの活動をしている。現在、沖縄に在住しながら、作品制作中。近年の上映・展示に「PFFアワード2014」「座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル2015」、「沖縄 戦後70年美術プロジェクト すでぃる」(摩文仁平和祈念資料館、2015年)など。

 

主催:鳥取大学地域学部附属芸術文化センター

企画:佐々木友輔(sasakiyusuke(a)rs.tottori-u.ac.jp)

平成28年度鳥取大学長経費事業

アンドレ・バザン「写真映像の存在論」

書籍 メモ

 

アンドレ・バザン「写真映像の存在論」(『絵画の諸問題』1945年からの再録)

『映画とは何かⅡ 映像言語の問題』小海永二訳、美術出版社、1970年

 

造形芸術の歴史は類似性の歴史である

・「もしも造形芸術に対して精神分析が行われるとしたら、屍体の防腐保存の慣習は、造形芸術の発生のための基本的な一要因と見なされるかもしれない。」(p.13)
・絵画や彫刻の起源にはミイラ《コンプレックス》がある。古代エジプトの宗教では、人間の肉体をそのままのかたち・外見で保存することによって、時間の流れに抗い、死後も生命が存続できると考えた。
・しかし、ピラミッドという保管庫は確実な安全が保障されているわけではなく、何らかの事故で肉体が損なわれてしまう恐れがある。そこで彼らは、ミイラの代用品として、テラコッタの小像を置いた。そこには、彫像制作の宗教的な起源に、「人間の生命をその外見の保存によって救うという機能」(p.14)があったことが示されている。
・芸術も文明も進歩を遂げた現在では「モデル」と「肖像画」との存在論的な同一性はもはや信じられていないが、肖像画はモデルを思い出すための助けとなり、モデルが忘却されるという「精神的な死」からの助けになることは認めている。その意味で、今も「外形の永続によって時間に打勝ちたいというの欲求」は根強く残っている。
・造形芸術の歴史を、美学の歴史であるだけでなく、心理学の歴史であるとするならば、それは本質的に「類似性の歴史」あるいは「リアリズムの歴史」であると言える。

 

西洋絵画の原罪

・このようなパースペクティブの中に、写真と映画を位置付ける。
・アンドレ・マルロー「映画は、造形上のリアリズムの最も進化した姿に他ならない」
・絵画は「象徴主義」と「写実主義」の間で多様なバランスを実現してきたが、15世紀に西洋の画家は、精神的な現実を様々な手段で表現するのではなく、外部世界の完全な模倣を目指し始めた。
・その上で決定的な役割を果たしたのが「透視画法」の発明である。透視画法によって、人間が肉眼で見ているのと同じような、三次元空間の錯覚をつくりだすことが可能になった。
・それ以来絵画は、「精神的の表現という美学的な願望」と「外部の世界をその複製で代用させたいという純粋に心理的な願望(錯覚への欲求)」の間で引き裂かれるようになった。
・偉大な芸術家は、常にこの二つの願望を統合してきたが、錯覚への欲求は非常に誘惑が強く、徐々に造形芸術の均衡を破壊していった。
・リアリズムに関する論争は、真のリアリズム(この世界の具体的で同時に本質的な意味を表現したいという欲求)と、偽のリアリズム(形体の錯覚によって満足するだまし絵。目を騙すのではく、精神を騙す絵)の混同から生じている。
・「透視画法は西洋絵画の原罪なのだった。」(p.17)

 

原罪からの救い主

・「ニエプスとリュミエールとは、その原罪からの救い主だった」(p.17)
・写真と映画は、物理的に完全な模倣をするわけではない(色彩の模倣などはまだ絵画より劣っている)が、「人間を締め出したメカニックな再現」であることによって、わたしたちの錯覚への(心理的な)要求を満足させる。
・それゆえ、写真の出現によって造形芸術は、モデルを完全に模倣する欲望から解放された。近代の画家は類似性のコンプレックスから解放され、それを大衆のものである「写真」や「写実のみに専念する類いの絵画」に引き渡した。

 

写真の本質的な客観性

・「従って、絵画と較べての写真の独自性は、その本質的な客観性にある。(中略)最初の事物とその表現との間にもう一つの事物(レンズもしくはカメラを指す)以外は何一つ介在しないというのは、これが初めてのことだった。厳密な決定論に従えば、外部世界のが人間の創造的干渉なしに自動的に形成されるというのは、これが初めてのことだった。」(p.19)
・すべての芸術は、人間の存在が前提として成り立っている。例外的に「人間の不在」を享受できるのは、写真だけである。
・写真の美しさは《自然現象》として観者に働きかけてくる。写真家は被写体や構図を選択することによって自らの個性を発揮できるものの、それは画家の個性ほど重要なものには成り得ない。
・「写真におけるこのような自動的な形成は、の心理学を根本的にひっくり返した。」
・写真は「事物からその再現物へのの移動によって利益を得ている」のであり、どれだけ観者が批評精神を発揮しても、そこに表象された事物の存在は信じざるを得ない。
・絵画はもはや「類似性」という点では写真よりも劣る技法の一つに過ぎない。事物そのものを完全に何かによって代用させたいという欲求を満足させる「事物の」を与えてくれるのは写真レンズだけである。
・ピントが外れたり形が歪んだりしている写真のもあるが、それもモデル本体から生じたものである。「写真の映像は、モデルそのものなのである。」(p.22)

 

(原註)

・本来はここで、写真と同様にミイラ・コンプレックスに由来するの移動によって利益を得ている《聖なる遺物》と《形見》との心理学についても検討する必要がある。
・「トリノの聖なる屍衣(聖ヴェロニカ)」は、《聖なる遺物》と写真との統合を果たしている。

 

映画・写真の美学的な特性

・映画は、写真の客観性を時間の中で完成させたものである。
・絵画の美学とは異なる写真の美学的な特性は、「現実を露わにさらけ出す力を持つという点」にある。(p.23)
・「ただレンズの非情さだけが、事物から、それにまつわる慣習や偏見を、また、われわれの知覚がそれを包んでいるすべての精神的な垢や埃を、きれいにさっぱりと洗い落として、それをわれわれの注意力の前に、従ってまたわれわれの愛情の前に、汚れない無垢の姿で返してくれることができる。われわれの知らなかった、あるいは見ることのできなかった一つの世界の、自然なままのを見せてくれる写真のおかげで、自然は遂には芸術を模倣する以上のことをなしとげる。自然は芸術家を模倣するに至るのである。」(p.23)
・「解放であると同時に歓声でもある写真は、西洋絵画が写実への執念を決定的にぬぐい去り、その美学的な自立性を回復することを可能にした。」(p.24)
・「他方では、映画は一種の言語でもある。」(p.25)

 

 

映画とは何か(上) (岩波文庫)

映画とは何か(上) (岩波文庫)

 

 

映画とは何か(下) (岩波文庫)

映画とは何か(下) (岩波文庫)

 

 

 

 

にんげん研究会2016 第3回「土屋誠一に聞きたい!100のこと」

お知らせ 書籍

 

8月25日(木)に鳥取の「たみ」にて、にんげん研究会の第3回「土屋誠一に聞きたい!100のこと」が開催されます。近辺にお住いの方はぜひお越しください。

 

トーク「土屋誠一に聞きたい!100のこと」

ゲスト:土屋誠一氏(沖縄県立芸術大学准教授)
聞き手:田中優 門脇瑞葉 (鳥取大学筒井宏樹研究室)

日 時|2016年8月25日(木)19:00〜
場 所|たみ
参加費|無料
企画|鳥取大学にんげん研究会(地域学部五島・仲野・小泉・筒井研究室)
お問い合わせ|ninninninlab(a)gmail.com
http://www.tamitottori.com/news/log/201608_927.html

https://www.facebook.com/ningenkenkyukai/posts/537790396

 

 

ゲンロン3 脱戦後日本美術

ゲンロン3 脱戦後日本美術

 

 

トークの開催にあたって、予習も兼ねて土屋氏の論考「一九四五以前の「沖縄美術」?」(『ゲンロン3 脱戦後美術』所収)を読んだ。以下メモ。

 

土屋は、「対ヤマト」的でも「ポストコロニアリズム」的でもない「沖縄美術」を構築することは可能か? という問題意識のもと、その手がかりとなるような、近代以後の沖縄を取り巻く言説の検討を進めていく。

「王国時代の美術工芸品」に価値を置く鎌倉芳太郎と「無名の陶工による雑器」に価値を置く濱田庄司の棲み分け(対立)、柳田國男折口信夫らによる言語を媒介とした空間把握による沖縄の原型探求の試みが概観された後、その試みを引き継いで特異な議論を提示した人物として人文地理学者・仲松弥秀の名が挙げられる。

沖縄における「神と村」の空間的配置を検討した仲松が示したニラスク(はるか海の彼方に存在する理想郷)という水平的世界観は、垂直的世界観を強いる階層社会それ自体を批判するアナキズムであり、日本への同化も、カウンターとしての国民国家の形成をも拒む。

土屋はそこに沖縄固有の視触覚的な空間を生み出す可能性を見出し、冒頭の問いへの答え、すなわち「対ヤマト」的でも「ポストコロニアリズム」的でもない「沖縄美術」立ち上げのヒントがあるのではないかと論じている。

先行する言説の蒐集・整理にとどまらず、そこで得られた知見を徹底的に「使えるもの」として提供しようという姿勢が一貫しているように感じられ、作家としてはただただありがたい。もちろんこれだけで自分自身の意識や立場がポストコロニアリズム的なものから逃れられるはずもないのだけれど、取りつく島のない状況で、それでもなお「引き返す」という選択肢をとらずに進んでいくための羅針盤があることは大きい。

ポール・シュレイダーの「超越的スタイル」

映画 書籍

 

聖なる映画―小津/ブレッソン/ドライヤー (1981年)

聖なる映画―小津/ブレッソン/ドライヤー (1981年)

 

 

ポール・シュレイダー『聖なる映画——小津/ブレッソン/ドライヤー』(山本喜久男訳、フィルムアート社、1981年)についてのメモ。

 

 脚本家・映画監督のポール・シュレイダーは、「超越者を表現する映画のもっとも普遍的な表現形式」を「超越的スタイル」と名付け、そのスタイルを全面的に展開した映画作家として小津安二郎ロベール・ブレッソン、不完全ではあるが部分的に用いた作家としてカール・テオドア・ドライヤーの名を挙げている。彼らはそれぞれ異なる個性や文化・政治的背景を持つが、芸術を通じて超越者を表現しようとする欲求と映画というメディア固有の性質とが相まって「驚くほど共通した映画形式」をつくりだすに至った。
 超越的スタイルは目に見えないものや言葉にできないものを表現することを目的としているが、そのスタイル自体は「現世的な手段」によっておこなわれるのであり、分析や定義付けが可能である。

 では具体的に、超越的スタイルとはどのような方法なのか。シュレイダーは哲学者ジャック・マリタンの『宗教と文化』(甲鳥書林、1944年)を引き、「豊かな手段」と「貧しい手段」の二分法を導入することで説明を試みている。

 さしあたり豊かな手段とは、人間が現世で生を維持したり、財産を得たり、官能的な気分を味わったりするための手段を意味している。これを映画に置き換えると、観客を物語にのめり込ませ、自然に登場人物への感情移入を促すような働きが豊かな手段であるとされる。

 一方の貧しい手段は、現世での物質的成功や快楽ではなく精神向上のための手段であり、豊かな手段よりも高位で、超越的なものにより近いているとされる。映画における貧しい手段とは、端的に言って豊かな手段を用いないことと同義である。従って、何かしら特殊な方法を新たに生み出す必要はないとシュレイダーは述べている。

 超越的スタイルは、映画がそのメディアの性質上得意とする豊かな手段の使用から出発しつつ、時間の経過の中で段階的に豊かな手段の使用を減らし、貧しい手段の比率を増やしていく。

 具体的には、まずは日常的なものによる「乖離」の段階がある。映画に描かれるありふれた日常は観客にとって親しみがあり、そこに生きる人々への感情移入も生じやすいが、一方で、決まりきった仕事や生活が繰り返される反復的な日々を、淡々と、厳格に描き出していく小津やブレッソンの日常描写は、その表現形式自体が前景化し、物語への没入を拒む異化効果を生じさせる。これが乖離である。

 そしてさらに豊かな手段を減少させていき、やがて貧しい手段が最大となった段階が「静止状態」と呼ばれる。それはブレッソンの『ジャンヌ・ダルク裁判』における火刑後の柱のショットのように、一つの映画の終わりを示唆する静的な光景である。しかしそこには「神秘主義の深淵」が大きな口を開いており、観客は静止した映像の向こうへとずんずん進んでいく。シュレイダーは、これこそが聖なる芸術の「奇跡」なのだと主張する。

ネット映画は曲がりなりにも成熟しつつある/レヴァン・ガブリアゼ『アンフレンデッド』

映画にとってインターネットとは何か 映画

 

www.youtube.com

 

泥酔動画をウェブにアップされたことを苦に自殺した女子高生ローラ・バーンズ。一年後、イジメの加害者たちにSkypeFacebookを通じて接触してきたのは、死んだはずのローラを名乗るアカウントだった。そのアカウントは彼らが隠し持つ秘密やイジメの実態を暴露し、さらには一人ずつを嬲るようにして死に追いやっていく。

ナチョ・ビガロンドの野心作『ブラック・ハッカー』(2014年)等と同様、全編がパソコンおよびモバイル端末のGUI画面で進行する。日本公開用のオフィシャルサイトには「斬新」「映画の見方を根底から揺さぶる超問題作」「まったく新しいホラー」といった賛辞が並ぶが、現実には『ブラック・ハッカー』や『デス・チャット』(サカリー・ドナヒュー、2013年)、『サイバー・ストーカー』(ブランデン・クレイマー、2015年)といった先例があり、水面下で動いている企画も数多くあると聞く。手法自体の目新しさはすでにないと言って良い(わたし自身、昨年『落ちた影/Drop Shadow』という作品を制作している)。これらのフィルムをわたしは「デスクトップ・ノワール」と呼んでいる。インターネットに備わる強い主観性と匿名性が世界への不信感と厭世的なムードを煽る、現代のフィルム・ノワールだ。

本作に新規性があるとすれば、ショッキングな殺害描写こそ動画チャット(Skype)の実写映像に委ねているものの、全編の多くの部分をテキスト主体のメッセージのやり取りやマルチウィンドウの操作で構成し、それでいてダレることのない軽快なリズム感を維持できていることだろう。作中人物もしくはナレーターがテキストを読み上げるのではなく、観客に直接画面の文字を読ませる形式を採用しているにも関わらず、こうしたテンポの良さが生まれている要因は、長文を読ませるのではなく、チャットやLINEのように一言か二言の短い文を矢継ぎ早に表示させることで観客の負担を減らすと共に、単調になりがちなGUI画面に動きを持たせていることにある。

こう書くとあまりに単純なことのように思えるが、映像の編集経験がある者にはその難しさが分かるだろう。観客個々の「読む」速度の違いを考慮しつつ、物語を停滞させずに必要なテキストを読ませることは、インターネットを描こうとする映画が常に直面する大きな課題であった(そして大抵のフィルムは、この問題を迂回して動画チャットなどの実写映像に頼ることで、結局インターネットを描くことの意義そのものを見失ってきた)。本作がそれなりの好評を博しているのは、暗中模索を続けてきたネット映画の試みが曲がりなりにも成熟しつつあることを示している。

にんげん研究会2016 第1回「地域と映画」

お知らせ


すでに終了したイベントですが備忘録として。6月に鳥取大学の学生が中心となって活動している「にんげん研究会」で自作について話しました。高校時代に制作した『手紙』(2002年)への質問があってドギマギしつつも、これまでの活動を振り返る良い機会になりました。

 

にんげん研究会第1回「地域と映画」
日時|6月23日(木) 19:00?21:00
参加費|1ドリンクオーダー
場所|ゲストハウスたみ
企画運営|鳥取大学にんげん研究会(地域学部仲野・五島・小泉・筒井研究室)
にんげん研究会 / おしらせ - Tami Tottori

石川卓磨「教えと伝わり」TALION GALLERY

アート

 

石川卓磨「教えと伝わり」TALION GALLERYを見た。

以下、鑑賞直後の雑感(展示は5月1日まで)。

 

タリオンギャラリーでは2年ぶりとなる個展「教えと伝わり」では、3人の女性が登場するダンスレッスンの場面をもとに、新作の映像と写真作品を展示します。3人の女性は講師、デモンストレーター、聴講者であり、ひとつの「ダンス」がそれぞれの動作によって伝えられ、不安定なリズムのなかで完成しつつ解体していく過程があらわれます。(プレスリリースより)

 

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モノクロの画面上で、カタカタとぎこちない身体の運動が繰り広げられる。初期映画の運動を徹底的に解体・再構成するケン・ジェイコブスを思わせるが、制作プロセスは大きく異なっている。会場で配布されていたステートメントによれば、「デジタルカメラで高速連写した写真を千枚以上つないで再生」しているとのこと。事後的な編集による操作(だけ)ではなく、講師とデモンストレーターによる「教えと伝わり」の過程に、カメラを回す撮影者とその映像も、当事者として巻き込まれているわけだ。

 

じっさい「教えと伝わり」の関係は、講師からデモンストレーターへの関係(デモンストレーターから講師への関係)には留まらない。別の壁面に投影される三人目の出演者=聴講者は時折、眼の前で繰り広げられるダンスレッスンを模倣するような動きを見せる。講師から聴講者へ。あるいはデモンストレーターから聴講者へ。またあるいは、講師とデモンストレーターから聴講者への「伝わり」が記録される。

 

しかし石川は、そうしたドキュメンタリー的瞬間を相対化するべく、聴講者の手の動きをあからさまに強調するクローズアップ・ショットを挿入してみせる。これは映画なのだという「教え」。それにより、その手の動きが演出なのではないかという可能性が観客に「伝え」られる。「教えと伝わり」の関係は、作者としての石川と聴講者との間にも、そして作品から鑑賞者の間にも形成されていることが示唆される。

 

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カラックスの『ホーリー・モーターズ』を想起させる、モーションキャプチャ用のスーツのような衣装を着た人物が映る写真作品が示しているように、本作は観客に対して、人間の知覚への反省を促す。

 

モーションキャプチャによって得られた運動の記録は、そのままではとても使い物にならないというのはよく聞く話だ。人間の身体の運動は、われわれが想像しているほど滑らかなものではない。ただ腕をぐるりと回す動作だけをとってみても、肩の凝りが運動を鈍らせる瞬間、関節の引っ掛かり、速度の修正、その他様々な要素が滑らかな回転運動を妨害する。

 

高速連写した写真による間断的な運動も、そうした滑らかではない身体の動作を強調する。30fpsや24fpsではそれほど意識に上らない、本来の「正しい」軌道に対する身体のズレが、映像的に増幅され、可視化されるのだ(ただしそれだって、編集の際に意図的に組み込まれたズレではないとは言い切れないのだが)。

 

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石川は映画と美術を横断する作家であると言われる。しかし、「映画をハッキングする」等と言いながら、その実、作品の見栄えを良くしたいがためだけにいかにも「映画的」なルックを選択する美術家が後を絶たない中、石川が特別に「映画と美術を横断する」作家であると言われるのはなぜだろうか。

 

本作において、その根拠は「聴講者」の存在によって示されている。講師、デモンストレーター、聴講者という三者の中で、もっともキャスティングの必然性が薄い(恣意性が高い)のが聴講者だ。彼女はダンスを教える責任も教わる責任も負わされていない。その役割をこなすために必要な技能があるわけでもない。傍観者としてただそこに居れば良い。

 

従って、聴講者を演じるキャストは、「教えと伝わり」という主題が要請する必然性だけでは選ぶことができない。多少なりとも、異なる根拠を持ち込まなければならない。そこで動員されるのが映画史的記憶である。特に何をするわけでもなく、ただ佇んでいるだけで記憶に残る顔。それは、明らかに美術ではなく、映画が主要な関心としてきたものだ。石川は映画を模倣するのではなく、映画の問題に正面から取り組んでいる。要するに、映画を撮っている。

 

石川は過去にも鑑賞者の表情に着目した作品を手がけているが、それに限らず、本作の聴講者が浮かべる表情は、これまでの石川作品の出演者たち皆が浮かべていた表情と「同じ」であると言い切ってしまおう。その顔は間違いなく、映画作家としての石川卓磨の象徴なのだ。

 

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石川卓磨 個展「教えと伝わり|Lessons and Conveyance」

2016年4月2日(土)-2016年5月1日(日)
TALION GALLERY
オープニングレセプション:2016年4月2日(土) 18:00-20:00