藤田直哉 編著『地域アート――美学/制度/日本』
挑発的な内容を想像していたけれど、おおよそどの論考・討論も納得のいく主張というか、地域アート(と本書で定義されているもの)について考える上での重要な論点が出揃っている。ある文を読んで疑問に思ったところが即座に次の論考で説明されるというように、隙がない。この隙のなさは、かなり意図的に、丹念に準備されたものなのだろう。聞き手に回る藤田直哉さんの姿勢は終始謙虚で、もう少し対話者に意地悪でもいいのに、とも。
地域アートに批評は可能か?という問いについて。「アートの参加観察みたいなことは可能なんですが、そうするとたぶん当事者の体験談になってしまう。そうではなく、外部から全体を把握し、他のプロジェクトなどと公平に比較し、美術史や同時代の中で「評価」するとなると、それは個人でしかない批評家一人の手には負えない作業です」と藤田さんは語っている。けれどそれは、演劇であれパフォーマンスであれ、絵画であれ彫刻であれ、映画であれ、変わらないのではないかと思う。一人の人間が一年に公開されるすべての映画を見ることができないばかりか、一本の映画だって「あなたは実は見ていないのでは?」と問われるのだから。
シネフィル的に地域アートを巡る批評家が現れると面白いなと思う。本書では、肯定的に言及される作家やプロジェクトの例に対して、批判すべき地域アートについての具体例や記述が乏しいために、その語り口が対象を不当に貧しいものにしているのではないかという疑念が生じる部分がある(ファスト風土論など、問題提起のためにあえて各地域の内実を精査することなく十把一絡げに批判する「病理としての郊外」論に似た違和感を抱く)。藤井光さんが自身の体験を踏まえて語るような大小様々なネゴシエーションを、抽象化したり演出的にほのめかすのではなく、具体的かつ愚直に記述していく仕事を誰かがしなければならないのだろう(とは言え、おそらくわたしが知らないだけで、そういう仕事はすでに無数におこなわれているのではないかとも思う)。
そういえば、地域におけるアートプロジェクトでわたしがもっとも印象に残っているのは、数年間ずっと古い家の掃除をするというプロジェクトだった。そこに何かあるのではないか。何かが起きているのではないか。そういう感触を持ち続けながら、いまだにそれが何なのかはよく分かっていない。自分としては珍しく、まだしばらくは無理に言葉にしようとせず寝かせておこうと思っている。