『バットマンvスーパーマン』についてのメモ
Batman v Superman: Dawn of Justice - Official Final Trailer [HD]
『Batman v Superman: Dawn of Justice』(バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生)の鑑賞前、Twitterに次のようなことを書いた。
ザック・スナイダーは「スーパーマンの実在を信じる」聖なる映画作家であり、それを信仰のリアリティと速度×重さによる過視的映像により実現しようとしている。すなわち、ブレッソンとマイケル・ベイを出会わせた作家がザック・スナイダーである、という仮説です。
では、実際に見た『BvS』はどうだったか(一応ネタバレ注意)。
残念ながら、「映画」としては決して褒められた出来ではない(※)。明らかに力みすぎで散漫な構成、分かる人にだけ分かれば良いという不親切さの一方で、稚拙ともとられかねない「神と人」の扱い。ザックらしい決めショット(ワンダーウーマンの昔の写真最高!!!)も、ショットの連なりの中では活きていない。クライマックスのアクションさえ、いささか単調。
しかし、それがどうしたと言うのか?
ザック・スナイダーの映画を「映画」として見る必要など初めからなかったのだ。事前に触れておいたように、スーパーマンの実在を信じているか否か。それだけが問題だ。
明らかに唐突に挿入される、メタヒューマンたちを捉えた動画。そして終盤、彼らを仲間と呼び、彼らを探しに行くと言うバットマン(ブルース・ウェイン)。次作を見据えて強引に組み込んだ展開とみなされても仕方がないが、ここでメタヒューマンたちが物語の流れで自然に集まってくるのではなく、わざわざ「探しに行く」と明言されることが重要だ。マーベルのシネマティック・ユニバースでも多数のヒーローが集結するが、彼らは集結するのであって、探しだされるわけではない。数ある選択肢の中から「探しに行く」が選ばれている。
この世界では時折、何らかの条件を満たした者に神がかり的な事態が起きる。それは奇跡と呼ばれたり、病と診断されたりするだろう(MOSはまさにそのようにして描かれていた)。スーパーマンもバットマンも、レックス・ルーサーも、何かが降りてくる経験をした(広義の)人間だ。誰にも理解されないことの孤独を抱え、同類を探し求めている。あろうことかザックは、街を破壊された人びとに対してではなく、ヒーローたちの孤独に深く共振する。この映画が力みすぎで暴走気味なのも、その共感過剰ゆえだ。
ある人は、ザック自身が仲間を探しているのだと言った。この映画はそのメッセージだ、極論すれば映画はここで終わっても構わないのだ、と。
なるほど。ザック・スナイダーはスーパーマンの実在を信じている。そして、そうであるがゆえに、彼は「映画」という枠組みを超えたところでも仲間を探している。ジャスティス・リーグはDCエクステンディッド・ユニバースに結成されるだけではないのだ。
そう。ザック・スナイダーはジャスティス・リーグの実在も信じている。
※ここで言う狭義の「映画」とは何か、「「映画」として」とはどういうことかについては、これまでの論考やブログで散々書いてきているので、そちらを参照してください(「三脚とは何だったのか」とか)。映画と映画でないものを隔てる意識的・無意識的な思考を一貫して批判し、映画という枠組の拡張に努めてきたという前提の上に、この文は書かれています。
石川卓磨《6 seconds of 2028》
マイケル・マン『ブラックハット』2015年
マイケル・マンの『ブラックハット』を見た。『アベンジャーズ』でマイティ・ソーを演じるクリス・ヘムズワースが、刑務所からの釈放と引き換えにサイバー犯罪組織を追うプログラマーを演じている。
コンピュータに関する天才的な能力と鍛え抜かれた身体を併せ持つ武闘派ハッカーを平然と主人公に据えたマイケル・マンは、ネット社会という題材を得てもこれまでと変わらない作劇を貫く。すなわち、重く響く銃声、孤独な男たちの友情、渇いた都市の風景。前半に二度挿入されるコンピュータ内部のCG映像も都市の温度にぴったり揃えられている。
このように従来の美学を重んじ、ネット映画としての冒険はあまり見られないフィルムだが、物語の展開がスパイ映画のフォーマットに近似しているのは興味深いところだ。
本作のサイバー犯罪を監修したマイケル・パニコの「今、あらゆる装置がインターネットに繋がって来ているでしょ。そうやって、何もかもをオンラインにする世の中へと急速に向かってる」という言葉は、ハッキング描写自体の工夫や正確さよりもむしろ、活劇の舞台を世界規模でめまぐるしく移行させることへのもっともらしい理由付けとして要請されたのではないか(「マイケル・マンが描く現代ネット社会の闇『ブラックハット』がリアルすぎて必見!」)。
グローバルに暗躍するスパイという設定が現代性を失い、その反動として古風でロートルなスパイの悲哀が好んで描かれる現在、かつてスパイと呼ばれたものが担った役割の一部はハッカーへと受け継がれているのだ。
ブラックハット ブルーレイ+DVDセット [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
- 発売日: 2015/10/08
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映画批評のハイブリッド化――「完全映画」が現れてくるかもしれないという夢想は可能だ
「図書新聞」の最新号に、昨年参加したトークイベントの採録が掲載されています。近年の映画を巡る状況について、率直に語っています。
図書新聞 No.3239 2016年01月23日
映画批評のハイブリッド化――「完全映画」が現れてくるかもしれないという夢想は可能だ
渡邉大輔×佐々木友輔×冨塚亮平×三浦哲哉
ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評
批評サークルの限界研が、『ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評』(南雲堂)を上梓した。サブタイトルからも明らかなように、今回のテーマは「映像」。一〇人の論者が、映画、ネット動画、ゲーム実況などさまざまな映像表現に鋭いメスを入れている。編者の渡邉大輔氏をはじめ、寄稿者の佐々木友輔氏、冨塚亮平氏、そしてゲストに映画批評の三浦哲哉氏を招いて行われた刊行記念トークイベントの模様をここに採録する。(収録日・11月17日、ジュンク堂書店池袋本店にて)
佐々木友輔監督作品『新景カサネガフチ』『落ちた影/Drop Shadow』上映会&トーク
2015年に見た新作映画ベスト20
2015年に見た新作映画のベストです。『スターウォーズ』観終えたので追記しました
今年見た映画は新作/旧作と劇場/自宅合わせて320本。ベストの最初の5本は、未知の何かを見せてくれたもの、ひたすら遠くまで連れて行ってくれたもの。しばしば映画を見ていて「人間」観が貧しすぎると感じるのですが、そんな不信を良い意味で裏切ってくれたフィルムたち。6本目以降は、ある面では保守的とも感じられるのだけれど、別の面でとても果敢な、映画の枠を軋ませるような挑戦があり、ワクワクさせてくれる瞬間のあったフィルムが並んでいるように思います。
あらためて、わたしは映画に「よくできている」ことなどまったく求めていないのだと感じます。ハリウッド大作の暴走にも近い魅力が飼いならされ始め、「よくできている」ことが(商業的にも批評的にも)大きな価値であるという空気が広がっているここ数年。来年はもっと凶悪で歪な映画が生まれてくることを祈っています(ザックへのエアリプ)。
わたしが彼女を見た瞬間、彼女はわたしを見た
「わたしが彼女を見た瞬間、彼女はわたしを見た」最終日のアーティスト・トークにゲストとして参加します。
展覧会「わたしが彼女を見た瞬間、彼女はわたしを見た」
出品作家|青柳菜摘とだつお、金川晋吾、門眞妙
会期|2015年12月11日(金)~26日(土)
時間|12:00~20:00 ※木曜日休廊
Artist Talk & Closing Party|26日(土)17時~20時(ゲスト:佐々木友輔)
会場|新宿眼科画廊スペースM、S、E
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「わたしが彼女を見た瞬間、 彼女はわたしを見た」展示作家:青柳菜摘とだつお、金川晋吾、門眞妙 見てきました。ステイトメントに掲げられた「メディウム」の意図は、実際の展示を見るとすんなり理解できる。
しかしこれ、どう言葉にすれば良いのだろうという(トークを前にしての)難問感と、こういう展示ができて羨ましいなあという気持ちが第一印象。
「わたしが彼女を見た瞬間、 彼女はわたしを見た」の方法論は、小田原のどかさんの「わたしはいま、まさに、ここにいる」展にも通じるものがある気がした。作家の組み合わせにより何かしら方向付けられたビジョンを示すというよりは、類似と衝突によって解釈可能性を無限に増殖させていくような。
ひとまずは「顔」の複数性と同一性の問題と「メディウム」の複数性と同一性の問題の重ねあわせが議論の出発点になるだろうか。あとは、さらに前提として、三者ともメディウム(メディア)の扱いが非常に巧い。その技巧をどう評価するべきか。
そんなわけで、時間をかけて考えることを促されるような、鑑賞者が試されているような、野心的な展示です。オススメ! 時間と心に余裕があれば(ないかも)まとまった感想など書きたいですが、ひとまず初見の印象でした。