『この世界の片隅に』の風景
前のエントリにも関連するが、映画『この世界の片隅に』の息苦しさは、風景の解像度の高さに因る。「保存再生癖」、「アーカイブ構築癖」とでも言うべきその欲望は、画面に映る風景をその片隅まで、隈なく凝視せよと観客に迫る。
そこに映る風景は、風景のプロが見る風景だ。そしてそれゆえ、その風景は常に日常の風景からは遠ざかり続ける。ほんらい、わたしたちの日常的な場所の経験は、気散じ的な、無自覚で対象化未然の目の利用によって構成されているのであり、その意味では、ここには「日常」も「片隅」もない。焦点の合わないものこそが「片隅」と呼ばれるべきではないか。
『この世界の片隅に』の風景は、民族資料館などの「当時の生活再現ブース」にかぎりなく接近している。「次はこれをご覧ください、これはこのように使うものです、ちなみに当時はこういうこともありました……」主人公の要領の悪さを利用して、登場人物たちがていねいに展示物のキャプションを読み上げてくれる。物語にもまた、逃げ場のない、徹底した対象化の欲望が充満している。