映画にとってインターネットとは何か(4) ネットワーク殺人ゲームへの招待
グレゴリー・ホブリット『ブラックサイト』
2008年にグレゴリー・ホブリットが制作した『ブラックサイト』は、インターネットの動画中継を利用した公開殺人事件を描いたサスペンス映画だ。
サイバー犯罪の取り締まりを担当するFBIの捜査官ジェニファーはあるとき、薄暗い室内で動物が虐待されて死に至るまでの様子が生中継される「killwithme.com」というサイトの存在を知る。当初はFBIもそれほど重大な事件だと考えていなかったが、新たな中継で拘束された人間の男性が映し出されたことにより事態は一変。首謀者はサイトへのアクセス数に応じてこの男に薬物が投与されるシステムを構築しており、「kill with me」(一緒に殺す)という名称の通り、多くの人びとが野次馬的にサイトにアクセスすればするほど男の死期が早まることになる。結局ジェニファーらの努力も虚しく拘束されていた男は死亡。首謀者はさらなる犯行をかさねていく。
本作もまた、ネットワーク利用犯罪を描いたフィルムのひとつである。しかし前回取り上げた作品群と比較すると、観客に「この犯罪は現実に起こり得る」と思わせるような説得力を持たせることにはそれほど力が注がれておらず(もちろん、現実にこうした事件が起こり得ないというわけではないが)、むしろ、白熱灯を用いた火傷死や硫酸の注入など趣向が凝らされた殺人描写からは、ホラーというジャンルの様式美へのこだわりのほうが強く感じられる。また、殺人行為に明確なルールが存在する点と、プレイヤー(ここでは、サイトにアクセスする人びと)の努力や手腕次第で結末を良いものにも悪いものにも変えられるという点で、ルドロジー研究者イェスパー・ユールが定義する意味での「ゲーム」的な要素が強調されたフィルムとして本作を捉えることも可能だろう(イェスパー・ユール「ゲーム,プレイヤ,ワールド:ゲームたらしめるものの核心を探る」、2003年)。
インターネットで殺人ゲーム
コンピュータ・ネットワークとゲーム的要素を結びつけた映画と言えば、ひとりの高校生のハッキングをきっかけとする米ソ全面核戦争の危機を描いた『ウォー・ゲーム』(ジョン・バダム、1983年)が真っ先に思い浮かぶが、これは本稿の分類では「ハッカー映画」に該当するだろう。『ブラックサイト』のようにネットワーク利用犯罪とゲーム的要素が結びついた例としては、2001年にケン・ジロッティが制作した『殺人ドットコム satujin.com』(原題「hangman」)が挙げられる。本作では、人質にとられた人物の命を救うために、イギリスに古くから伝わる「ハングマン」というゲームに勝利しなければならない。プレイヤーが制限時間内に出題者の考えた単語を当てることができなければ、ライブ中継の画面に映る人質は首を吊られて殺されてしまうのだ。
ただし『殺人ドットコム satujin.com』では、ライブ中継を見てゲームに参加するのは警察署内の人物に限られており、不特定多数が同時にアクセスできるというインターネットの特性を活かせているとは言いがたい。これに対して、翌年の2002年に制作された『マーダー・ネット』(マティアス・ルドゥー)や『処刑・ドット・コム』(マーク・エヴァンス)では、誰もが巻き込まれ得る殺人ゲームの設定を採用しており、ネットワーク利用犯罪の「もっとも身近な犯罪」としての側面とゲーム的要素をうまく結びつけている(『マーダー・ネット』については後ほどあらためて論じる)。
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日本では、福田陽平が2010年に『殺人動画サイト Death Tube』とその続編『殺人動画サイト Death Tube 2』を発表している。密室に監禁された8人の男女が、生死を賭けて、熊の着ぐるみを着た殺人サイトの管理人・ポン吉の出題する様々なゲームに挑戦するホラー映画だ。明らかにYouTubeを意識したタイトルだが、実際のところ、物語や設定の直接的な参照元はニコニコ動画やニコニコ生放送である。ゲームの様子はすべてネット中継されており、画面上には視聴者たちのリアルタイムのコメントが流れている。8人のプレイヤーもそのコメントを見ているので、視聴者の言葉からゲーム攻略のヒントを探ることもできるのだ。
マティアス・ルドゥー『マーダー・ネット』
2002年にマティアス・ルドゥーが制作した『マーダー・ネット』では、ウェブカメラを設置して私生活のライブ映像を配信していた女性が、部屋に押し入って来た何者かによって殺害される。コンピュータの専門家である青年トマスがその配信を見ており、警察に通報。サイバー犯罪を専門とする刑事クレアと共に事件の謎に迫っていく。やがて2人は、この事件は会員限定の殺人映像配信サイト「スナッフ・リンク」が起こしたもので、スナッフ・リンクはこれまでからライブ映像配信をおこなう孤独な若者たちを狙って犯行を繰り返していたことを知る。本来ならば、会員以外の者はアクセスが遮断されて殺人映像を見ることはできないはずであったのだが、トマスはある手掛かりからパスワードを入手し、予期せず事件を目撃することになったのだ。
本作では、有料会員になれるだけの資金を持った富裕層や権力者たちが加害者として描かれる一方で、被害者として選ばれるのは——ライブ映像配信をおこなう程度の知識はあっても、インターネットについて専門的な技術や知識を持ち合わせているというほどでもない——言わば「一般市民」たちである。マーク・エヴァンスの『処刑・ドット・コム』でも同様の構図が採用されており、多額の賞金に釣られて山荘に集った若い男女が、会員限定の殺人映像配信サイトの見世物として、生死を賭けたサバイバル・ゲームをくりひろげる。両作共に、被害者はそれぞれの趣味や好奇心、欲望のためにインターネットにアクセスし、気づかぬうちに恐ろしい犯罪に巻き込まれてしまうのである。
ここでインターネットは、三浦展が指摘するところの「悪所」として描かれているのだと言えるだろう(『ファスト風土化する日本―郊外化とその病理』洋泉社、2004年)。三浦によれば、かつて悪所は都市の繁華街や飲屋街など特定の場所性に縛られており、どこに行けば危険でどこに居れば安全かの判断も比較的容易であった。ところがインターネットなどの登場による社会の情報化は、悪所の遍在化を押し進めた。パソコンや携帯電話などを利用することによって、いつでもどこからでも悪所にアクセスできるようになる。あるいは、いつでもどこでもが悪所になり得る。その結果、地方の田園のような一見平和で安全に見えるような場所でも犯罪に遭遇するリスクが高まったと、三浦は指摘するのだ。『マーダー・ネット』と『処刑・ドット・コム』は、こうした情報化がもたらす不安を巧みに利用して、観客にとっての身近な恐怖を演出している。
ただの被害者ではいられない
しかし『マーダー・ネット』には、上述した被害者と加害者の構図に揺さぶりをかける、二つの変化が埋め込まれている。このことをもう少し詳しく見てみよう。
ひとつめは、スナッフ・リンク事件を追う刑事クレアの心情の変化である。クレアはサイバー犯罪の専門家という設定を持ちつつも、実のところ、役回りとしては「インターネットにはあまり詳しくなく、そこで起こっていることに恐れや不安を感じてもいる」ような観客の視点を担っている。そんな彼女は当初、トマスの覗き趣味や、私生活をライブ中継していた事件被害者たちの感情が理解できなかった。しかし囮捜査のために「私生活をライブ中継する孤独な若者」を演じることになったクレアは、四六時中カメラに囲まれて過ごす中で、次第に見られることの快楽に目覚めていく。ここでは、まったく自覚がないまま犯罪に巻き込まれることの恐怖だけではなく、自ら進んで危険に身を晒そうとする心理も描かれているのだ。
そしてもうひとつは、観客の立ち位置の変化である。映画のラストシーン、主要人物のひとりが何者かに狙撃されて倒れたところでショットが切り替わり、事態に気づいた周囲の人びとが駆け寄ってくる様子が粗い解像度のモノクロ映像で映し出される。さらにゆっくりとカメラが引いていくと、そのモノクロ映像はモニタ上に分割して表示された複数の動画のうちのひとつであったことが明らかになり、画面の下部には「WELCOME TO SNUFFLINK.NET click enter to continue」という一文が表示される。ここで、『マーダー・ネット』という映画を見ていた観客の視点は、殺人映像配信サイトを楽しんでいた有料会員の視点とかさね合わせられる。全編に渡って、事件に巻き込まれた人物たちの側に立って物語を見守っていたはずが、突如として加害者側に立たされることになるのだ。そして続くエンドクレジット、背景にはカメラのレンズらしきものが映し出され、そのレンズは観客のほうに向けられている。こうして観客の立場は、見られる側と見る側、被害者側と加害者側との間で揺れ動いていくのである。
『マーダー・ネット』で示された加害者としての観客という発想は、6年後に制作された『ブラックサイト』や、さらにその2年後に制作された『殺人動画サイト Death Tube』にも受け継がれている。『ブラックサイト』では、アクセス数が増えれば増えるほど人質の命が危険に晒されるというのに、無責任な人びとは新たな殺人ゲームが開始されるたびにサイトに押し掛けた。『殺人動画サイト Death Tube』では、ゲームクリアに失敗して無惨に死んでいく者を嘲笑するコメントが画面上に溢れ返った。両作は共に、殺人映像配信サイトの管理者や運営者以上に、その動画を見る視聴者=観客である「この私」の暴力性やグロテスクさを強調して、描き出しているのである。