映画にとってインターネットとは何か(3) 身近な犯罪、遠い分身
デヴィッド・スレイド『ハードキャンディ』
日本で問題となった「オヤジ狩り」に想を得てデヴィッド・スレイドが制作した映画『ハードキャンディ』(2005年)は、30代のフォトグラファー・ジェフと14歳の少女ヘイリーが出会い系サイトでチャットをしているシーンから始まる。ジェフはヘイリーと実際に会う約束をし、さらに巧みな話術で彼女自宅に誘うことに成功する。しかし、それはすべてヘイリーの仕掛けた罠だった。彼女が打ち明けた自らの家庭環境も、音楽の好みも、ヘイリーという名さえも、すべては偽りだったのだ。彼女は睡眠薬入りのカクテルを飲ませてジェフを眠らせ、椅子に縛り付けて身体を拘束。やがて意識を取り戻したジェフに対して、彼の男性器を切り落とすことを宣告する。
「わたしはあなたが欲情したすべての少女だ。」
ヘイリーがジェフに投げかけるこの言葉は、ジェフという男が過去にもインターネットを通じて無数の少女たちを家に連れ込んでいたのだという物語上の「事実」と同時に、ヘイリーという少女の匿名性と入替可能性――要するに、この犯行を実行するのが彼女ではない他の誰かでもあり得たという可能性——を示してもいる。さらに言えば、ジェフもまたここでは入替可能な存在として、別の人間でも有り得た存在として扱われていると考えて良いだろう。
これまで、出会い系サイトやSNSを通じて無数の「ジェフ」と「ヘイリー」が出会い、未成年への性犯罪が起きてきた。いや、もちろんインターネット以後に限らず、それ以前にも様々な経路・手段を通じて犯罪はおこなわれてきたのだ。そうした過去を踏まえて、ヘイリーは固有名詞を持ったひとりの人間としてではなく、被害にあった無数の少女たちの代理人として、同じく加害者たちの代理としてのジェフに復讐を敢行する。「赤ずきん」をモチーフとしたメインビジュアルが示すように、本作は未成年への性犯罪を戒める教訓的な寓話なのだ。
ネットワーク利用犯罪
『ハードキャンディ』には、前回取り上げた二つのハッカー映画のようなハッキングやクラッキングの描写は出てこない。警視庁は、インターネットなどコンピュータ・ネットワークを利用した「サイバー犯罪」の具体的な内容について、①コンピュータ犯罪(コンピュータ又は電磁的記録を対象とした犯罪)、②ネットワーク利用犯罪(コンピュータ・ネットワークを手段として利用した犯罪)、③不正アクセス事犯(不正アクセス禁止法に違反する行為)の三つに大別しているが(警視庁ウェブサイト「ようこそ 情報セキュリティ広場へ」)、この分類に当てはめるなら、前回取り上げたハッカー映画は主に①や③に、そして『ハードキャンディ』のような事例は②のネットワーク利用犯罪に該当するだろう。
ネットワーク利用犯罪のその他の事例としては、インターネット・オークションでの詐欺、掲示板への犯行予告の書き込み、SNSの情報を利用したストーカー行為などが挙げられる。こうして並べてみると——ハッカー映画の影に隠れているのか普段はあまり意識しないものの——ネットワーク利用犯罪を扱った映画も数多くつくられていることがすぐに了解されるはずだ。例えばジェズ・バターワースが2002年に制作した『バースデイ・ガール』では、出会い系サイトで結婚相手を「注文」した銀行員が犯罪事件に巻き込まれていく様がコミカルに描かれ、同年に園子温が制作した『自殺サークル』では、インターネットで知り合った女子高生たちが一斉に駅のホームに飛び降りて集団自殺をする姿がショッキングに映し出された。佐藤祐市が2009年に制作した『守護天使』では、ある女子高生に一目惚れした男が、その女子高生に成り済まして偽ブログを更新している何者かの存在に気づき、彼女を救おうと奔走する。あるいは李相日が2010年に制作した『悪人』でも、出会い系サイトで知り合った女を成り行きで殺してしまった男と、同じく彼と出会い系サイトで知り合った孤独な女との逃避行が描かれていた。このように、大々的に「インターネットを扱った映画」と紹介されることのないような作品の中にも、ネットワーク利用犯罪はたびたび登場するのである。
もっとも身近な犯罪
ただし、残念ながら、これらのフィルムの中にインターネットの描写に関して特筆すべき表現を見かけることは稀である。と言うのも、そもそもネットワーク利用犯罪はコンピュータやインターネットに関する専門的な知識や技術を必ずしも必要としない犯罪であり、また「インターネットを利用する」と言っても、殺人やストーキング(尾行や嫌がらせ)といった具体的な犯行自体はあくまで現実空間上でおこなわれるからだ。ネットワーク利用犯罪を描くためには、『マーダーネット』のように登場人物が全編にわたってモニタを見つめキーボードをカタカタと叩き続き続ける必要はないし、VFXを駆使して無理に情報空間を視覚化する必要もない。基本的には『ザ・インターネット』のように物語を転がすための契機やアクセントとしてのみインターネットを登場させれば良いのだし、さらに言えば、『ハードキャンディ』のように冒頭に数ショットだけチャットをするシーンを入れておけば、その事件がネットワーク利用犯罪であることの説明としては充分である。要するに、ネットワーク利用犯罪を描く映画はハッカー映画と比べてインターネットの描写に掛かる負荷が極端に軽いのだ。
しかし、だからと言ってネットワーク利用犯罪を扱った映画を考察対象から外してしまうことは性急に過ぎる。なぜならインターネットとは、その技術的条件に精通したハッカーや専門家だけが独占して使用するものではなく、どのような仕組みでそれが動いているのかも知らないような者も含めた無数の非・専門家たちに開かれ、日々の生活の中で利用されているものだからだ。
2013年の日本におけるサイバー犯罪の検挙状況を確認してみると、ネットワーク利用犯罪の件数は全体の8割を占めている(警視庁広報資料「平成25年中のサイバー犯罪の検挙状況等について」)。現在インターネットを利用している大多数の人びとにとっては、ハッカーによるハッキングやクラッキングよりも、ネットワーク利用犯罪のほうがより身近で、遭遇する可能性の高い犯罪なのだ。従って、インターネットの技術的側面だけを取り出して見るのではなく、それを社会に埋め込まれたものとして捉えようとするならば、ネットワーク利用犯罪を扱った映画もまた決して見過ごすことはできないだろう。
岩井俊二『ヴァンパイア』
2012年に岩井俊二が制作した『ヴァンパイア』もまた、ネットワーク利用犯罪の絡んだ物語を寓話的に描き出したフィルムである。冒頭、高校教師のサイモンは、自殺願望を持つ者が集うウェブサイトで知り合った「ジェリーフィッシュ」と名乗る女と待ち合わせをする。共に自殺をする約束をしていた2人は、車で郊外にある誰もいない倉庫に移動。採血の針を使い、身体の血を抜いて死ぬ方法を実行に移す。ところがサイモンは、先にジェリーフィッシュの血を抜いて彼女の死亡を確認すると、血を貯めた瓶を持ってその場から離れる。実は彼には吸血の嗜好があり、自殺幇助をすることで人間の血を得ていたのだ。
本作においてインターネットは、目的や趣向を同じくする者同士が出会うきっかけとして機能している。そして岩井はこれを利用することで、吸血のために殺人をおこなうサイモンと快楽殺人者レンフィールド、自殺サイトに集う女たちとサイモンに自殺願望を告白する女生徒のミナというように、複数の「分身」的な対応関係を設けている(『ユリイカ2012年9月号 特集=岩井俊二』で渡邉大輔が論じているように、分身は岩井作品に頻出するモチーフである)。
ここで興味深いのは、本作における「分身」が、『ハードキャンディ』で示されていた入替可能性とは異なる部分に力点が置かれているように見えることだ。『ハードキャンディ』では、ヘイリーが性犯罪被害者たちの代理をつとめることで個々人の差異が抽象化され、「同一」であることが強調されていた。これに対して『ヴァンパイア』では、同一性よりもむしろ——ある部分では似た者同士であるからこそ浮き彫りになる——決定的な「差異」のほうが強調される。例えばサイモンは自殺幇助とは言え殺人に手を染めておきながら、レンフィールドの快楽的で暴力的な殺人・吸血行為に嫌悪感を覚える。また彼は女たちの自殺を積極的に手助けする一方で、ミナには自殺を思いとどまらせようとし、彼女の危機には自らの血を輸血のために差し出しさえする、といったように。そこに描かれているのは、条件次第では自分もこうであったかもしれないが、どこかで決定的に違う道を歩むことになった、遠い分身の姿なのだ。
映画/分身/インターネット
分身のモチーフは『ヴァンパイア』や『ハードキャンディ』に限らず、先に挙げた『悪人』や『守護天使』、あるいは『純愛譜』(イ・ジェヨン、2001年)など、インターネットを扱ったフィルムの多くに見られるものである。またあるいは、渡邉大輔がジェームズ・キャメロンの代表作『アバター』(2009年)について、「分身の増殖」という主題が重層的に積み重なっていく構造を持ったフィルムだと指摘すると同時に、作中に散りばめられたウェブの隠喩やビデオログの描写から「ウェブ的なもの」と「映画的なもの」が相互に反転と分裂を繰り返す構造を読み取り、「「ウェブ的なもの」と「映画的なもの」とが相互に「アバター」=分身としてある」という可能性を(若干の留保をつけながらも)示唆していたことを思い起こしても良いだろう(「ウェブの見る夢=映画──ジェームズ・キャメロン『アバター』」、flowerwild.net、2010年)。このように、映画とインターネットはしばしば分身というモチーフを介して結びつくのである。
ただしここから短絡して、分身のモチーフを、インターネットを扱った映画にのみ顕著な特徴として捉えることは誤りである。なぜなら映画は、インターネットの登場以前から繰り返し分身を描いてきたからだ。ヒッチコックの『めまい』(1958年)をはじめとして、一人二役や合成などを駆使して分身を登場させるフィルムが膨大に撮られていることを鑑みれば、そもそも映画は分身を描くことを得意分野としてきたのだとも言えるだろう。一方、インターネットもまた、現実空間と情報空間での異なる人格や、複数アカウントの使い分けなど、分身のモチーフと関連づけて語られることの多いメディアであった(「アバター」という語自体、「自分の分身となるキャラクター」を意味するインターネット用語として転用・使用されてきたものである)。要するに、全体的には大きく異なる性質を持っている映画とインターネットにとっての共通項であり、接点となり得たのが、分身のモチーフだったのだ。
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映画とインターネットが分身を介して出会うこと。しかし、両者が得意としてきた分身が果たして「同じもの」であったかどうかにはもう少し注意を向けておくべきだろう。例えば渡邉が先の論考で指摘したように、映画『アバター』の世界設定は、リンデンラボ社が運営している「セカンドライフ」のようなネット上の3D仮想世界の隠喩として形成されている。しかし当のセカンドライフは、テキストベースのSNSなどに押されて徐々に存在感を失い、「失敗」に終わったと評する者も多いのが現状である。『アバター』が世界中で大ヒットを記録し、21世紀の映画のメルクマールとしての評価を固めつつあるのに対して、セカンドライフのような3D仮想世界をベースとしたウェブサービスは、現在のインターネットの主流にはなれていないのだ。こうしたズレにこそ、映画とインターネットの——ある部分では似た者同士であるからこそ浮き彫りになる——決定的な差異が現れているのではないだろうか。