「実験映画」という語をめぐって
以下、Twitterから少々修正して転載。
「「実験映画」への疑義、その歴史的前提」。その前提、問題意識には同意するけれど、ここで挙げられている作家たちが本当に「実験映画」的文脈を回避し得る活動を展開できているのかはこの文からは判断できない。まだ一部のみの公開という事なので、どのような「回避」の戦略が用意されているのか、またそこからどのような可能性が拓けるのか、続きに期待したい。
自分自身の制作のスタンスについて言うと。私が2004年に大学に入学した時点ですでに「実験映画」という言葉を知らない学生が大半で、求心力はほとんど失われていた。その語を口にすることで起こる硬直よりも、何を口にしようがすぐさまぐずぐずに溶解してしまうような状況を如何に打開するかのほうが私にとっては切迫した問題かもしれない。
いまや一部の作家や研究者の間でしか共有されていない「実験映画」という語と自らの距離を図る身振り自体が、それを一つの虚構として制度化し、延命させる行為なのではないか。しかしそれは必ずしも悪いことではない。ぐずぐずな状況にアドホックに楔を打ち込むために「実験映画」を活用しようとするならば。
要するに私は、「実験映画」という語にただ疑義を呈したり回避しようとするよりも、むしろそれを積極的にタグとして活用したほうが良いのではないかという立場。そのタグを通じて作品を見る/つくる事と、それを外して見る/つくる事は両立できる。その都度分析のスケールを変えていけば良い。
あと、やはり「個人映画、その逸脱の非構造」というテキストはそれ自体が選別・排除の身振りに満ちていて素直に受けとることができない……。重要な批判であることは認めるけれど、「個人映画」という語に対するかなり(意図的に)偏った解釈であることも確かだと思う。
その辺りは来年発表予定のテキストで詳しく書く……かも。今は頭が回りません。