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『ジャスティス・リーグ』について


JUSTICE LEAGUE - Official Trailer 1


映画を見るモチベーションががっつり下がっている。原因はもちろん『ジャスティス・リーグ』を見てしまったから。いや、優れた3D映画は原理的に見ることができない(涙でメガネが曇るから)。この後、いかなる映画が自分を高揚させてくれるというのか?

 

ジャスティス・リーグ』の不幸は、紆余曲折のあった製作過程や、どこがザック・スナイダーの担当でどこがジョス・ウェドンの担当なのかといった下世話な興味のために多くの言葉が費やされてしまったことだ。好んで分断を生じさせ、一つの映画として見ることをやめてしまった。

 

しかしぱっと見の印象とは裏腹に、スナイダーとウェドンはそれほど対極的な作家ではない。確かに経緯を考えると仲は良くないかもしれないし、制作の方法論も大きく異なるが、目指す所はかなりの程度一致している。

 

例えば両者の代表作『バットマンvsスーパーマン』と『アベンジャーズ:エイジ・オブ・ウルトロン』は、それぞれスーパーマンとビジョンという超越的存在の出現、彼らに「感染」する人間たち、神話としてのヒーロー映画といった共通のモチーフを持つ、まるで双子のようなフィルムである。

 

違いばかりを探し回って、フィルムをバラバラに切り裂くと、こうした基本的な共通点を見過ごしてしまう。バットマンとスーパーマンが共に「主役」であるように、『ジャスティス・リーグ』もどちらか一人の作品として見るのではなく、あくまで「二人の監督作品」として見ることが必要だろう。

 

ザックによるディレクターズカットが見れるのならいつか見てみたいとは思うが、それが存在したからと言って現行の『ジャスティス・リーグ』が否定されるわけではない。その都度新たな『ジャスティス・リーグ』が生まれるという、ただそれだけのことだ。

 

スーパーマンとビジョンが巨大なブラックボックス(聖なるマクガフィン)となり、そこを爆心地として変容する世界を描いてきた両者の路線は『ジャスティス・リーグ』にも引き継がれている。スーパーマンの復活は『AoU』のビジョンを反復する。富豪の回心、正義への信頼、雷による再起動。

 

ジャスティス・リーグ』は長らく過小評価され続けてきた「正義」が本来持つ途轍もなさ、そこから生じる畏怖をフィルムに焼き付ける。全編を通じてもっとも恐ろしさを感じる瞬間が、翔けるフラッシュを見つめるスーパーマンの「顔」であるのはきっと誰もが認めるところだろう。

 

死んだ人間を復活させることの是非が問われるなか、一足早く奇跡に立ち会ったバットマンだけが知っている、スーパーマンは人間ではないと。映画の冒頭で語られるように、希望の光は絶えぬ川の流れのように回帰し続ける。車のキーのように、無くしても探せばすぐ傍にある。

 

ステッペンウルフの不甲斐なさは、『ジャスティス・リーグ』が光と闇、善と悪の二項対立図式を否定していることを示している。同作において悪とは、プログラムに生じる「バグ」であり、腐臭に群がり喰い合う者たちであり、それゆえあらゆる場所に発生し得るが、やがて自滅せざるを得ない。

 

ここで『ジャスティス・リーグ』と『The OA』は、無差別で理不尽で無根拠なジャスティスという主題を共有する。我々は理由なき悪意や殺意に曝されることにばかり怯えているが、人間に知り得るなんの理由も前触れもない奇跡や救いが訪れることへの畏怖を長らく忘れていた。

 

ジャスティス・リーグ』のヒーローは己の進むべき道を直進する。密室的空間を舞台に、障壁をぶち抜いて駆け抜けるアクションを幾度も反復する。悪が彼らを壁に叩きつけ、停止させようとしても、決して止まることなく、迂回することもなく、ひたすら直進し続ける。こんなの泣くしかない。

 

とりあえず2017年は『ジャスティス・リーグ』『グレートウォール』『アサシン・クリード』『パワーレンジャー』『TF 最後の騎士王』と、とんでもない映画をわんさか見ることができて素晴らしかった。この辺りの映画はすべて、一つのシネマティック・ユニバースを形成している。

 

人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅

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