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アンドレ・バザン「写真映像の存在論」

 

アンドレ・バザン「写真映像の存在論」(『絵画の諸問題』1945年からの再録)

『映画とは何かⅡ 映像言語の問題』小海永二訳、美術出版社、1970年

 

造形芸術の歴史は類似性の歴史である

・「もしも造形芸術に対して精神分析が行われるとしたら、屍体の防腐保存の慣習は、造形芸術の発生のための基本的な一要因と見なされるかもしれない。」(p.13)
・絵画や彫刻の起源にはミイラ《コンプレックス》がある。古代エジプトの宗教では、人間の肉体をそのままのかたち・外見で保存することによって、時間の流れに抗い、死後も生命が存続できると考えた。
・しかし、ピラミッドという保管庫は確実な安全が保障されているわけではなく、何らかの事故で肉体が損なわれてしまう恐れがある。そこで彼らは、ミイラの代用品として、テラコッタの小像を置いた。そこには、彫像制作の宗教的な起源に、「人間の生命をその外見の保存によって救うという機能」(p.14)があったことが示されている。
・芸術も文明も進歩を遂げた現在では「モデル」と「肖像画」との存在論的な同一性はもはや信じられていないが、肖像画はモデルを思い出すための助けとなり、モデルが忘却されるという「精神的な死」からの助けになることは認めている。その意味で、今も「外形の永続によって時間に打勝ちたいというの欲求」は根強く残っている。
・造形芸術の歴史を、美学の歴史であるだけでなく、心理学の歴史であるとするならば、それは本質的に「類似性の歴史」あるいは「リアリズムの歴史」であると言える。

 

西洋絵画の原罪

・このようなパースペクティブの中に、写真と映画を位置付ける。
・アンドレ・マルロー「映画は、造形上のリアリズムの最も進化した姿に他ならない」
・絵画は「象徴主義」と「写実主義」の間で多様なバランスを実現してきたが、15世紀に西洋の画家は、精神的な現実を様々な手段で表現するのではなく、外部世界の完全な模倣を目指し始めた。
・その上で決定的な役割を果たしたのが「透視画法」の発明である。透視画法によって、人間が肉眼で見ているのと同じような、三次元空間の錯覚をつくりだすことが可能になった。
・それ以来絵画は、「精神的の表現という美学的な願望」と「外部の世界をその複製で代用させたいという純粋に心理的な願望(錯覚への欲求)」の間で引き裂かれるようになった。
・偉大な芸術家は、常にこの二つの願望を統合してきたが、錯覚への欲求は非常に誘惑が強く、徐々に造形芸術の均衡を破壊していった。
・リアリズムに関する論争は、真のリアリズム(この世界の具体的で同時に本質的な意味を表現したいという欲求)と、偽のリアリズム(形体の錯覚によって満足するだまし絵。目を騙すのではく、精神を騙す絵)の混同から生じている。
・「透視画法は西洋絵画の原罪なのだった。」(p.17)

 

原罪からの救い主

・「ニエプスとリュミエールとは、その原罪からの救い主だった」(p.17)
・写真と映画は、物理的に完全な模倣をするわけではない(色彩の模倣などはまだ絵画より劣っている)が、「人間を締め出したメカニックな再現」であることによって、わたしたちの錯覚への(心理的な)要求を満足させる。
・それゆえ、写真の出現によって造形芸術は、モデルを完全に模倣する欲望から解放された。近代の画家は類似性のコンプレックスから解放され、それを大衆のものである「写真」や「写実のみに専念する類いの絵画」に引き渡した。

 

写真の本質的な客観性

・「従って、絵画と較べての写真の独自性は、その本質的な客観性にある。(中略)最初の事物とその表現との間にもう一つの事物(レンズもしくはカメラを指す)以外は何一つ介在しないというのは、これが初めてのことだった。厳密な決定論に従えば、外部世界のが人間の創造的干渉なしに自動的に形成されるというのは、これが初めてのことだった。」(p.19)
・すべての芸術は、人間の存在が前提として成り立っている。例外的に「人間の不在」を享受できるのは、写真だけである。
・写真の美しさは《自然現象》として観者に働きかけてくる。写真家は被写体や構図を選択することによって自らの個性を発揮できるものの、それは画家の個性ほど重要なものには成り得ない。
・「写真におけるこのような自動的な形成は、の心理学を根本的にひっくり返した。」
・写真は「事物からその再現物へのの移動によって利益を得ている」のであり、どれだけ観者が批評精神を発揮しても、そこに表象された事物の存在は信じざるを得ない。
・絵画はもはや「類似性」という点では写真よりも劣る技法の一つに過ぎない。事物そのものを完全に何かによって代用させたいという欲求を満足させる「事物の」を与えてくれるのは写真レンズだけである。
・ピントが外れたり形が歪んだりしている写真のもあるが、それもモデル本体から生じたものである。「写真の映像は、モデルそのものなのである。」(p.22)

 

(原註)

・本来はここで、写真と同様にミイラ・コンプレックスに由来するの移動によって利益を得ている《聖なる遺物》と《形見》との心理学についても検討する必要がある。
・「トリノの聖なる屍衣(聖ヴェロニカ)」は、《聖なる遺物》と写真との統合を果たしている。

 

映画・写真の美学的な特性

・映画は、写真の客観性を時間の中で完成させたものである。
・絵画の美学とは異なる写真の美学的な特性は、「現実を露わにさらけ出す力を持つという点」にある。(p.23)
・「ただレンズの非情さだけが、事物から、それにまつわる慣習や偏見を、また、われわれの知覚がそれを包んでいるすべての精神的な垢や埃を、きれいにさっぱりと洗い落として、それをわれわれの注意力の前に、従ってまたわれわれの愛情の前に、汚れない無垢の姿で返してくれることができる。われわれの知らなかった、あるいは見ることのできなかった一つの世界の、自然なままのを見せてくれる写真のおかげで、自然は遂には芸術を模倣する以上のことをなしとげる。自然は芸術家を模倣するに至るのである。」(p.23)
・「解放であると同時に歓声でもある写真は、西洋絵画が写実への執念を決定的にぬぐい去り、その美学的な自立性を回復することを可能にした。」(p.24)
・「他方では、映画は一種の言語でもある。」(p.25)

 

 

映画とは何か(上) (岩波文庫)

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映画とは何か(下) (岩波文庫)

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