読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

qspds996

揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

映画にとってインターネットとは何か(5) ニューメディアと幽霊

映画にとってインターネットとは何か

 

 この連載は、現在わたしが制作を進めている新作長編映画『落ちた影/Drop Shadow』(仮)の制作ノートです。neoneo webでの連載「Camera-Eye Myth/郊外映画の風景論」で展開した現実空間の場所論では扱うことのできなかった、人間の活動空間としてのインターネットを題材として、映画はそれをどのように描くことができるのか、あるいは描くことができないのかについて、先行する映画作品の分析をもとに考察していきます。

 

 ジム・ソンゼロ『パルス』

 新しいメディアの登場には怪談がつきものである。今回は、現在の科学では説明不可能な超常現象を扱ったホラー映画とインターネットとの関係を見てみたい。最初に取り上げるのは2006年にジム・ソンゼロが制作した『パルス』。黒沢清『回路』(2001年)のハリウッド・リメイク作である。

 


Pulse (2006) - Official Trailer - YouTube

 

 冒頭、コンピュータに詳しい大学生ジョシュが、自宅で首吊り自殺をしているのが発見される。第一発見者であり、ジョシュの恋人であったマティは、携帯電話やパソコンに死んだはずの彼からメッセージが届くことを不安を感じ、友人のストーンにジョシュのパソコンをシャットダウンするよう頼むが、ストーンもまた生気を失い、やがて姿を消してしまうのだった。折しもその頃、アメリカの各地で行方不明事件が多発。マティは、ジョシュのパソコンに表示される「幽霊に会いたいですか?」(Do you want to meet a ghost?)という一文と、続けて映し出される自殺のライブ映像を見て、そのウェブサイトが一連の行方不明事件に関わっていることを悟る。

 

 

 大筋は『回路』の物語を忠実になぞっているし、印象的な「飛び降り」と「墜落」のシーンも丁寧に再現されている。とは言え、やはり、Jホラーを見慣れた者は無数の違和感を覚えるだろう。例えば黒沢映画に特徴的な、生きている時から死んでいるかのような佇まいの登場人物たちは、「暗い気分に浸ってないで踊りに行こうぜ」と声をかけるような軽い調子の人物像に変更されている。また、「電波の届かない場所には幽霊はやって来れない」「赤いテープは幽霊の進行を遮断する」といった分かりやすいルールが設けられており、どこにも逃げ場がないと感じさせた『回路』の不条理さ・理不尽さは良くも悪くもずいぶんと軽減されている。

 そして、誰もが感じるであろう両者の最大の違いは、なんと言っても「視覚的な派手さ」である。『パルス』では、見るからにおぞましい姿をしたクリーチャーが人間に襲いかかり、さらには『サイバー・ネット』のようにVFXを駆使した派手でノイジーな画面づくりが積極的におこなわれている。こうした演出は、リメイク版の『ザ・リング』(ゴア・ヴァービンスキー、2002年)や、Jホラー的モチーフとインターネットを組み合わせた『フィアー・ドット・コム』(ウィリアム・マローン、2002年)にも見ることができ、Jホラーを意識したハリウッド映画のひとつの特徴となっている。

 

 

 これは、Jホラーの暗く抑制された世界観では地味すぎると判断されたが故の改変(改悪)なのだろうか? どうやら、そうとも言いきれないようである。研究者の前川修は、「1998 年に公開された日本のホラー映画が地下で密造コピーされ、それが密かに出まわり、 カルト的価値をもつようになっていた」という90年代末のハリウッドにおける都市伝説を紹介し、そうした「劣化した粗い画像」が増幅させる恐怖がハリウッドのリメイク企画者の目に留まったことを指摘している(前川修「メディア論の憑依:ポスト・メディウム的状況における写真」、2011年)。そうだとするならば、『パルス』や『フィアー・ドット・コム』におけるエフェクティブでノイジーな画面を「改変」と見るのは誤りで、むしろ、ハリウッドが抱くJホラーのイメージを忠実に「再現」した結果であると見ることもできるのだ。

 

 黒沢清『回路』

 続いて、オリジナルである黒沢清の『回路』を見てみよう。『パルス』において重要なモチーフとなっていた「幽霊」「インターネット」「赤いテープで塞がれた部屋」は、もちろん本作にも登場する。ただし、その三者の位置づけや関係性は大きく異なっており、そのことが、映画がインターネットをどのように描くのかについての重大な態度の違いにもつながっているのだ。

 


回路 予告編 - YouTube

 

 「例えばさ、一番最初、それは馬鹿みたいなことで始まったんじゃないかな。」

 映画の中盤、幽霊たちがこちらの世界に進出してくるようになった経緯を大学院生の吉崎が推測するシーン。画面には、とある工場の解体作業現場の様子が映し出されている。ひとりの作業員が赤いテープで部屋の扉や窓を塞いだことから、偶然にしてこの世とあの世をつなぐ「あかずの間」がつくられてしまうのだ。やがて解体作業は進み、その建物も取り壊される。瓦礫や破れ落ちた赤いテープの傍にある電話回線の差込口に、カメラがゆっくりと近づいていく。それに合わせて鳴り響くインターネットの接続音。幽霊たちが、電話回線を通じてインターネットにアクセスし、そこから世界中に拡散して行ったことが示唆される。

 

回路 [DVD]

回路 [DVD]

 

 

 ここで興味深いのは、『回路』と『パルス』では、赤いテープの位置づけが真逆になっていることだ。『回路』では、赤いテープは幽霊を呼び出すために必要なアイテムであり、幽霊を目撃してしまった者は、赤いテープで塞がれた部屋には絶対に近づくなと友人に忠告している。一方、『パルス』における赤いテープは、幽霊の進行を遮断するためのアイテムとして設定されている。そのことを知る者は、隅々まで赤いテープを貼った密室に閉じこもることで、幽霊から身を守ろうとするのだ。

 赤いテープの位置づけが異なる以上、必然的に、幽霊出現の原因についても『回路』とはまったく異なる設定が用意されている。具体的には、『パルス』の幽霊は、ジョシュとその仲間が通信に関する研究の中で発見した未知の周波数に乗ってやってきたのだ。本作の幽霊は、一貫して電波に乗って移動する。それに対して人間も、ネットワークに侵入した幽霊をコンピュータ・ウィルスによって撃退しようとしたり、パソコンや携帯電話など電波を受信できるものが近くにない場所に移動して難を逃れるといった仕方で、事態に対処しようとするのである。

 

 メタメディア/ニューメディア

 このように、『パルス』の幽霊はその出現から拡散まで常にインターネットと密接な関わりを持っている。一方、『回路』の幽霊は赤いテープで塞がれた「あかずの間」を通じてやって来るのであり、インターネットは彼らがこちらの世界に進出するために必要不可欠なものではない。本作におけるインターネットは、幽霊に対して二次的な関わりしか持つことができていないのだ。

 どこまで意図的かは分からないが、この設定は、インターネットのニューメディア(メタメディア)としてのありかたを的確に捉えていると見ることができるのではないか。

 インターネットは、写真やテレビ、電話、書籍といった伝送形式と伝達内容が垂直統合された従来型のメディアのありかたを解体し、それらすべての機能を統合した「メタメディア」である。この語を提唱したアラン・ケイは、「最初のメタメディア」であるコンピュータについて、「さまざまな道具として振舞うことができるが、コンピュータそれ自体は道具ではない」と指摘した(『アラン・ケイアスキー、1992年、118頁)。これと同様にインターネットも、映画館で映画を見る代わりにウェブ配信を見る、本を読む代わりにブログ記事を読むといった仕方で活用されるのであり、従来型のメディアの機能とは関わりのない完全にオリジナルな活用法を想定するのは困難であろう。またメディア理論家のレフ・マノヴィッチも、『ニューメディアの言語――デジタル時代のアート、デザイン、映画』(みすず書房、2013年)において、インターネットやデジタルゲームのような「ニューメディア」の中にも、映画や写真といったオールドメディアが築き上げてきた慣習が色濃く残り、影響を与えていることを指摘している。

 以上のことを踏まえて『回路』に立ち戻るならば、「あかずの間」とインターネットの関係は、まさにオールドメディアとニューメディアの関係として捉え返すことができるだろう(赤いテープで隙間を塞いでつくりだした暗室内にぼんやりとした光(幽霊)が浮かび上がる様は、カメラ・オブスクーラ=暗い部屋を想起させる)。幽霊は「あかずの間」というシンプルかつアナログなオールドメディアによって召喚された。そして彼らは、ニューメディアであるインターネットに目をつけ、自らをデジタル化して世界中に拡散していくのである。

 

アラン・ケイ (Ascii books)

アラン・ケイ (Ascii books)

 

 

ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

 

 

 アンチ・インターネット?

 ところが、『回路』におけるインターネットの描写を詳細に見ていくと、ここまでの解釈に誤りがあることが判明する。

 実は本作の幽霊は、インターネットを「利用」してはいるが、『パルス』の幽霊のようにネットワーク上を「移動」することは一度もしていないのだ。従って当然、その幽霊は貞子のようにモニタの中から飛び出して来ることはない。彼らが作中でインターネットを利用しておこなったことは、(1)自殺志願者たちの集うウェブサイトを利用して視聴者に「幽霊に会いたいですか?」と問いかけたことと、(2)人びとに「あかずの間」のつくり方を紹介して、この世とあの世の通路を増やそうとしたことの二つだけである。インターネットを扱ったホラーという触れ込みや思わせぶりな演出によって気づきにくくなってはいるが、本作におけるインターネットは、幽霊に対して二次的どころか間接的な関わりしか持てていないのだ。

 ちなみに、黒沢清が執筆した小説版『回路』(徳間書店、2001年)に「あかずの間」は登場しない。幽霊は赤いテープが貼られたパソコンを通じてこの世界に進出し、さらにネットワーク上を自由に移動する。それに対して人間たちは、身近なパソコンを破壊することで幽霊の侵攻を防ごうとする。どちらかと言えば『パルス』に近い設定が採用されているのだ。

 

回路

回路

 

 

 他ならぬ映画版で、「あかずの間」とインターネットがそれぞれ異なる機能を持ったメディアとして描き分けられたこと。穿った見方をするならば、ここから、本作のアンチ・インターネット的性格を読み取ることもできるだろう。

 映画・写真前史たるカメラ・オブスクーラを想起させる「あかずの間」は、映画(もしくは映画館)の隠喩である。幽霊を召喚し、住まわせることができる映画(館)に対して、パソコン画面に映っているのは幽霊ではなく、まるで幽霊のようではあるが本物の幽霊ではない人間(幽霊未然の者たち)の姿ばかり。要するに、本作に登場するインターネットには「あかずの間」=映画の機能が備わっていない。このインターネットでは映画を見ることができないのであり、それを使ってできることと言えば、せいぜい、新作の公開情報を閲覧したり、映画館へのアクセスマップを調べることぐらいなのだ。