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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

門眞妙さんの絵画についての短いテキスト

アート お知らせ

 

門眞妙さんの絵画についての短いテキストを書きました。


このテキストは中国語に翻訳され、今月台北でおこなわれるアートフェア「Young Art Taipei」で、門眞さんの作家紹介のようなかたちで公開されるそうです。

門眞さんの出品作品は、4月3日(金)から新宿眼科画廊にておこなわれる上記アートフェアのプレビュー展でも見ることができますので、ぜひともご覧ください。

 

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「preview of YAT」展

LEE KAN KYO / MIRAI / 町田ひろみ / 門眞妙

http://www.gankagarou.com/sche/201504previewofyat.html

 

以下、執筆したテキストの日本語版を掲載します。同世代の作家について書くのはとても楽しい経験で、またこういう機会があれば良いなと思っています。

 

 そのたびごとにただひとつ 門眞妙の絵画について

 

門眞妙は「風景」と「少女」をくり返し描く。その風景はまるで少女の心象風景のようであり、あるいはその少女は風景を擬人化した姿であるかのようだ。いずれにせよ両者は分かちがたく結びつき、まったく同じ表情を浮かべている——。

日本人の郷愁を誘う団地や遊園地。東京の新たなシンボル・スカイツリーが遠くに見える古い墓地。いずれビルか何かが建つのであろう広大な更地。門眞が描く「風景」に共通しているのは、まるで永遠に時が止まったかのような印象と、それでもやはり刻々と時は進み続けているのだという感慨の二重性である。

彼女は常に現在を見ている。例えば昭和期(1926〜89年)を思わせる古い街並も、当時の様子の再現ではない。建物は老朽化し雑草が生い茂っているが、まだ廃墟にはなっていない。現在進行形で人びとが暮らす生きた街として描かれているのだ。

それはありふれた、見慣れた景色であり、いつまでもそこに在ると錯覚しそうになる。しかし10年後も同じ場所に同じ風景が残っている保証はどこにもない。門眞はそうした風景に愛情を注ぎながらも、変わり続けていくことを拒むのではなく受け入れ、二度と戻ってこないひとつひとつの瞬間をしっかりと見届けようとする。

同じことが「少女」にも言える。私たちがいま街で目にする少女たちは、当然のことながら10年前に見た少女とは別の誰かである。また、門眞の参照元であるアニメや漫画にくり返し描かれてきた少女たちも、その時々の流行や作者の画風の変化に合わせて、その都度別の顔や表情を背負わされてきた。

一見何も変わらないようで、実の所、いつまでも同じものなど何ひとつないのだということ。そんな事実を門眞は平面に刻みつける。とりわけ近年の作品に描かれた少女たちは皆、自身が少女であることからの卒業を間近に控えたような表情を浮かべている。永遠に止まっていた時間が再び動き出そうとしているかのような、まさにその瞬間が捉えられているのだ。

それはおそらく作者の「少女」というモチーフからの卒業を示唆するものではないし、アニメや漫画に登場する少女像への安易な批判でもないだろう。門眞が描くのは、決して別の何かと交換することができないものである。彼女の絵画を前にした観者はその都度、ただひとつの風景、ただひとりの少女と向き合うことを促されるのだ。