qspds996

揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

ジルベール・コアン=セア『映画哲学の諸原理に関する試論』

 

フィルモロジー―映画哲学 (1980年) (エピステーメー叢書)

フィルモロジー―映画哲学 (1980年) (エピステーメー叢書)

 

  

(1)ジルベール・コアン=セア


・Gilbert Cohen-Séat

・1907年生まれ。フランスの映画理論家、コミュニケーション研究家、映画監督。パリ大学映画学研究所所長、「国際映画学雑誌」主幹として、映画研究をアカデミックなものにすべく尽力した。主な著書に『フィルモロジー 映画哲学』(原題「映画哲学の諸原理に関する試論」、1946年)、『人間の行動——映画とテレビ』(共著、1961年)、映画作品に『三歳の子供の眼から見た“世界”』がある。


(2)フィルモロジー/映画学


・フィルモロジー(Filmology、映画学)とは、第二次世界大戦後のフランスで起こった、学問としての映画研究を模索する動向である。

・その主導者であるコアン=セアは「フィルモロジー」について、映画という「特殊な諸現象の総体を対象とするある秩序だった認識」を指すと述べている(p.8)

・彼は、芸術学、美学、社会学、心理学、経済学など、様々な学問領域で個別におこなわれてきた映画研究を統合・統一し、映画の基本的特質を解明する「映画の本質についての学問」を確立すること(映画哲学 Philosophie du Cinema)を目指した。

・「多様な領域にわたる映画の研究をささえ、まとめあげ、体系づけるいわば基礎学」(浅沼圭司)


(3)『映画哲学の諸原理に関する試論』

・『フィルモロジー 映画哲学』(小笠原隆夫、大須賀武 訳、朝日出版社、1980年)
・『映画理論集成』(武田潔 訳、岩本憲児・波多野哲朗 編、フィルムアート社、1982年)※第四章のみ


・目次

 第Ⅰ部 現代文明における映画[シネマ]
  第一章 映画[シネマ]の侵入
  第二章 映画[シネマ]とヒューマニズム
  第三章 映画[シネマ]の諸問題
  第四章 研究の対象

 第Ⅱ部 基本的な諸概念
  序論
  第五章 観客の存在
  第六章 映画的感動
  第七章 技術と意味
  第八章 約定的言語活動[ランガージュ]の諸形態
  第九章 フィルム的論述[ディスクール
  第十章 スペクタクル
  結論

 一九四六年版への二つの序文
  序文(アンリ・ロージェ、ソルボンヌ大学教授)
  映画学[フィルモロジー]に関する巻頭の考察(レーモン・バイエ、ソルボンヌ大学教授)

 訳者あとがき



・当時としては異例の、映画作品名も作家名も全く登場させずに語られる映画研究書。

・『フィルモロジー』におけるコアン=セアの画期は、映画作品[フィルム]についての研究と、映画[シネマ]についての研究とを区別したことにある。ただし、同書ではまだ具体的な考察をおこなうわけではなく、それらについてのより一般的な観念を形成することが目的であるとしている。コアン=セアは、やがては、「すべての研究対象を特徴づける、哲学的、科学的、実際的、という三つの観点から方法的に映画を考察しなければならない」(p.302)と述べている。


(4)フィルム的事象/シネマ的事象


・コアン=セアの最大の功績とされているのが、フィルム的事象とシネマ的事象の区別。『フィルモロジー』訳者は、言語学ソシュールによるランガージュのラングとパロールの区別や、デュルケムの社会学の成果を取り入れたのではないかと予想している。

 

 

フィルム的事象(フィルム的現実、le fait filmique)

・映像の結合によって決定されるシステムにより、生を、世界や精神の、人間や事物の生を表現することに関わる(『フィルモロジー 映画哲学』訳)

・生を、世界や精神の生を、想像力や生き物や事物の生を、映像の組み合わせという特定の体系によって表現すること(『映画理論集成』、p.160)

※ここで言う映像とは、自然の、あるいは慣習的に規定された視覚的映像と、音響あるいは言語による聴覚的映像のこと


シネマ的事象(映画的現実、le fait cinématographique)

・人生から与えられ映画によって形態化される材料、記録や観念、感情を人間のグループの中に伝達することに関わる(『フィルモロジー 映画哲学』訳)

・シネマ的事象の特質は、記録・感覚・観念・感情といった、生活によってもたらされ、映画によってそれなりのかたちを与えられたさまざまな素材の集積を、種々の人間集団のあいだに流通させることにある(『映画理論集成』、p.160)


(5)映画的スペクタクル

・どんな映画にも映画的スペクタクルを構成する二つの特有な要素が分ちがたく結びついて存在している。そのひとつは、輝く広いスクリーン(いわば感覚的知覚的刺戟)であり、もうひとつは、映像の表現内容の同時的コミュニケーション(知覚の心理的情緒的構造にもとづく遥かに複雑な刺戟)である。感受性のすべての面に訴えるこのスペクタクルの動因が、我々の感覚器官と精神の機能の異常な適応を強いていることが理解されるだろう。(p.30)

 感覚的知覚的(sensorio perceptive)
 心理的情緒的(psiko affective)

・観客は、気晴らしやうさ晴らしをすることによって、退屈(思考の減退、心情の放棄、もって生まれた好奇心の衰退)強い欲望を抱いている。この欲望は「レクリエーションをしたい」という肯定的な欲求として現れる(レクリエーション(se récrée)と再想像(re-créer)の類似)。

・こうした欲求は、退屈を知らず、不断のレクリエーションの能力を持った子ども時代の思い出に由来する(子供は純粋な芸術家でありスペクタクルの完成である現実の素晴らしい観客でもある)。しかしそうした能力は、その子どもが成長するにつれて制限され、減少していく。やがて実生活のありようが優位を占めるようになり、個人性さえも社会的個の中に溶け込んでしまう。

・「退屈の問題は、各人にとって退屈という刑の宣告というかたちで最終的に提起される。だから控訴しなければならない。自らを再想像(re-créer)しなければならない。(p.268)

・「そこに、スペクタクルという新たな光に照らされた遊戯が登場する。スペクタクルとはつまりエキシビジョンである。その対象が何であれ。ドラマであろうと絵であろうと、踊りであれ彫像で(p.268)あれ、動く動きであれ動かない動きであれ。それはもはや、視線によって包括されるものすべてでも、この全体の中で視線を引き留めるものでさえもない。それはいまや意図的に提示され、一定の枠取りと一定の強調を与えられ、注意とある種の模倣の対象として意識的に差し出され、共感を生み出すべく提出されたスペクタクルである。」(p.269)

・「原初的な遊戯の進化は、ここで分裂して、一見相反する二つの方向をとった。芸術は子供がもっているような普遍的で根本的な性格を保持している。逆に、いわゆるスペクタクルは人間の多様性を採り入れ、人間と同じく様々な特殊性を生み出した。そこから、観衆の途方もない分裂が起る。縦には、各種の特権にもとづいて、また横には、民族や習慣や情念の粒が打たれる麦打ち場の上で。人間が、うさ晴らしをする、多かれ少なかれ親密なグループのうちに遊戯と遊戯者が閉じ篭りさえすれば、あらゆる人に、あらゆる気晴らしがある。このグループは、一地方から一州、一街区、一家族へと縮小したり、あるいは反対の道をたどって、一職業から、国際的な協会へ、一人のアイディアから、ボーイスカウト救世軍へ、一人の億万長者の気まぐれから、ロータリークラブへと、拡大することもある。それにもとづいて、各人が、そべての他人を判定する。結果は一目瞭然である。芸術はその機能を保持しているが、スペクタクルは自分の機能を鈍らせてしまった。平凡な遊戯は、大勢の人達の遊戯になって、ルーチンに再び戻る。そして、何人かの人の普遍的な特権である純粋な遊戯は、難しくなって、大多数の人(p.272)に不器用さを復活させる。一般に、観衆は、芸術作品からもはや大したものを受け取らない。また、自分が接するスペクタクルからも、一時的な気晴らし以外、ほとんど何も受け取らない。」(p.273)