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揺動メディアについて。場所と風景と映画について。

ネット映画は曲がりなりにも成熟しつつある/レヴァン・ガブリアゼ『アンフレンデッド』

 

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泥酔動画をウェブにアップされたことを苦に自殺した女子高生ローラ・バーンズ。一年後、イジメの加害者たちにSkypeFacebookを通じて接触してきたのは、死んだはずのローラを名乗るアカウントだった。そのアカウントは彼らが隠し持つ秘密やイジメの実態を暴露し、さらには一人ずつを嬲るようにして死に追いやっていく。

ナチョ・ビガロンドの野心作『ブラック・ハッカー』(2014年)等と同様、全編がパソコンおよびモバイル端末のGUI画面で進行する。日本公開用のオフィシャルサイトには「斬新」「映画の見方を根底から揺さぶる超問題作」「まったく新しいホラー」といった賛辞が並ぶが、現実には『ブラック・ハッカー』や『デス・チャット』(サカリー・ドナヒュー、2013年)、『サイバー・ストーカー』(ブランデン・クレイマー、2015年)といった先例があり、水面下で動いている企画も数多くあると聞く。手法自体の目新しさはすでにないと言って良い(わたし自身、昨年『落ちた影/Drop Shadow』という作品を制作している)。これらのフィルムをわたしは「デスクトップ・ノワール」と呼んでいる。インターネットに備わる強い主観性と匿名性が世界への不信感と厭世的なムードを煽る、現代のフィルム・ノワールだ。

本作に新規性があるとすれば、ショッキングな殺害描写こそ動画チャット(Skype)の実写映像に委ねているものの、全編の多くの部分をテキスト主体のメッセージのやり取りやマルチウィンドウの操作で構成し、それでいてダレることのない軽快なリズム感を維持できていることだろう。作中人物もしくはナレーターがテキストを読み上げるのではなく、観客に直接画面の文字を読ませる形式を採用しているにも関わらず、こうしたテンポの良さが生まれている要因は、長文を読ませるのではなく、チャットやLINEのように一言か二言の短い文を矢継ぎ早に表示させることで観客の負担を減らすと共に、単調になりがちなGUI画面に動きを持たせていることにある。

こう書くとあまりに単純なことのように思えるが、映像の編集経験がある者にはその難しさが分かるだろう。観客個々の「読む」速度の違いを考慮しつつ、物語を停滞させずに必要なテキストを読ませることは、インターネットを描こうとする映画が常に直面する大きな課題であった(そして大抵のフィルムは、この問題を迂回して動画チャットなどの実写映像に頼ることで、結局インターネットを描くことの意義そのものを見失ってきた)。本作がそれなりの好評を博しているのは、暗中模索を続けてきたネット映画の試みが曲がりなりにも成熟しつつあることを示している。

 

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ポール・シュレイダーの「超越的スタイル」

 

聖なる映画―小津/ブレッソン/ドライヤー (1981年)

聖なる映画―小津/ブレッソン/ドライヤー (1981年)

 

 

ポール・シュレイダー『聖なる映画——小津/ブレッソン/ドライヤー』(山本喜久男訳、フィルムアート社、1981年)についてのメモ。

 

 脚本家・映画監督のポール・シュレイダーは、「超越者を表現する映画のもっとも普遍的な表現形式」を「超越的スタイル」と名付け、そのスタイルを全面的に展開した映画作家として小津安二郎ロベール・ブレッソン、不完全ではあるが部分的に用いた作家としてカール・テオドア・ドライヤーの名を挙げている。彼らはそれぞれ異なる個性や文化・政治的背景を持つが、芸術を通じて超越者を表現しようとする欲求と映画というメディア固有の性質とが相まって「驚くほど共通した映画形式」をつくりだすに至った。
 超越的スタイルは目に見えないものや言葉にできないものを表現することを目的としているが、そのスタイル自体は「現世的な手段」によっておこなわれるのであり、分析や定義付けが可能である。

 では具体的に、超越的スタイルとはどのような方法なのか。シュレイダーは哲学者ジャック・マリタンの『宗教と文化』(甲鳥書林、1944年)を引き、「豊かな手段」と「貧しい手段」の二分法を導入することで説明を試みている。

 さしあたり豊かな手段とは、人間が現世で生を維持したり、財産を得たり、官能的な気分を味わったりするための手段を意味している。これを映画に置き換えると、観客を物語にのめり込ませ、自然に登場人物への感情移入を促すような働きが豊かな手段であるとされる。

 一方の貧しい手段は、現世での物質的成功や快楽ではなく精神向上のための手段であり、豊かな手段よりも高位で、超越的なものにより近いているとされる。映画における貧しい手段とは、端的に言って豊かな手段を用いないことと同義である。従って、何かしら特殊な方法を新たに生み出す必要はないとシュレイダーは述べている。

 超越的スタイルは、映画がそのメディアの性質上得意とする豊かな手段の使用から出発しつつ、時間の経過の中で段階的に豊かな手段の使用を減らし、貧しい手段の比率を増やしていく。

 具体的には、まずは日常的なものによる「乖離」の段階がある。映画に描かれるありふれた日常は観客にとって親しみがあり、そこに生きる人々への感情移入も生じやすいが、一方で、決まりきった仕事や生活が繰り返される反復的な日々を、淡々と、厳格に描き出していく小津やブレッソンの日常描写は、その表現形式自体が前景化し、物語への没入を拒む異化効果を生じさせる。これが乖離である。

 そしてさらに豊かな手段を減少させていき、やがて貧しい手段が最大となった段階が「静止状態」と呼ばれる。それはブレッソンの『ジャンヌ・ダルク裁判』における火刑後の柱のショットのように、一つの映画の終わりを示唆する静的な光景である。しかしそこには「神秘主義の深淵」が大きな口を開いており、観客は静止した映像の向こうへとずんずん進んでいく。シュレイダーは、これこそが聖なる芸術の「奇跡」なのだと主張する。